二番目にキスしてくれた人

あおなゆみ

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違和感の正体

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 僕の夢がまたひとつ叶った。
彼女が僕を好きだと言った。
それなのに、何か大きなものが邪魔して、僕の気持ちを曖昧なものに変えてしまう。
泣いてしまうと思っていたほど望んだ事なのに、僕はどうしてしまったのだろうか。
 いきなりだったから。
違う。
それなら僕らの出会いだって、いきなりだったのに、言葉は迷いもなく放たれた。
答えは見つからないようで、実ははっきりとした色を持ち、自己主張を始める。
 間違いなく、関わっている人物がいる。
沙友理さんだ。
僕に向けて言った、「同じだったから」という言葉。
今まで話した中で一番、真剣な口調だった。
共感された事で、僕の感覚はおかしな方向へ曲がってしまったのだろうか。
 鏡に映るような沙友理さんを真っ直ぐに見られなかった過去。
四年経った僕は、鏡から目を背けずに、僕と同じ気持ちの沙友理さんを真っ直ぐに見つめる事ができるようになっていたのだ。
僕はこの気持ちを知らないでいられるのなら、知らないままでいたかった。
過去への後悔が大きくなるだけだ。
ふとした瞬間に思い出す事が増えてしまっただけ。


 次の休みの日、僕はやえさんと少し離れた所にある街に向かった。
汽車で一時間弱。 
初めての遠出だった。
 汽車に乗っている間、僕は気付かれないように彼女の様子を伺った。
僕を好きだと言った彼女を。

 僕ら二人の間には、何とも言えない空気が流れる。
深く考えないようにすれば、冬ならではの空気感とでも勘違いできるかもしれない。
でも、それだけじゃない。
特別な緊張感に、これまでの勢いが滞るような感覚。
彼女が僕を好きなのは伝わってきた。
ただ彼女は僕に、これ以上心を踏み込むのを避けているように感じる。


 ガラス工芸品や雑貨、アクセサリー。
それにポテトやコーヒーにチョコレート。
小さな店が集まった長い通りで僕らは初めて手を繋いだ。
どちらからともなく、自然で当たり前の流れ。
彼女の手の小さく細い感触。
温度は特別感じられなかった。
おそらく、僕らの手の温度は同じようなものだからだろう。
 僕は、彼女がそうしてくれた事が嬉しくて、彼女の方を見た。
彼女は僕が彼女を見る前から僕を見ていたようで、僕に優しく微笑みかける。
その瞳は、初めて出会った日の、欲望と、孤独から救われたような期待を思い出させる。
 僕が彼女に望むのは、側にいて欲しいという事だけだと思う。
切なくも、一番難しい願いを彼女に。
 手を繋ぎ歩く、この通りが永遠に続いて欲しかった。
彼女といると、今までは考えた事もないような願いがスラスラと、色をつける間もなく浮かんで流れてゆく。
映画のエンドロールみたいだった。


 小さな子供が雪玉を作っていた。
母親にそれを笑顔で自慢する。
母親も微笑んだ。

「好きな季節は?」

僕は彼女に聞いた。

「冬。今日みたいに程良く寒い日が好き」

冷たい風が吹く。

「程良い?」

僕が笑いながら聞くと、彼女は

「耳、赤いよ。寒いの苦手なんでしょ?」

と手を繋いでいない方の手で、僕の耳に触れた。
温かった。

「私が生まれた所が、もっともっと寒かったからかな?このくらいは丁度良いの」

「そうなんですか」

彼女は手を離し、

「また敬語。時々、タメ口と混ざるよね」

と、僕に年齢を確認したあの日とは違う優しい声でからかう。

「逆の立場だったら、年上にタメ口を使う難しさが分かるよ」

「そう?」

「はい。あ、うん」

 僕はこんな何気ない会話が楽しくて仕方がなかった。
頭に浮かぶ言葉を好きに選ぶ楽しさがある。
兄貴といた時は、言葉を探すのに必死で、気を遣い、兄貴が良い思いをする努力だけをしていた。
その癖が抜けず、堅苦しくなる事のない親しく仲の良い友達にも、同じ作業で会話をしてしまう事がよくあった。
相手が喜ぶような事を言いたくないのに言っていた。
今は、選択肢が沢山ある。
言いたいことも言えて、言いたくない事は言わなければ良いのだ。
僕は彼女に知って欲しい僕だけを伝える。


