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十年もあれば人は変わるなら

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 サプフィールは外出用の仮面を取り出す。本来は仮面舞踏会で使用するモノを、ちょうど火傷の痕が隠れるような形に整えシンプルにした特注品だ。額と右頬が隠れるようになっている。館では仮面など身に付けないが、外出時は別だった。人々の視線や口さがない噂が煩くて敵わないので、使用することにしている。誰とも目を合わなくていいところも実は気に入っている。
 執事が用意した護衛を三人引き連れ、サプフィールは館を出た。向かうはピオッジャの下町、その裏通りにある。場末の酒場や賭場、娼館の立ち並ぶ地区だ。
 身分のあるものは近寄らない、ならず者や寄る辺無い者の吹き溜まり。大きな町には必ずある、陰の部分だ。…そこに、スピネルは居いるのだと随分前の報告書にあった。そして今も滞在していると言う。

 十年前、サプフィール否ジャーダと別れた後、スピネルは傭兵に戻ったと最初の報告書にはあった。報酬には手を付けず、しばらくの間ギルドに預けっぱなしになっていたとも、その報告書にはある。
 だが、五年前。大陸全土を巻き込み、さらに海を渡ろうとした戦禍を止めようと立ち上がった者たちがいた。そこからの戦争も暫く続いたが、ついに三年前全ての争いに終止符が打たれた。それほど影響の大きい戦いだった。傭兵だったスピネルも、その戦に正規軍の一兵士として参戦していたという。
 そして。

 彼は、その激しい戦いのさなか利き腕を失ったのだと報告書にはあった。利き腕の無い傭兵に、存在理由はあるのか? ここで初めて、スピネルはあの報酬に手を付けた。最新鋭の魔導具の義手を手に入れるために。そうして終戦までその義手でもって彼は戦い続けた。
 だが、報酬に手を付けた辺りから、彼の私生活は乱れ始めたとも報告にある。腕が無くなったからなのか、それとも。自分の心と誇りを傷付けた証でもあるあの報酬についに手を付けてしまったが故なのか。理由は報告書にはなかった。
 どんなきっかけにせよ、それまで悲痛なほどストイックに生きてきた彼はその時死んだのだ。まるで別人のように享楽的になる。敵を倒すのではなく、殺す。禁欲は敵だと言わんばかりに、酒に溺れ色に溺れる。当時、共に戦っていた傭兵たちは自らの目を疑ったと言う。

 そして、今。何人かの傭兵仲間たちと共に、ピオッジャの酒場に入り浸り娼館を宿代わりにし、刹那的に生きている。あの時の報酬は当の昔に使い果たしている。あの時参戦した者たちにはそれなりの額の恩給が出ていたはずだ。だがそれも、こんな生活では底を突くのも早いだろうことは想像に難くない。
 サプフィールは、スピネルの惨状を知った時、彼のギルドの口座に金を振り込んでいた。いや、振り込んでしまった。その金は、酒と色に消えたようだ。その後も、何度か金を振り込んだ。スピネルに頼まれたわけではない。そもそもスピネルはサプフィールの事を知らないのだ。おそらく今も、ピオッジャの豪商の甥だとでも思っているだろう。

「出所が分からないような金に手を付けるような男ではなかったのに。」
サプフィールは、後悔していた。こんなにも駄目になってしまったのは、あの時脊髄反射のように金を振り込んでしまったからだろう。そうでなければ、生きていくために立ち上がっていたかもしれない。
 サプフィールが金を振り込んでしまったのはここ1年のことなのに、既に自堕落ではあった彼が目も当てられないような生活をするにまで身を堕としてしまったのは間違いなく自分のせいなのだ。どう足掻いても恩は返せず贖罪もできないのか、そこまで考えてサプフィールは溜息を吐いた。

 馬車は大通りを過ぎた。
「サプフィール様、ここから先は徒歩になります。」
馬車の扉をノックして、護衛が声をかけた。
「分かった。」
馬車から降り、御者には戻るまで待機するように指示を出す。
 細い街道を護衛と共に歩く。普段は絶対に近付かない場所が、もうすぐ目の前だ。

『スピネル、お前は…』
どうしたらいい、どうしたらお前は以前のお前に戻るんだ。答えの見えない問いが、サプフィール支配して久しい。

安酒の臭いが、サプフィールの鼻を衝いた。考えに耽るうちに裏通りに一歩、足を踏み入れていたようだ。
「サプフィール様、私の後ろに…」
護衛の一人が言った。あとの二人はサプフィールの背後を守っている。サプフィールは護衛の言葉に頷き、一歩下がった。
 ここに来るために、なるべく地味な衣服を選んだつもりだ。とは言え、領主の身に付けるものだ。どんなにデザインが地味でも素材は高級品だ。並べてみれば明らかにモノが違うのは、一目瞭然である。…だからこそ、手練れの兵士を護衛として連れてきたのだが。

 報告書には、義手を破損するほどの大立ち回りをした後、娼婦たちを連れて大衆酒場で飲んでいるとあった。胸が痛い。そんな状態のスピネルの姿を見たいわけじゃない。それでも、スピネルがいると報告のあった酒場へと向かう足は止まらない。
 絡んでくるならず者たちを、護衛が追い払う。小者は威圧感に近寄って来れずにいる。こんなところに居るのか、お前は。サプフィールはスピネルに会ったら何と言おうか思い巡らせるが、答えは見付かりそうもない。

