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忌々しいのは、後朝の別れか、それとも
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サプフィールは執務室で一人、ぼんやりと窓の外に視線を向けていた。
夜が明けきる前に、スピネルは宿舎に戻っていった。また来る、そう言い残して。昔のように頭を撫でて、そうして来た時のようにバルコニーから出ていった。サプフィールをベッドの中に残して。
そう言えばここは三階だった、とサプフィールがバルコニーへ向かった頃には姿形も無い。随分身軽だ、そう思うと同時に無性に胸を掻き乱され、サプフィールはその場に膝をついた。
胸が痛い。寂しいのか悲しいのか分からないけれど、誰もいないバルコニーが、その先の景色がサプフィールの胸を締め付ける。
『いつか、いつの日か、こんな風にスピネルはどこかに去っていくのかもしれない。』
そんな予感めいたものが過って、掻き毟るように胸に爪をたて、そうしてしばらくそのまま座り込んでしまっていた。東の空が明るくなってくる。一筋の光が視界に入り、このままこうしている訳にもいかないと我に返ったサプフィールは朝の身支度を整えるのだった。
いつも通りに朝食をすませ、いつも通りに執務室で仕事をする。それだけのことだ。それだけのことだというのに、気が付くとぼんやりと窓辺を見ている。見ているというのは正確ではないかもしれない。視線がそこに向いているというだけで、サプフィールは窓辺の様子も窓の先の景色も認識していないのだから。
ずっと、スピネルのことを考えている。スピネルのことと、この、どうしようも無い感情について。さすがにそれが何なのかは、既に分かっている。サプフィールにとって問題なのは、それの正体ではない。それが生まれ出ずる由縁だ。この感情故に、自分は未熟なのだ。そう痛感されられる。そう痛感だ。心が痛くて仕方がない。このままではすべてを呪い殺してしまいそうだ。
と、そこまで考えてサプフィールは溜息を吐いた。
「スピネルは…」
そう想い人の名前を呟いて、また溜息を吐く。彼はきっとこんなに子供染みた感情で思い悩んだり、癇癪を起したりなどしないのだろう。
会えない時間があるだけで寂しくなったり、他の誰かと親し気に話す姿を見て嫉妬したりもしないのだろう。我儘なのだと、自覚はしているつもりだ。でも、嫌だ。昔のようにずっと一緒に居られたら、と思ってしまう。
もう一度溜息を吐いたところで執務室のドアがノックされた。
「…入って構わん。」
はて、何かあったか、と首を傾げつつサプフィールは答えた。足音に気付かなかったことに、どれだけ思い悩んでいるのかと自嘲気味な笑みを零した。
「にいさま。」
開いたドアから中を伺うような声がする。その声に慌ててサプフィールは机に置いてある仮面に手を伸ばした。
サプフィールが仮面を身に付けると同時に執事の後ろから、薄茶色の短い髪に茶色の瞳のあどけない少年が顔を覗かせた。サプフィールをにいさまと呼んだが、正確には彼とは従兄弟の間柄である。
「ルフトか、珍しいな。何かあったか?」
このピオッジャの領主である叔父の息子。サプフィールより十二歳年下の優しくて臆病な従兄弟は、サプフィールの顔に残る火傷の痕を怖がる。一度素顔のままで顔を合わせた時に大泣きされて以来、サプフィールは彼と会う時には必ず仮面を身に付けるようにしている。同時にこの幼い従兄弟は怖がって自分からサプフィールに近付くことが無かった。
「おみやげ、持ってきた。」
そう言うルフトの手には綺麗にラッピングされた包みがある。
「ああ、ありがとう。」
サプフィールはそう答えて、そう言えば、と思い出す。叔父夫婦とこの従兄弟が旅行に行っていたことを。気楽なものだ、そう思ったがすぐに考えを改めた。叔父に家督を譲られていなければ、スピネルと再会できなかっただろうし、まして今のように自分の許に呼び寄せるなど夢のまた夢だったに違いない。
叔父の楽隠居のために使われている感も拭えはしないが、それでも十年前から見守ってきてもらった恩もある。