「お腹も空いたし、じん寒そうだし、どこか入って何か食べよっか」

彼女は僕の手を引き、僕より前を歩いた。
こんな風に優しく導いてくれるのなら、僕はやはり彼女が好きだ。
それなのに、こんなタイミングで沙友理さんの言葉を思い出す。
僕の気持ちを理解し、だからこそ好きになってくれた人。
僕は逃げただけの人。
何にも立ち向かわずに。

「大丈夫?」

彼女が振り返り言う。
僕の気持ちを察したように。

「大丈夫」

彼女が僕の気持ちを察していなくても、理解できないとしても。
彼女だけが持つ優しさが良かった。
彼女の隣が良かった。
この心地良さを知ってしまったのなら、逃げて来た事実さえどうにでもなる気がする。
兄貴の隣で従順に生きてきた僕なら、うまく心を操作できるはずだ。
 だから僕はすぐにさっきまでの考え、沙友理さんの事や兄貴の事を捨てるようにどこかに追いやり、彼女の隣に行けるよう、歩みを速めた。
そんな僕に気付いた彼女は少しだけ歩みを緩めた。



 予想はしていたから、兄貴が再び現れた時、少しも驚かなかった。
問題は違う点にあった。
そのタイミングに僕が彼女と一緒にいた事だ。
二人で一緒に仕事から帰る所だった。

「じん」

高そうな黒いコートを着た兄貴は、僕を呼んだ。
彼女の方に視線を移し、すぐにまた僕を見る。
近づいて来ようとする。
まだそこそこ距離はあった。

「ちょっと待って。動かないで」

僕は兄貴に指図する。
兄貴は驚いたように足を止め、僕を睨んだ。
睨んでいるつもりはないんだろうけど、僕にはそう捉えるしかない瞳だ。
昔から、変わらない。
ただ今は、彼女をここから遠ざけたい一心だった。

「やえさん。今日は先に帰ってて下さい」

「でも...」

「後で。後で会いましょう。ね?それでいいでしょ?」

僕は懇願するように彼女の目を見た。

「言ったよね?私、じんが好きだって。だから隣にいる。多分、何も出来ないと思うけど...」

その言葉は僕の複雑な感情を越えて、心の全体に、音を立てぬように優しく被せられた。
僕は泣きそうになる。

「じん」

兄貴が近づいて来た。

「動かないでって、何だよ」

僕の前に立ち、笑顔で彼女を見る。

「初めまして。じんの兄です」

親しさを感じられるように調整されたその声色に、僕は改めて自分のこれまでを後悔した。
どうして刃向かえなかったんだろうか、と。

「初めまして」

彼女は堂々と言った。

「この間、沙友理来ただろ?」

兄貴は僕だけを真っ直ぐに見た。

「来たよ。バラしてごめんって。居場所」

「そうか。他には何か言ってたか?」

他に言える話はない。

「特には」

兄貴は何度か頷きながら、ようやく僕から目を逸した。
その表情に、違和感を覚えた。
この違和感。
前にも感じた事があった。
兄貴が少しずつ変わっていった時期だったろうか。
そんな兄貴と一緒にテレビを見ていた時だろうか。

「その反抗的な目がいいね」

と沙友理さんが言った時もそうだった気もする。
何度か感じた事がある違和感だ。
ひとつの疑念が湧く。


「兄貴が頼んだの?俺を殴れって」

僕は違う事を祈りながら、意を決して質問する。

「え?」

表情からして、本当に知らないようだった。
兄貴がその件に関わっていないのを、僕はどこかで願っていた。

「知らないならいいんだ」

兄貴はさらに近づいてきて、僕の顔を隅々まで見た。

「この傷跡?やられたのか?いつ?」

なんで優しい表情になるんだよ。
なんで本当に心配してるんだよ。
心の中でそう思った。
そして、いつ、どのタイミングで、誰が関わって、変わってしまったんだよ、と問いかけたかった。

「ごめん。本当に」

その弱そうな姿を嘘だと思いたいのに、思えない自分もいる。
会っていない四年がそうさせたのか、兄弟という関係のせいか、それは分からなかった。
 これ以上謝られるのが嫌で、僕は兄貴の顔色を習慣のように伺っていた。
久しぶりに、四年振りに、この感じを味わった。

「前にも言ったけど、もう構わないで欲しい。あと、沙友理さんだけど」

「沙友理がなんだ?」

「もう会いに来させないで欲しい。好きな人がいる」

兄貴の目の色が変わった。
そこでようやく気付く。
違和感の正体。
気付くのが遅いくらいだった。
兄貴はやえさんの方を見た。
彼女はただ黙っている。
このタイミングで、僕から沙友理さんの名前を出すのはどうかとも思ったけど、確かめるべき事だった。
そしてその成果として、僕が知らなかった兄貴の本心を知る事が出来た。

