初恋の肖像

渡邉 幻月

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遺産

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「何も無くなってしまったわあ…」
苦界の女には居て欲しくない、そう言われ、一人追われる様に屋敷を後にした。子供は…跡を継がせる、と、引き離された。其れも、自分と一緒に居るよりは不自由はしないだろうと、納得した。心が千々に裂けてしまいそう、大事な伴侶を失い、大切な子供と引き離されて、一斉に散る桜の様に、心が粉々になって風に舞うのではないかと。涙ももう流れないんじゃないかと。もし流れるのなら、其はきっと此の着物を紅く染めてしまうに違いない。
「こんにちは。奥様。」
「あんたはんは、どなたさん?」
声をかけられ、振り返ると身なりもきちんと整えた紳士が一人。
「御主人様の弁護士をしておりました。御主人様のお言いつけで… もう、遺言ですね。奥様に、お渡ししなくてはならない物が有りますので、其の為に参りました。」
「うち… でも、何も要らへんのよ。お金も、着物も。だって、あん人が居らへんのに、うち…」
「…。そう言うだろう、とは、聞いておりました。ですが、せめて一緒に来て頂けますか。一度、見て頂けませんか。其でも要らないと仰るなら… 此も御主人様の遺言になりますが、奥様の手で燃やして欲しい、との事でしたから。」
「うちの手で…? 其があん人の願いなら、叶えなくてはいけませんなあ…」
「一緒に来て頂けますか。」
「ええですよ。どうせ行く当ても無く迷うていた身。寄り道の一つ位、しても平気ですものね。」

「此処は…?」
「御主人様の工房です。…御主人様の父君以外は、ご家族の何方も御存知無い筈です。御主人様は時折こちらの工房で絵をお描きになられたそうです。」
人里離れた、物寂しい場所。其処に小ぢんまりとした家が一軒、隠れるようにひっそりと建っていた。
「工房… て。あん人、絵を描かれはったんですの?」
「お若い頃、画家を目指していた事があったとか。…中へ、入りましょうか。」
偶然なのだろうか。絵描きと同じ道を歩もうとしていたなんて。
ああ。だから、あの時あんなにも絵描きという言葉に反応したのか。ふと、今は遠い思い出を思い起こす。
「どうぞ。」
そう言われて、工房の中に入る。
「絵を描く為に此処に何日も籠もられる事もあったそうで、生活する分には不自由は無いでしょう。…一階が生活用の空間、二階が工房になりますね。こちらの鍵になります。奥様にお渡ししておきましょう。」
豪商、という肩書きには似つかわしくない、とても質素な部屋作りで、屋敷に比べてどれだけ心落ち着いた事か。鍵を受け取り、周りを見回す。ふと、視線の先に一枚の絵が。
「…あ、うち、あの絵、見た事ある。絵描きはんが、一番初めに見せてくれはった絵や。なんで此処にあるんやろ? あんたはんは、何か御存知?」
「あちらの絵ですか。御主人様が大変お気に召されていた様ですね。…なんでも、初めて褒めて頂いたのだとか。何の打算も無く、ただ純粋に。…二階へ参りましょう。」
「…ちょっと待って。あの絵、あん人が描きなはったん?」
打ちひしがれていた心が、ざわめいた。
「ええ、そうですよ。」
優しく微笑み返し、そう一言答える。
「…なんで? 絵描きはんだった言わはるの? …其なら、なんで、言ってくれはらなかったん? なんで黙って一人で逝ってしまいはったん? うちに気付いてくれはらなかったん? そんな事あらへんでしょ? だって… 最期にうちの事、君… て、言いはったん。絵描きはんが、うちの事呼んでたみたいに… 気付いてはって、何でうちに教えてくれはらなかったん?」
一枚の懐かしい絵に、縋る様に。此の言葉さえ、もう届かないのだろうか。
「奥様。其のお答えは、…おそらく二階にございます。」
何かを、或いは全てを知ってるのだろうか。静かに二階へと導く。
「二階… 工房に?」
「はい。どうぞ、二階へ。」
言われるまま、階段を登る。扉の向こうには、一面に絵が…
「此、は… うち? 全部、うちの絵や… あ、此… あん時の絵や… 父様に、引き離されて、結局見せて貰えへんかった、うちの絵や…」
桜の木の下で、モデルを頼まれた時の自分が居る。ほんの少しはにかんで、淡く色付く桜の花びらに囲まれて。優しい優しい絵があった。
「其に、他の絵も… 全部、あん人が描いた、て… 此の着物… 戦争が始まるちょっと前に、うちが着てたのと同じ柄やわ… こっちは… どおゆう事? まるで、別れた後も、うちの事知ってはったみたい…」
幾つかの絵を除いて、其処に在る絵には全て自分が描かれていた。淡く、優しい色使いで、どの絵も儚く微笑んでいる。
「…奥様、此をどうぞ。」
「なんですの?」
差し出された白い封筒を受け取る。中には、小さな鍵が一つ、入っていた。
「こちらの引き出しの鍵になります。」
「うちが開けてもいいんですの?」
「其が御主人様のお望みですから。」
言われるまま、其の鍵を使い引き出しを開けてみる。其処には、何通もの手紙が在った。
「御主人様が、奥様に充ててお書きになられたお手紙です。結局、一通もお出しになれなかったそうですが。」
「あん人が、うちに…? 見てもええんやろか。」
「どうぞ。奥様に当てたお手紙ですから。」
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