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第五話

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「俺は…………」

揺れる彼女の瞳を見つめる。

「俺は、もう千郷を好きにはなれない。」

その言葉に、彼女は目を開き、次に悲しげに潤ませ、そして諦めたように伏せた。

「そっかぁ……そう、だよね……」

「あぁ」

「そう…だよねぇ……」

ポロポロと流れる涙。
その涙を、俺は拭えない。

「すまん。」

「あや…まらないで……よっ……」

「…………。」

彼女はただ泣いていた。
俺は言葉をかけられず、撫でる事さえできない。
してはいけない。



数秒か、数分か、数十分か…彼女は泣いた。
そして、再び顔を上げる。

「ねぇ…懐人。」

「なんだ?」

「あの、ね………私達、その………」

「あぁ」

「そ、その………もう、いちど…」

震える唇。
その先は、聞きたくなかった。



「今日は寒いな。」

「………え?」

唐突な言葉。
千郷は唖然とした。

「今日は寒いなって…それだけ。………それで?」

白々しく続きを促す。
彼女は悲痛に顔を歪めた。
俯き、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「なんっ…でも………ない……」

「…そうか。」

目を伏せ、息をつく。

「寒い…ね……ほんとに、寒いよ………」

「あぁ、そうだな。」

もう、彼女は見えなくなっていた。







揺さぶられる感覚に目を覚ます。
明るい照明の光と、覆い被さる小さな影が視界に入る。

「あっ、やっと起きた!」

「ん……なんだ、どうした?」

「どうしたじゃないでしょ!早く準備してよ!遊園地行くんでしょ!」

「あぁ…そうだったな。ちょっと寝過ぎたか。」

「お寝坊さんなんだから!」

「悪い悪い。おはようさん。」

「おはようパパ!急いでね!」

小学生は元気だねぇ。

「はいはい、わかったよ。」

寝ぼけた頭をさすりながら洗面所へ行き、顔を洗う。
髪も軽く洗ってボサボサの寝癖をなくし、髭を剃った。
遊園地に行くのに汚い格好だと怒られちまうからな。

洗面所を出てキッチンへ行くと、長い髪の女性がこちらを振り向いた。

「あら、おはようアナタ。コーヒーで良いかしら?」

「おう、おはよう。」

頷きつつテーブルにつく。
バターが塗られたトーストとスクランブルエッグとカリカリに焼いたベーコン、そしてコーヒー。
俺はどちらかというと朝は和食派だが、たまにはこういうのも良いもんだ。

「早く食べてね。あの子、早起きしてワクワクしてたんだから。」

「あいよ。」

微笑む妻を見て、穏やかな幸せを感じた。



「パパー!見て見てー!!」

「おう、見てるぞー。」

ぐるぐる回る馬に乗って笑顔で手を振る娘に返事をしつつにやける。
うちの娘は天使だな。

「親バカね。」

「何だよ、悪いか?」

「いーえ、別に。」

呆れたような顔の妻。

「お前だって親バカだろうが。」

「私はただあの子が愛しいだけよ。」

「俺だってそうだっつーの。」

「どうだか。最近あの娘ばっかりかまって…………たまには私にだって………」

「は?」

「何でもないわよ!」

ふんっ、と拗ねる妻。
その横顔を見て、くすっと笑ってしまう。

「………何よ?」

横目で睨んでくる。

「いや、気にするな。ただ………」

「ただ?」

「お前といられて、幸せだなって、な。」

サラサラの髪を優しく撫でる。
妻の顔がほんのり赤くなった。

「なっ……き、急にそんな……」

「なに照れてんだよ。歳考えろって。」

「ちょっ!わ、私はまだ30歳よ!40手前のアナタと一緒にしないで!!」

牙を剥いて怒り狂う妻。
女に年齢の話は禁句だったな。

「お、おぉ悪い悪い。ほら、喉渇いてないか?お茶でも買ってこようか?」

露骨なご機嫌取り。
腰に手を当てた妻がふんっと鼻を鳴らした。

「タピオカミルクティー、買ってきて。」

「おい、それ自販機にねぇじゃねぇか。」

「買ってきて。」

有無を言わさぬ口調。
俺は溜息を零した。

「はいはい、わかりましたよー。あの子が降りてきたら、近くで待っといてくれ。」

「ありがとうアナタ、愛してるわよ。」

悪戯っぽいウインク。
だから歳考えろって。
口に出しては言えないけどな。

「はいはい、俺も愛してるよ。」

心の内を悟られないうちに、そそくさと歩き出した。



「お待たせいたしました!タピオカミルクティーお2つです!」

「ありがとうございます。」

満面の笑みで手渡してくれるそれを受け取り、俺は踵を返した。
畜生、10分近く歩く事になっちまったぜ。
早く戻らないと2人が怒っちまうな。
そんな事を考えながら歩いていると、ふと聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「やっぱり休日は人多いわね。」