「沙友理の事、好きでもないのに、しょっちゅう会ってたのか?」

兄貴は怒りでも苛立ちでもない、悲しみに近い声で聞いてきた。
悲しみに近いその声は、何故か懐かしくて、僕を感傷的にも強気にもさせた。

「兄貴が会えって言うからだよ」

「沙友理の気持ちを知りながら?」

「そうだよ」

兄貴が怖かったから。
それだけだよ。
沙友理さんもそれを分かって僕と会ってたんだよ。
 洗脳されたフリをしながらされてない、と思っていた過去の僕はある意味、そんな事をしている時点で洗脳の領域に入ってしまっていたのかもしれない。

「もう行くわ。本当にもう会いにこないでほしい」

僕は昔とは違う、ただ先を急ぐ人の冷たい声で言った。
やえさんはそんな僕を心配そうに見ていた。
僕は大丈夫というように頷き、うまく笑えているかは分からないけれど微笑んだ。

「刑務所に行くような事をしたのは悪かった。それに、誰が密告したのかくらい分かってる。でも、じんのはきっかけに過ぎない。どちみち捕まってたよ」

兄貴は僕がバラした事を知っていた。
もしくは、予想だった気もするけれど、ここで確かめようとしているのだ。
僕は隠すのがうまかったはずだ。
兄貴に従順な弟を演じてきたから。
ただ、今は。
今はもう、そうはいかない。
僕の表情から、きっと兄貴は読み取っただろう。
動揺と反抗の意思を。

「家族として、兄弟として、俺を許してほしい」

沙友理さんは言っていた。
兄貴はまた悪さをしていると。

「許したところで、兄貴は変われるの?」

兄貴は何も言わずにいた。
あくまで冷静に、言いたい事を伝える。
それが今の僕の最善だった。
彼女に危害がいかないように。
沙友理さんが今後、兄貴を恐れないように。
兄貴が変わってくれるように。
そんな願いを浮かべた。
この瞬間は、彼女と沙友理さん、二人が僕を強くした。


「俺の事、嫌いか?信じてくれてたんじゃないのか?」

僕はそれには答えず、彼女の手を引きその場を去った。
どうしてこうなってしまったのか、もう分からない。
どうしようもない事だったのだろうか。
過去への後悔が、はばかりなく溢れる。
 その時、彼女は僕の手を強く握った。
そこでようやく、彼女の手は僕より少しだけ温かい事に気付く。
彼女の温もりを意識した所で、張り詰めた僕の心の中の何かが和らいだ。



「隣にいてくれてありがとう」
 
しばらく無言で歩き、やえさんの家が近くなったところでようやく口を開いた。

「私、本当に何もできなかった」

「十分助けられたよ」

「じんって怒ったことない?」

「え?」

「怒り方を知らないんだろうなって思った。怒るくらいなら自分が我慢した方が楽だって思ってるでしょ?」

「いや...うん。前まではそうだった」

「今は違うの?」

「うん。今だって、結局は兄貴に言いたいこと言ったし。それに、やえさんの前で平気で泣いたりしたから。今は違うと思う」

「そっか」

 彼女の何気ない言葉は、僕をどうにでも操作できる程の力を持っていた。
僕は弱い気持ちの時にだけ、彼女に想いを伝えたいわけではないはずだ。
なのにどうしても、心が苦しくなる度に、涙が出そうになる度に伝えたくなる。

「やえさん、好きです。この間、伝えられなくてごめんさない」

「私も好き。この前伝えた時よりもずっと」

ずるい。
躊躇もせず、彼女に弱さを見せている自分が。
ただ受け入れてもらっているということ自体が。
彼女への好きという言葉は、弱い心で傾いた天秤を水平にする為に放つようなものだったから。
出会った時に既に生まれていた彼女への愛はそういうものだった。
この間、好きだと言えなかったのも、僕が弱い気持ちになるたびに想いを言葉にしているようで嫌だったから。

 でも今日は違う、そう思っていたい。
どんな方法でも確かめることの出来ないほどの愛だと思っていたい。
僕は、彼女を抱きしめた。
そして、彼女はもう一度

「好きだよ」

と言う。
僕は夢が叶ったとようやく確信し、泣きたくなるのを必死に堪えた。
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