 ひときわ大きい喧騒が、サプフィールを我に返した。この辺りでは大きい酒場だ。ここに、スピネルがいるらしい。だいぶ盛り上がっているようで、男女の笑い声がサプフィールの神経を逆なでた。

「よろしいので?」
先頭を歩く護衛が伺ってきた。サプフィールは鷹揚に頷いた。それを答えとしその護衛は酒場のウエスタンドアを押し開ける。
 喧騒が、途絶えた。あまりにも場違いな客に、酒場の全員の視線が集中した。

「仮面の領主様だ。」
どこかの酔っぱらいが、ろれつの回っていない言葉で言った。サプフィールは自分が仮面をしていることが場末の酒場こんなところにまで浸透していることに、少しだけ驚いた。
 酒場を素早く見渡す。スピネルは娼婦たちに囲まれて酒を飲んでいるのを見つけた。義手は大破したのかアタッチメントから先が無い。溜息を吐けばいいのか舌打ちをすればいいのか分からない。少なくともそんなスピネルの様子にサプフィールは胸がざわついて仕方がなかった。

「…なんだぁ? あいつ。随分場違いだな。」
グラスを手にスピネルは呟く。
「このピオッジャの領主様よぉ。いっつも仮面を着けているから、みんな仮面の領主様って呼んでるの。ついでに美形ばっか雇うから男色家なんじゃないかってウワサなのよぅ。」
うふふ、と笑みを浮かべながら、スピネルにしな垂れかかる娼婦の一人が耳打ちする。
「へぇ…」
おもちゃを手にした子供のように楽し気にスピネルは笑った。

「ご領主様、本日はどのようなご用件で?」
店主が手を揉みながらすり寄ってきた。サプフィールは回答に迷う。いっそこのまま帰ってしまおうか。今のスピネルにはどんな言葉をかけても通じないのではないか。それなら、最後の金を送金して終わりにしよう。一目その姿を見た、執事ともこれで最後にすると約束したのだ。もう、このまま…
 安酒の臭いも、娼婦たちの香水の匂いも、酔っぱらいの喧騒も、何もかもがサプフィールの気分を盛り下げた。早くここから立ち去りたい。

「いよう。あんた、領主サマなんだってな。」
一瞬だった。店主を押しのけ、スピネルがずい、と身を寄せ互いの顔すれすれまで近付いて話しかけてきた。武器に手をかけた護衛をサプフィールは思わず制止していた。

「あんた、男色家だってウワサだぜぇ? 本当か? 領主サマ自らこんな場末の酒場に来るなんて、男漁りにでも来たのかぁ?」
護衛を止めたことに気が大きくなったのか、単なる酔っぱらい故か、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべてスピネルは言う。割と大きめの声のせいで、その場の客たちがざわついた。それでも場が凍り付かなかったのは、ここに居るほとんどが酔っぱらいだからだろう。
「はっ、喋れねぇのか? それともオレとは話す気もねぇって? 護衛なんて連れてくるなよ。場がシラけるぜ。」
「あっ、あの、その人かなりお酒飲んでて…」
酔っぱらい特有のふてぶてしい物言いに、さすがに見かねた娼婦たちが庇う。
「あんだよ、思ったこと言って何が悪ィんだ。」
悪びれも無く娼婦たちに切り返す。

『…やれやれ。』
サプフィールは溜息を吐いた。その場で踵を返す。
「奴を連れて帰る。手荒な真似はするな。」
すれ違いざまに護衛に耳打ちする。三人のうち一人がサプフィールに付いて店を出る。残る二人がスピネルに向き合った。

「大人しく付いて来てもらいましょうか。」
一人が、言葉だけは丁寧にスピネルに要求する。亜麻色の髪にこげ茶の瞳、3人の中では一番高い身長。面構えまで確認したところで、確かに美丈夫ではあるな、とスピネルは思った。
「あぁ?」
「抵抗するなら、そういう扱いするから覚悟してね。」
スピネルが睨み返すともう一人の護衛が剣の柄に手をかけ、涼し気な笑みを浮かべて言う。ブルネットの髪をウルフカットにしているもう一人をまじまじと見る。タイプは違うがやっぱり美形ではあるなとスピネルは感じた。噂が本当かはともかくとして、男色家なんて言われる下地はあるんだな、と人ごとのように考えている。
「さっき手荒なマネはするなって言われたでしょうが。」
「そんなの関係無いよ。」
相方の注意も物ともせず、ブルネットの方は今にも抜刀しそうな様子である。

コントかよ、とスピネルは思う。それにしてもこの緊張の感の無さは…
「殺さねぇのか?」
ニヤリと笑ってスピネルは護衛たちに聞く。
「来るの? 来ないの?」
こちらはこちらで笑みを浮かべてスピネルに言う。
…義手なしでこいつらの相手はキツイな、とスピネルは考える。この辺りの酔っぱらいなら今の自分でも負ける気はないのだが。領主の護衛二人を、義手を無くした上だいぶ酒が入った状態で相手にするのはさすがに分が悪いな、と判断した。
「いいぜぇ。ここに居るのも飽きてきたしなぁ。」
両手を挙げる素振りをして、スピネルは答えた。
「なんだ、来るの。」
残念そうに剣から手を放す相方に、あなたねぇ、と呆れた様子で溜息を吐いて、
「こちらですよ。」
ウエスタンドアを開け、亜麻色の髪の護衛がスピネルを迎える。2人はサプフィールが待っているだろう馬車までスピネルを連れて戻るのだった。
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