二番目にキスしてくれた人

あおなゆみ

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知らない事の美しさ

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 いつも通り鍵を返し、職場を出たところだった。
冬。
彼が去って、二年経っていた。
彼と一緒にいた期間より遥かに長い時間だ。
私の生活に目立つ変化はない。


 一度しか見ていないのに、忘れられないほど綺麗な人だった。
以前とは正反対な色、黒のダウンコートを着ていた。

「こんばんは」

 その人は名乗り、じんの事で話があると言った。
さらに私の名前を尋ね、時間があるかと聞いてきた。
断ることは出来なかった。
沙友理というその人は真剣だったから。
怒ってるわけでも、からかってるわけでも、楽しんでるわけでもなく、真剣に私に言いたい事があるようだった。
 でも何より驚いたのは、突然私に会いに来た事ではない。
沙友理さんの瞳が、彼の瞳に似ていたからだった。
私にしか判断できないほどの微小なものかもしれないけれど、鋭さのあるその瞳にただ驚いた。


 沙友理さんに導かれるまま、近くの薄暗いカフェに入った。
私には緊張感しか与えない空間だった。
ただ、明るいカフェに行っていたとしても、緊張感は同じだったかもしれない。

「話って何でしょうか?」

私は、なかなか話を切り出さないその空気に耐えられずに聞いた。
沙友理さんは深い呼吸を数回繰り返した後、ようやく話し始めた。

「じんの好きな人って言うのは、あなたの事で間違いないですよね?」

「それは...今の事ですか?それとも二年前の...」

最初の質問が予想外過ぎて、私の緊張はさらに高まる。
私が戸惑っているのが分かったのか、沙友理さんの表情がさっきよりも柔らかくなる。
私を見て、自分の表情も硬くなっていた事に気付いたのだろう。
 沙友理さんの空気感。
どこか懐かしさを感じた。

「私も二年以上、じんに会ってません。やえさんも同じだとは思うけど...だから二年以上前の話です。その当時お付き合いしていたのは、やえさんで間違いないですよね?」

「はい。そうだと思います。彼がどう思っていたかは別として、私は彼の事が好きでした」

彼の私に対する想いが確かだったのか、今になって不安になる。
私は急に自信を失い、彼の想いは曖昧にした。
 彼への想いを口にするのは、祖母に好きな人の話をして以来の事だった。
彼を好きだという確認。
心ではなく、言葉で。
二年の間にまともにしていない。
話す相手もいないから、出来ないという表現でもいい。
言葉にする事でさらに重くなる。

「心配しないで。じんはやえさんの事、本当に好きだったから」

沙友理さんが私を傷付けるために、わざと過去形で言っているのではないと分かっている。
でも私は切ない思いになる。

 沙友理さんのピアスかイヤリングか、それがとても綺麗だった。
月の形で大き過ぎず、小さ過ぎず、素敵だった。

「最初に言いましたけど...じんの事で来ました。じんの今の事で」

 私はニ年間ずっと、彼を待っていた。
彼へ想いを巡らすのが一番の幸せで、それ以外は何もないようなニ年。
彼を待っていたのに、彼じゃない人から彼の現状を知らされるのは不本意だった。
でも、知りたくて仕方がない。

「教えて下さい」

沙友理さんは私の許可を得た事で、本当に決意が固まったようだった。

「じん、警察に捕まったの」

「え?」

私の想像力では足りないところに現実はあった。
彼の今。
彼の涙を思い出した。
優しさも。
色々と思い出してはいるはずなのに、頭が真っ白なような、混乱の中に私はいた。

「刑務所にいるわけではないです。執行猶予付きだから、今はもう戻ってます。れんも釈放されて...れんって、じんの兄の...」

「分かります。お兄さんの話は聞きました」

「じんが自分の事を話すなんて...」

驚きを隠そうと必死な様子だった。
私はその様子が気になったけれど、それよりも彼の事が気になる。

「じんは、どうして警察に?お兄さんのせいですか?」

「人からお金を騙し取ったんです。元々れんの仲間だった人達と一緒に。れんだけじゃなくて、れんを悪くした、あるいはれんが悪い影響を与えてしまった人達を丸ごと止める為。兄貴を止める為には自分が悪くなるしかなかったって...」

信じられなかった。
憎んでいたお兄さんの為にそんな事をしたというのも、その為に誰かを犠牲にして傷付けた事も。
本当にお兄さんの為なのだろうか?
 彼はあの瞳の鋭さで、犯罪を犯したのだろうか。
それとも、幼いだけの瞳で、懸命に何かを変えようとしたのか。
怯えながら。

