二番目にキスしてくれた人

あおなゆみ

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唯一の弱点

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「体調とか大丈夫か?」

夜八時を回っていた。
兄貴が訪ねてきた。
兄貴が釈放されてから何度か外で会ったけれど、本当の二人っきりは久しぶりだった。
ぎこちない空気が部屋中に溢れる。
 
 あんな方法でしか、目の前にいる兄貴を変えられなかった。
あんな方法しか思い付けなかった。
そんな自分に嫌気が差しながらも、後悔する事も諦めている。
道は一つしかなかったかのように。
映画とかドラマだって、そんなものだから。
なんでそっちを選んでしまうのか、どうしてそんな事をするのか、と見ている人をもどかしい気持ちにさせる。
でも当の本人は、その道を信じるしかないのだ。


 沙友理さんと最後に会った日。
沙友理さんという兄貴の弱点を見つけたからこそ、兄貴という沙友理さんの弱点を見つけたからこそ、僕は兄貴を沙友理さんに任せた。
任せるというより、押し付けるようにして。
弱みを掴んで、勝手に解決しろと宣告するかのように、僕は逃げた。
兄貴から去った十八歳の誕生日のように。
 それでいいんだ、と自分を納得させた。
だけどその納得は一日も持たなかった。
僕の鏡を放っておける訳がなかった。
沙友理さんが関わっていなければ、僕は兄貴なんて構わずに、やえさんの元へ逃げていたかもしれない。
でも、沙友理さんがどうしても兄貴の側から離れられないと言うのなら。
過去の兄貴に対する恩を綺麗なままにしたいのなら。
兄貴に対する想い、恋もしくは愛を、本人でも気付かないような心の奥からすくい上げるのなら。
僕はせめて、兄貴に強く罪の意識を芽生えさせなければならない気がした。
 僕の鏡である沙友理さんも、僕が無条件にやえさんを信じたように、なんの疑いもなく、兄貴の事を信じてほしい。

 僕らはそれぞれに信じたい人がいて、信じてしまう人がいる。
言葉にするのが難しい理由があり、愛があり、欲望もある。
そして、鏡を見つけてしまう。
そこから選択肢を与えられる。
鏡を見捨てるべきなのか、見捨てないのか。
僕は、後者だった。


 兄貴の仲間がいる部屋は薄暗かった。
そして、そこにいる人にだけ漂う匂いがした。
僕を見た男達の目。
好奇心と悪が混ざった笑い声。
その中には僕を殴り、蹴った男もいた。

 騙し慣れているこの男達は僕に騙されるだろうか。
騙すのには慣れていても、騙されるのには慣れていないからという理論は通用しない予感もあった。
でもこの方法しかないと信じ切っている自分としては、騙す自信もあった。
兄貴を騙してきた、ある意味実績もある。
純粋なフリ、従順なフリ。
兄貴が僕に執着していたからこそ感じた反抗心と、安心感。
本当に自分を思ってくれている人ではないのに、自分を必要としている人がいると安心してしまった自分への反抗心。
何が間違っていたかは、僕はもう考えたくない。

 今、兄貴は変わろうとしている。
僕には分かる。
変わるというよりは、遠い昔に戻ろうとしている感覚が強いのかもしれない。
僕がまだ小学生になっていない頃、開かない缶ジュースの蓋を開けてくれた兄貴に。
クラスメイトに酷いことを言われた、小学一年の僕の頭を撫でてくれた兄貴に。
僕には兄貴がひどく幼く見えた。
これまでの兄貴は何かに取り憑かれていたのではないかと、疑うほどだった。
 うまくいったから、これまでの流れを簡単に振り返る事も出来るけど、失敗していたらどうなっていたか分からない。
 

 兄貴はカーテンを少しだけ開け、空を覗くように見上げた。

「今日、沙友理に会ってきたんだ」

「そうなんだ」

「捕まった後、沙友理に会おうとしたんだって?」

「うん。話したい事があったから。でも、返事もなかった。何か言ってた?」

兄貴は少し躊躇してから、僕の方を向いて言った。

「もう、じんの事は好きじゃないって」

僕の鏡は、見つめ続けたい人を見つけた。
決して自分の姿として映す事ができない、決して似る事のできない、それでも信じたい人を。

「兄貴の隣で、兄貴を支えたいって言われたんでしょ?」

「え... 」

兄貴は意表をつかれたというように、目を大きくした。
まさか僕がそれを知っているとは思わなかったんだろう。

 
 数日前、僕は沙友理さんに電話をかけた。
メールの返事もないし、これを最後にしようと思い、繋がるのを待った。

「もしもし」

沙友理さんは僕に何を言われるのか、恐れているようだった。
何を言うべきなのか迷っているようでもあった。

「沙友理さん。お久しぶりです」

「じん...ごめんね。本当に...じんがどうして犠牲になってそこまで...」

「沙友理さん。沙友理さんと初めて本音で話せた日、僕に言ってくれた言葉覚えてますか?僕は悪くないって。あの言葉が僕を救ったし、僕に勇気をくれたんです。もう気付いてますよね?自分の気持ち...」