お土産は執事から手渡された。ルフト本人は相変わらず執事の後ろに隠れるようにしている。ただ、何かを期待するような視線でサプフィールを見詰めている。
「開けてもいいかな。」
察したサプフィールは怖がらせないよう出来るだけ優しく声をかける。
「うん、開けて!」
顔を輝かせてルフトが答えた。懐かれているのだろうか、普段は怖がって近付かないというのに、時々こうやって不意に近付いてくる。無碍にもできず、かと言ってこの少年に言うほどの興味も持てないサプフィールはいつも距離感に戸惑っていた。
リボンをほどいて丁寧にラッピングを開けると、箱の中には様々にデコレートされた菓子が詰め合わせてあった。
「…これは、」
見たことがある。王都の老舗のチョコレートではなかったか。とサプフィールが考えていると、
「あのね、それね、美味しかったの!」
と嬉しそうにルフトが言った。
それは美味しいだろうな、王室御用達にもなっていたはずだ。と、サプフィールは手元のチョコレートと従兄弟の顔を交互に見る。
「おみやげ!」
「ああ、ありがとう。」
そろそろ反応に困ってきたようだと察したらしい執事が、ルフトに「ルフト様、サプフィール様はお仕事が残っておりますから。」そうやんわりと退室を促した。またね、と手を振って従兄弟が執事に連れられて扉の向こうに姿を消すのを見送る。
「はあ…」
誰もいなくなった執務室で、サプフィールは盛大に溜息を吐いた。
当時は幼すぎて戦争の記憶がないからなのか、叔父夫婦が甘やかした結果なのかはサプフィールには分からなかったが、どうにも従兄弟は緊張感がない。臆病で、けれど優しい。まだ少年だから許されるとは思うが、叔父はあまり領主に向いていないと判断したと言っていた。
「少しの臆病さはあってもいい、優しさも無用とは思わんが… 臆病すぎるし優しすぎる。それでは領民を守っていけないだろう。」
とは叔父の言葉だ。
「本当だったらルフトが領主になるのに…」
呟いて、少し忌々しく思う。領主でなければ、スピネルはもっと…
そうしたら、こんなに悩まなくてもいいのに。手元に残ったチョコレートに視線を落としてサプフィールは今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
夜が明けきる前に、スピネルは宿舎に戻っていった。また来る、そう言い残して。昔のように頭を撫でて、そうして来た時のようにバルコニーから出ていった。サプフィールをベッドの中に残して。
そう言えばここは三階だった、とサプフィールがバルコニーへ向かった頃には姿形も無い。随分身軽だ、そう思うと同時に無性に胸を掻き乱され、サプフィールはその場に膝をついた。
胸が痛い。寂しいのか悲しいのか分からないけれど、誰もいないバルコニーが、その先の景色がサプフィールの胸を締め付ける。
『いつか、いつの日か、こんな風にスピネルはどこかに去っていくのかもしれない。』
そんな予感めいたものが過って、掻き毟るように胸に爪をたて、そうしてしばらくそのまま座り込んでしまっていた。東の空が明るくなってくる。一筋の光が視界に入り、このままこうしている訳にもいかないと我に返ったサプフィールは朝の身支度を整えるのだった。
いつも通りに朝食をすませ、いつも通りに執務室で仕事をする。それだけのことだ。それだけのことだというのに、気が付くとぼんやりと窓辺を見ている。見ているというのは正確ではないかもしれない。視線がそこに向いているというだけで、サプフィールは窓辺の様子も窓の先の景色も認識していないのだから。
ずっと、スピネルのことを考えている。スピネルのことと、この、どうしようも無い感情について。さすがにそれが何なのかは、既に分かっている。サプフィールにとって問題なのは、それの正体ではない。それが生まれ出ずる由縁だ。この感情故に、自分は未熟なのだ。そう痛感されられる。そう痛感だ。心が痛くて仕方がない。このままではすべてを呪い殺してしまいそうだ。
と、そこまで考えてサプフィールは溜息を吐いた。
「スピネルは…」