「じんはすぐに自首して、被害者の人にお金を返しました。最初から騙し取る分のお金を用意してたみたいで。多分、警備員以外の仕事もしてたはず。すぐに返せるように」

「じんは大丈夫ですか?体調とか...お兄さんは釈放されたって言ってましたけど、じんと会ってるですか?」

「たまに、会ってるみたい。私もこの間やっと、れんに会ったの。反省してた。人が変わったというよりかは、昔に戻った感じ。犯罪の事もそうだけど、どうしてあんなに、じんに執着してたのかって苦しんでた。まあ、しばらくは苦しむべきですよね...そういう状況だから、じんの事を詳しくは聞けなかったけれど...ずっと、れんの事で悩んでたから、その悩みが消えたという意味では落ち着いているのかもしれないです」

「沙友理さんはどうして、じんに会ってないんですか?」

沙友理さんは聞かれたくない事を聞かれたような表情をした。
そんな戸惑いの表情ですら綺麗で、私はその表情を彼も知っているのかが気になった。

「うん...会う自信がなくて」
 
「会う自信?」

「うまく言えないんですけど...なんて声を掛けていいかも分からないし」

沙友理さんは何かを隠している。
その秘密を私は知りたくない。
沙友理さんはきっと、私の為に嘘をついた。
じんに会わない、会えない理由。
 
 沙友理さんの嘘はなんだか、彼の優しさに似ている。
他の人をできるだけ悪者にしないよう仕向ける嘘。 
彼らなりの優しさの表現。
彼が初めてお兄さんの話をした時、恨みながらも悪く言えない、罵る事もできない彼の性質に心が痛んだ。
自分と似ているからなのかと最初は思ったけど、共感と言うよりは、もどかしさやどうして?という気持ちが強かった。
だからその時は、私が知らない優しさを前に、もっと彼の事を知りたくなった。
 同時に、初恋の相手、夏也に別れを告げた時の感情を思い出していた。
自分に似ていない夏也の部分。
自分が知らない事に対する美しさのようなものだろうか。
儚くも切ない秘密のようなものでもある。
確実に理解する事など出来ない感情の動きとも言えるだろう。
彼と沙友理さんの間だけにあるもの、似た者同士の私と夏也の間に出来た違い。
それ以上触れたり、線を越えようとすると何かが壊れてしまう秘密の領域。
それが知らない事の美しさ。


 沙友理さんがコーヒーを飲んだり、周りをちらっと見たりする度、月の形が顔の横で揺れた。
私はこの人にどう思われても良いから、本音を言おうと思った。
一番好きなものを堂々と言おうと。

「出来れば今すぐ、じんに会いたいです。じんがいなくなってからの私の生きがいは、彼の事を思い浮かべて待つ事だけでした。でも、現状を聞いたら...お兄さんの事、過去の事を話してくれた時みたいに隣にいてあげたいんです」

何も迷いはなかった。
目の前にいる沙友理さんの事も、過去も。
私には似ていない、彼。
私の知らなかった優しさを持つ彼。
二番目のキスの相手であり、二番目の恋の相手。

「沙友理さんがわざわざ教えに来てくれたのは、じんに会う機会をくれようとしたからですよね?」

月の形は揺れる事なく、沙友理さんは真っ直ぐに私を見ている。

「はい。もう私に出来ることはないから」

それだけは言わないと気が済まないというような口ぶりだった。
”もう”という言葉のチョイスは、私の知らない彼との出来事を詰め込むのに十分な表現だ。
 でも私としては、彼の現状を教えてくれただけで有り難かった。


「やえさん」

帰り際、沙友理さんは言った。

「どんな、じんでも受け入れようっていう気持ちですか?」

私は心ではそのつもりで決心していたけれど、いざ他人の口から聞くと即答は出来なかった。
それでも、言葉にする事にも意味があると思った。
彼に関わる事は特に、不言実行にはできない。

「はい。そのつもりです」

沙友理さんは切ない目をする。
私を哀れむように。
でもその視線を向けられても嫌な気分にはならなかった。
心配してくれているのが痛いほど伝わってきたから。

「その考えは良くないと思う。でも、どうしようもないって事も理解できます」

必死に言葉を探しているのも伝わってきた。
沙友理さんの心境も複雑なのだろう。
 そして、最後に私に言ってくれた言葉で、全てが美しくまとめられた感覚になる。
沙友理さんが彼と同じ優しさを持つ人だったから。

「初めて会話した人にこんな事を言うとは思ってなかったけど。というかそもそも、誰かにこんな事を言うのは初めてですけど...やえさんが幸せになってくれたら嬉しいです」

私はその言葉を素直に受け止める事ができた。
その言葉を放つ沙友理さんは、キスしたらどうなるか聞いた私に

「幸せになる」

と言った、彼と出会ったあの日を思い出させたから。
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