思わず振り向く。

そこには1人の綺麗な女性。
歳を感じさせない美しさ。

「まぁ、まだ時間はあるし、色々楽しめるよきっと。」

隣には優しそうに微笑む男性。

「ママ!僕ソフトクリーム食べたい!」

2人の間には娘と同じくらいの男の子。

「そこで買いましょうか。私はチュロスが食べたいわ。」

ついさきほど俺が行った店を指差す彼女を見て、俺は目を見開く。
視線を感じた彼女もチラリとこちらを見て、目を丸くした。



「……千郷…」

聞こえぬ声で呟く。
彼女も何かを呟いたように見えた。



「ママ?」

男の子が千郷の手を引く。
ハッとした彼女は子どもを見下ろして笑った。

「あっ、ご、ごめんね!何でもないの!」

そのまま3人で俺の横を通り過ぎようとする。

何か言いたいのか、何も言いたくないのか。
自分でもわからない。
手放したのは自分のくせに、胸が締め付けられるような痛みが走る。

俯く俺に、男の子から声がかけられた。



「おじさん、どうしたの?具合、悪いの?」

呆然と見下ろす。
千郷と手を繋いでいた男の子が、俺のズボンを掴んで見上げていた。
その綺麗な瞳は、かつて俺が好きだった目にひどく似ていた。

「あっ……いや、何でもないんだ。」

「す、すみません急に!」

子どもの突飛な行動に驚いた父親が俺に頭を下げる。

「……いえ、大丈夫ですから。………ありがとな僕、お陰で元気になったよ。」

「ほんと!?なら良かった!!」

眩い笑顔に自然と頭を下げる。

「あ、あの……」

千郷が戸惑いながら声をかけてくる。
俺は微笑んで話しかけた。

「優しいお子さんですな。お父さんとお母さんの教育の賜物ですか。」

「えっ、あ………」

「あはは…いえいえ、特別なことは何も。」

謙遜しつつも息子が褒められた事が嬉しいのだろう、快活に笑う旦那。
俺はしゃがんで男の子と目を合わせた。


「……お母さんとお父さんは好きかい?」

千郷が息を飲んだ気がした。
男の子は一瞬きょとんとした後、満面の笑みで頷いた。

「うん!僕、お母さんとお父さんが大好き!!」

「そうか。それは何よりだ。」

微笑む俺の耳に、聞き慣れた声が届く。



「パーパー!!」

振り向くと、ブンブンと手を振りながらこちらへ走り寄る愛しの娘の姿。
その後ろには慌てて追いかける妻がいる。
俺は苦笑しつつ、胸が暖かくなるのを感じた。

「待ってろって言ったのにな………お迎えが来たみたいです。それでは……」

「あっ……」

立ち去る俺に千郷が声を上げる。
俺はチラリと後ろを見て、自然に笑った。

「家族で遊園地ってのは良いもんですな。お互い、楽しみましょう。」

「えぇ、そうですね。」

微笑み頷く旦那に礼をして、男の子の頭をさらりと撫でる。
そして一瞬だけ千郷に目を向けた。
言葉に出さずとも伝わる思いはある。
いや、もしかしたら伝わってはいないかもしれないが、俺が伝えたと思う事が重要なのだ。


『お幸せに』


彼女は驚いたような顔をした。
しかしすぐに、嬉しそうに微笑む。


『貴方も、ね。』


そう言われた気がした。
どうやら、ちゃんと伝わっていたようだ。





「さっきの奥さん、綺麗だったわね。」

隣を歩く妻が口を尖らせてそう言った。
俺は苦笑で返す。

「そうだったかな。」

「白々しいわね。アナタが好きそうなタイプだったじゃない。」

「俺のタイプはお前と娘だ。2人以外に興味なんてねぇよ。」

「うっ…そ、そんな事言っても騙されないんだから……」

「はいはい。」

笑いつつ、ぽけーっと見上げる娘の頭を撫でる。
無邪気な声を上げて笑う娘を愛しく思いつつ、青く澄んだ空を見上げた。

「あぁ、今日は………」


あの日の決断、あの日の別れ。



「今日は、暖かいな。」


それは、間違っていなかったのだろうと思えた。
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