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第一章 迷子と子猫とアガサ村
黒猫は幸運の印です
しおりを挟む「痛っ……!」
右手の中指の先がザックリと切れて血が出ている。
またトゲを引っかけたらしい。
美波はギュッと手を握りしめ、血が止まるのを待つ。
小学校の遠足で行った山登りは、こんなに大変じゃなかった。
もう泣きそう。
お母さんのお葬式では、現実だと思えなくて全然涙が出なかったのに。
「現実……なんだよね?」
顔を上げて辺りを見回す。
うっそうとした背の高い木々が美波を囲んで見下ろしている。慣れない山道で、気づいた時には迷っていた。と言うより、すでに前にも後ろにも道はない。茂みをかき分けながら進んでいるので手も足も傷だらけ。ぶつかったり転んだりしながら、ようやく少し開けた場所に出た。
「どっこいしょ、と」
ひと休みしようと大きな岩に腰を下ろす。
年寄りみたいな掛け声は、近所のお婆さんの口ぐせがうつったものだ。
「…………ん?」
視線を感じる……
誰かが私を見ている。
右を見て、左を見て、後ろも確認したけど誰もいない。
「んん~~?」
でもやっぱり、見られている気がする。
ゆっくりと向きを変えながら視線の主を探す。
あ、いた!
猫だ。黒い子猫。
大きな葉っぱの下に身を隠してこちらを見ている。
(可愛いなぁ……)
声に出さずに思った瞬間、
『コロス?』
「えっ?」
猫がしゃべった!?
しかも物騒な内容だ。
『俺を、コロス?』
「ええっ? こ、殺さないよぅ!」
あわてて否定する。子猫は体を低くしたまま、続けた。
『お前を、コロス?』
「ええええっ?」
落ち着け、私。疑問形だ。
「……殺さないでくれるとうれしいな」
私の返事に子猫はちょっとホッとしたみたい。
『お前、俺を殺さない?』
「うん、殺さないよ」
『俺、お前を殺さない?』
「うん、殺さないで。仲良くしよう!」
『殺さない……』
どうやら分かってくれたらしい。良かった。
黒い子猫は大きな葉っぱの下から出てきて伸びをした。
ミャーオ
小さく鳴いた。声も可愛い!
ツンととがった耳の周りは毛が長め。スラッと長いしっぽの先がちょっとだけ白い。私の手が届かない場所に座ると、毛づくろいを始めた。
「可愛い……」
思わず声に出た。
数秒たってから、子猫はようやく気づいたようで、
『俺?』
と顔を上げて聞く。
「うん。キミ。可愛いね」
『俺、可愛い。……へへっ』
あ、喜んでる。うん、可愛い、かわい……
『お前、可愛くない』
「ええっ!?」
すごいショック!
そりゃ、美人じゃないよ? 十人並みっていうか、フツー?
でも、面と向かって可愛くないって言われるほどじゃ……
『だって、顔に毛がない』
………ん?
『手にもない。黒くないし。あと、耳がピッてしてない』
「ぷっ」
つい吹き出しちゃった。猫基準だった!
子猫は不思議そうな顔をしてる。
「そうだねぇ。しっぽもないし?」
『ないの!?』
「うん、ないんだぁ、しっぽ」
『……俺、しっぽ、ある』
子猫は自分の長いしっぽを手で押さえ、上目遣いに恐る恐る言う。
「あるね、しっぽ。可愛いね」
『俺、可愛い……』
なぜかホッとしたようだ。
子猫はテコテコと歩いてきて、私の隣に座って背中を向けた。
『背中、なめていいぞ』
「んん?」
『母ちゃん、俺、可愛い。背中、なめる』
ああ、分かった。
「お母さんが、可愛いって背中をなめてくれるのね?」
『うん。俺、可愛い』
子猫はまた、へへっ、と笑った。
あああ、なんて可愛いんだあ~!!
私は指でそおっと子猫の背中をなでる。
すべすべだ。
ゆっくりと何度もなでてやる。子猫は気持ち良さそうにノドを鳴らしている。
「ねえ、さっきはなんであんな怖いこと言ったの?」
『こわい?』
「殺す、とか。私、殺さないよ?」
『んー……』
子猫はちょっと考え、
『母ちゃん、言った。ニンゲン、俺を、殺す。だから、その前に俺、ニンゲンを、殺す』
一瞬、言葉を失う。
「そ、そっか。それは悪いニンゲンだねぇ……」
自分の身を守るために。
親猫が教えたのか。それはそれで仕方ない気もする。野生の生き物なら。
と同時に、自分の甘さも痛感した。
もしもこの猫がもうちょっと大人で、自分の身を守るために躊躇なく人間を殺すようだったら、会話をする前に私は殺されていた。
ちょっと悲しいけど、野生のライオンに近づいたらやっぱり殺されるかもしれない。それと同じだよね。
『お前、良いニンゲン?』
子猫はなでられるのが気持ちいいのか、お腹を見せてなでさせながら聞く。
「……どうだろう。でも、悪いニンゲンじゃないよ。……と思う。私、キミを絶対に殺さない」
『俺も。お前、ゼッタイ、殺さない』
そう言って子猫は私の指をなめた。
「………ッ!」
チクリ、と指先に痛みが走る。
さっき大きなトゲを刺した所。子猫のザラザラした舌でなめられて傷口が開いたらしい。
指の先にぷっくりと赤い血が盛り上がる。
子猫はそれをジッと見つめ、それから私の顔を見た。
『お前の名前、何?』
「名前? ミナ。葉月美波」
ふうん、と鼻を鳴らした子猫は、
『ミーナ、ミーナか』
と、つぶやく。
ちょっと違ってるけど、まあいいか。
伸ばした音の方が発音しやすいんだろう、きっと。
それから続けて聞く。
『俺の名前、何?』
「え? キミの……名前?」
『うん。俺の名前』
黄緑色の目をキラキラさせて、ジッとこちらを見ている。
待っている……?