そう想い人の名前を呟いて、また溜息を吐く。彼はきっとこんなに子供染みた感情で思い悩んだり、癇癪を起したりなどしないのだろう。
会えない時間があるだけで寂しくなったり、他の誰かと親し気に話す姿を見て嫉妬したりもしないのだろう。我儘なのだと、自覚はしているつもりだ。でも、嫌だ。昔のようにずっと一緒に居られたら、と思ってしまう。
もう一度溜息を吐いたところで執務室のドアがノックされた。
「…入って構わん。」
はて、何かあったか、と首を傾げつつサプフィールは答えた。足音に気付かなかったことに、どれだけ思い悩んでいるのかと自嘲気味な笑みを零した。
「にいさま。」
開いたドアから中を伺うような声がする。その声に慌ててサプフィールは机に置いてある仮面に手を伸ばした。
サプフィールが仮面を身に付けると同時に執事の後ろから、薄茶色の短い髪に茶色の瞳のあどけない少年が顔を覗かせた。サプフィールをにいさまと呼んだが、正確には彼とは従兄弟の間柄である。
「ルフトか、珍しいな。何かあったか?」
このピオッジャの領主である叔父の息子。サプフィールより十二歳年下の優しくて臆病な従兄弟は、サプフィールの顔に残る火傷の痕を怖がる。一度素顔のままで顔を合わせた時に大泣きされて以来、サプフィールは彼と会う時には必ず仮面を身に付けるようにしている。同時にこの幼い従兄弟は怖がって自分からサプフィールに近付くことが無かった。
「おみやげ、持ってきた。」
そう言うルフトの手には綺麗にラッピングされた包みがある。
「ああ、ありがとう。」
サプフィールはそう答えて、そう言えば、と思い出す。叔父夫婦とこの従兄弟が旅行に行っていたことを。気楽なものだ、そう思ったがすぐに考えを改めた。叔父に家督を譲られていなければ、スピネルと再会できなかっただろうし、まして今のように自分の許に呼び寄せるなど夢のまた夢だったに違いない。
叔父の楽隠居のために使われている感も拭えはしないが、それでも十年前から見守ってきてもらった恩もある。
お土産は執事から手渡された。ルフト本人は相変わらず執事の後ろに隠れるようにしている。ただ、何かを期待するような視線でサプフィールを見詰めている。
「開けてもいいかな。」
察したサプフィールは怖がらせないよう出来るだけ優しく声をかける。
「うん、開けて!」
顔を輝かせてルフトが答えた。懐かれているのだろうか、普段は怖がって近付かないというのに、時々こうやって不意に近付いてくる。無碍にもできず、かと言ってこの少年に言うほどの興味も持てないサプフィールはいつも距離感に戸惑っていた。
リボンをほどいて丁寧にラッピングを開けると、箱の中には様々にデコレートされた菓子が詰め合わせてあった。
「…これは、」
見たことがある。王都の老舗のチョコレートではなかったか。とサプフィールが考えていると、
「あのね、それね、美味しかったの!」
と嬉しそうにルフトが言った。
それは美味しいだろうな、王室御用達にもなっていたはずだ。と、サプフィールは手元のチョコレートと従兄弟の顔を交互に見る。
「おみやげ!」
「ああ、ありがとう。」
そろそろ反応に困ってきたようだと察したらしい執事が、ルフトに「ルフト様、サプフィール様はお仕事が残っておりますから。」そうやんわりと退室を促した。またね、と手を振って従兄弟が執事に連れられて扉の向こうに姿を消すのを見送る。
「はあ…」
誰もいなくなった執務室で、サプフィールは盛大に溜息を吐いた。
当時は幼すぎて戦争の記憶がないからなのか、叔父夫婦が甘やかした結果なのかはサプフィールには分からなかったが、どうにも従兄弟は緊張感がない。臆病で、けれど優しい。まだ少年だから許されるとは思うが、叔父はあまり領主に向いていないと判断したと言っていた。
「少しの臆病さはあってもいい、優しさも無用とは思わんが… 臆病すぎるし優しすぎる。それでは領民を守っていけないだろう。」
とは叔父の言葉だ。
「本当だったらルフトが領主になるのに…」
呟いて、少し忌々しく思う。領主でなければ、スピネルはもっと…
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