「自分の気持ち?」

「誰の隣にいたいのか。誰を信じているのか、誰を見つめ続けたいのか」

「気付いてたの?私よりも先に私の気持ち」

「はい。沙友理さんが鈍感なのか、敢えて気付かないようにしてたのかは分からないけど...まあ、沙友理さんは僕の鏡だったから」

「最後に一つだけ言わせて。じんの事が好きっていう気持ちは、私にとって唯一の救いだったの。じんは本当に特別な存在だった」

沙友理さんの声が震える。
僕は自分にまで伝わってきそうな震えを必死で振り払った。

「ずっと兄貴が好きだった、でも認めたくなくて、自分に似た僕を好きだと錯覚した。そう思っていたらダメですか?」

僕はそう思っていたかったから、そう言った。
また、逃げようとしているだけなのだろうか。
沙友理さんの想いから、楽になりたいだけなのかもしれない。
でも言ってしまった言葉は取り消せない。
取り消せる言葉があったとしても、その言葉はあまりにも真実味を帯びていた。
僕の願いとして。

「いいよ。そう思ってて。それが本当かもしれないから」

沙友理さんはただ優しく、そう言った。
そして続けた。

「今回の事も、謝るべきではあるけど、感謝してる自分もいるの。私、れんと向き合いたい。私を救ってくれた、あの頃のれんに会いたいから。だから、今度会う約束もしたの」

「そうですか。その時、ちゃんと伝えて下さいね。兄貴は心から喜ぶと思う」

「伝えるね。隣で支えたいって。だから、じんも。落ち着いてからで良いから、ちゃんと好きな人のところに行ってね?」

「はい、そうします。じゃあ」

「うん、じゃあね」

 またね、とは言わないその終わり方で、僕らは鏡である事をやめるようだった。
沙友理さんが兄貴の隣に居続けてくれるなら、僕はそれだけで良かった。
 僕は沙友理さんにもう会わないと決めたし、沙友理さんも同じ思いだろう。
それに、もう少しで兄貴とも会うのをやめると決めていた。
何十年後は分からないけれど、少しだけ兄貴の様子を見届けてから、離れる計画だった。
 長い時間が経って、お互い大切な人の隣で、その人を守れていたのなら。
その時、二人で会って、普通の兄弟として会話して、笑い合いたい。
今の二人は、お互いを見張り、信じようと必死に努力している段階だからだ。



「沙友理さんには会ってないけど、電話したんだ。兄貴への想いも知ってる」

「そうだったのか」

僕と沙友理さんが、鏡のようにお互いの想いを感じ取っていた事は言わなかった。
僕が兄貴を変えようと思ったのも、その鏡の為だったとも。

「じん。好きな人がいるって言ってたよな?」

「うん、言ったけど」

「会わないのか?」

「沙友理さんに聞けって言われた?」

「あ、うん。まあ...」

嘘をつくのが下手だった昔の兄貴を思い出す。
そんな人が人を騙していたと思うと、やはり胸が痛んだし、腹立たしさを感じる。

「今はまだ会えない」

「会いたいだろ?」

「会いたくても、会わす顔がないし、何をしてたか言える気がしない。言わないのは卑怯だと思うし」

「ごめん。本当に」

「もういいよ」

兄貴は数え切れないほど僕に謝った。
顔を合わす度、何度も。


 兄貴が帰り一人になると、寝る支度をして布団に入った。
彼女に会いたい気持ちは日に日に募っていく。
もう二年経つけれど、気持ちは大きくなるばかりだ。
会いたい気持ちと同時に、沙友理さんの為に行動に移した事への罪悪感も大きくなっていた。
沙友理さんの為でありながら、自分の為でもあったとしても、言い訳にしか聞こえない。
 
 だけど、眠れない夜の僕の心の結末はこうだった。
彼女は僕を信じてくれる。
僕が彼女を信じてしまったように、僕をまだ好きでいてくれる。
 そして、朝起きて苦しくなる。
僕が彼女に夢を聞いた時、彼女は言った。
夢はあった、夢を語っていたら今はここにいなかったかもしれない、と。
彼女は今頃、その夢を叶えようとしているかもしれない。
もしくは叶えたかもしれない。
あの時の彼女の瞳は僕の知らないものだったから。
そんな瞳を思い出し、眠る前にあった自信は一気に消失する。

 弱さを補う為に彼女を好きな訳じゃないと証明したはずだったのに。
僕はまだ彼女に救われようとしている。
無条件に愛してほしいと思っている。
 
 彼女の夢は何だったんだろう。
知りたいけれど、僕には知る資格はない。
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