何を?
……もしかして……
「名前、付けていいの?」
『うん!』
もしやと思って聞いたら正解だった。
小学校のクラス替えで、新しく友達になった子とこんな風にして呼び合うアダ名を決めたっけ。
「それじゃ、そうだなぁ……」
クロだとそのまんま過ぎるし、アニメキャラの名前じゃ何だし……。
それにしても綺麗な目。まるで宝石みたい。
あ、そうだ!
「ねえ、【ラル】ってどう?」
『ラル?』
「うん。エメラルドのラル。キミの目、とっても綺麗だから」
宝石の名前だよ、と言うと、分かったのか分かってないのか、ふうん、との返事。
「ダメ?」
『呼んでみて』
「え? あ、うん。ラル!」
ミャア~
可愛いお返事。まんざらでもなさそうだ。
『ミーナ!』
「なあに?」
私も首をかしげて返事をする。
ちょっと幼稚園の先生になった気分。
『なかよし?』
「うん、なかよしだね」
『へへっ』
子猫は照れくさそうに笑うと、私の指先をペロリとなめた。
指からプクリと盛り上がっていた赤い血の滴を。
「あ……っ!」
その瞬間、視界にパアッと光が広がる。クラリ、と目まい。
光はレース編みのような模様となって広がり、私と子猫を包み込んだ。
「え? なに? 今の……」
立ちくらみを起こした時とは違う、不思議な感覚。
子猫は私の膝にピョンと飛び乗った。落ちないように、あわてて支える。
『へへっ』
子猫は抱きとめた私の腕に頭を擦り付ける。
『ミーナ、これから、どうするの?』
「私、今、道に迷ってるんだよねぇ。葬儀場を飛び出して来ちゃったの」
手荷物は持って来たけど、これからどうしよう。帰りの電車賃はギリギリかも。大伯父さんが送って来たのは片道切符だった。帰りの分は葬式の後でくれるのかな?と思ってたのに、そのままこっちに住む予定にされてたなんて。ひと言も聞いてない。住んでた部屋にはまだ、お母さんとの思い出の品がたくさん置いたままになってる。勝手に捨てられる前に取りに帰りたいけれど……
「駅に戻りたいけど、バス停どころか道路も見つからないし……。せめてどこかの家にでもたどり着ければ……」
『エキは知らないけど、ニンゲンの家なら、俺、知ってる』
「ほんと?」
『うん。川をこえて、ずっといった所に、おばあさん、すんでる』
「そこまで案内してもらえないかな? お願い!」
手を合わせて膝の上の子猫を拝むと、
『もちろん。だって、俺とミーナは、ずっと一緒。いいだろ? 母ちゃん』
と、私の後ろに目をやり、聞いた。
子猫の視線を追って振り返ると……
「うひゃっ!!」
後ろには、黒猫が座っていた。猫というより黒豹?
ううん、もっと大きい。お座りした状態で2mはある……
『まったく。教えたばかりの絆の作り方を、こんなに早く使っちゃって』
『へへっ』
膝から飛び降りて走り寄るラル。
親猫(?)はラルが近づくと愛おしそうになめた。
「ラルのお母さん……?」
『母ちゃん、強い。やさしい。キレイ!』
ラルが自信満々に胸を張る。
「うん、ほんとキレイ」
黒いツヤツヤとした毛並み。音もなく歩くしなやかな体。
思わず見とれていると、親猫(?)は、ふふっと笑った。
『お前は他のニンゲンと少し違うね?』
「え? そうかなぁ? この辺の生まれじゃないけど」
お母さんはお父さんと結婚してから一度も故郷には帰らなかった。
おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなったと聞いた。他の親戚とは折り合いが悪く、二度と戻らないつもりだったようだ。
『ミーナ、いいニンゲン。俺、仲良し。へへっ』
戻ってきたラルは私の膝に手をかけて母親に紹介した。
私とラルを見比べていた彼女は目を細めて少し考え、
『取り消せないし、仕方ないわね』
そう言って私の匂いをフンフンと嗅いだ。
はうっ。
口元には大きな牙が見える。
『でも、もしも裏切ったら容赦しないから』
「裏切るって?」
『うちの子を売ったり、殺したり……』
「そんなヒドイ事ッ、絶対にしません!」
思わずラルを抱きしめて叫ぶと、それを見た彼女の表情が和らぐ。ラルはもぞもぞ動いて母親の方へ振り向く。
『母ちゃん、ダメな相手とは、キズナ、できないって言った』
『そうねぇ……とてもキレイな波動が見えたわ。お前は、行ってしまうのね? まだこんなに小さいのに』
少しさびしそう。
『最低限、生きていくのに必要なことは教えたつもり。これから先の事は、ふたりで決めなさい』
『はーい!』
元気よくお返事するラル。
『さ、行こうぜ、ミーナ!』
「ちょ、ちょっと待って!」
膝から飛び降りて歩き始めるラルを呼び止め、お母さん猫(?)を振り返る。
大きな黒豹のようなお母さんは、自分の前足をなめ、毛づくろいをすると、木々の間に消えてしまった。
この辺って、あんなに大きな獣が住んでるんだ?
イノシシや熊は出るって聞いてたけど……
『ほら、早くぅ~』
ピョンピョンとはねるラル。
私は急いでラルの後を追った。
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