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バグった距離感

#181:本当の好物は - side 誉史

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 数カ月ぶりだ。首都高を走り抜けて見慣れた街道に差し掛かると、フロントガラスから望む大きな建物が見えてきた。地上から伸びた真っ黒な柱と白い壁のコントラストは、周囲の景観から一際目立つ。

 減速して地下駐車場へ続く道を通った。整えられた花壇や等間隔に配置された緑豊かな木々が並び、朝の散歩には可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてくる場所だ。この近くには大型のショッピングモールに学校、最寄り駅には案内所もある。

 人々からは理想的な住まいのように見えるだろう。ここは人が羨む居住地。だがタワー型マンションの数フロアは英華が所属する事務所の持ち物なのだ。

「行くと返事をしてから40分くらいか」

 待たされることが嫌いな女の機嫌が変わる前に早く行かなくてはならない。面倒な取引先に行くよりも、彼女と会うことの方が遥かに俺にはストレスで義務で婚姻したことを早く片付けたかった。

 急浮上で耳の奥が詰まるのを感じながら、地下から上がった最上階は今日で最後の眺めにしたい。

 ポケットから出したカードキーを取り出した。段差のない玄関を通りすぎて薄暗い部屋の中へ入った。奥から僅かに明かりが洩れている。細く開けられた戸を静かに開いて、横になる人物を見下ろした。

「英華」

 呼びかけるように顔を覗き込んだときだった。小さな息遣いを耳にして、横たわった女はこちらをぐるりと向いた。

「…あ、すみません!」

 急いで寝室を出て戸を閉じた。薄暗くてもハッキリと見えた白い四肢は、一回り小さくて間違いなく英華ではなかったのだ。

「おかえり」

 思わず声を上げそうになった。驚いて振り返るとダイニングの大きなテーブルの先の端で、彼女はいた。薄暗い部屋の中だから、急に話しかけられたら怖いではないか。

 壁に寄り、リビングの電気を付けた。

「脅かすなよ」

「脅かしてなんていないわ。あなたが勝手に驚いただけでしょ」

 冷めた目で、こちらを見ながら彼女はカップにスプーンを差し入れて、何かを食べていた。

「美味しいわよ。あなたもどうぞ?」

 英華は手を伸ばして、手元にあるカップのような物を、サッとテーブルの上を滑るように投げて寄越した。

 良く見れば緑色の果実が蓋に描かれたカップアイスだった。一体いつ冷蔵庫から出したのだろうか。彼女の傍には、まだ沢山のアイスが置かれていた。

 俺が感じた疑問を汲み取ったのか、英華が先に口を開いた。

「さっき届いたばかりなの。冷凍でカチカチだったから常温で少し放置したから今が丁度食べ頃よ。世の中のクズどもが私に最高級のメロンのアイスを贈ってくれたの」

「メロン」

「冷蔵庫にはマスクメロンが丸々冷えているわよ。私を慕ってくれる新人の子がね、今年のお歳暮にって贈ってくれたの。でも、あたし一人じゃ食べきれないわ。あなたも食べてね?」

 大きな一口をカップアイスから救い、彼女は自身の大きな口にスプーンを運んだ。

 世間では、アレルギーを起こすからメロンは苦手な物と知られている筈だが、今年も大量に届いたようだ。

 彼女の本当の好物は、事務所に所属するタレントでさえ知られていない。

 メロンは彼女の好物なのだ。アンチなファンや同業の女優やらタレントに、ナイフや動物の死骸が届く嫌がらせ対策で、ワザと嘘のアレルギーを公言したのだから。メロンはフェイク。本来、彼女には嫌いな物などない。もちろんアレルギーもない。

「今年もこんなに届いたのか。蕎麦と苺は?」

「半分は事務所のスタッフに引き取ってもらったの。もう半分は養護施設に贈っちゃったわ。あなたが処分してくれるものは、ここにあるだけよ」

「良かった。じゃあ俺が引き取るものは何もないってことか」

「そんなことない。まだ押し入れには、タコパで使った機材が残ってる。いらないから処分するか、あなたが引き取って」

 年末パーティーで、夫婦円満を装うために購入したタコ焼き機だ。事務所の人間や、贔屓ひいきにしている取引先、群錠のような身内を呼んで何度かタコパを開催した。

 もう嘘を偽らなくて良いから、機材も不要なのだろう。

「1台だけ残して、あとは処分しておくよ」

「クローゼットの中はもう空だから。他にあなたが必要なものや、自分のものを処分するなり荷物をまとめて持っていってちょうだいね」

「俺のは事務所に移したから残ってないと思う。必要なものはない筈だから、他は全部あとで処分するよ」

「そう。じゃあ、お願いね」

 食べ終えたのだろう。カップにスプーンを入れて机上に置くと、彼女は椅子から立ち上がった。

「英華。それより役所に届け出をしたいんだけど」

「離婚届のことだったら、もう出したわよ」

 彼女は寝室の戸を少し開けた。部屋の中で寝ている女性の様子を窺っているようだった。

「いつ?」

「数時間前」

「知らせてくれれば良いのに」

「知らせる意味ある?」

「あるだろ」

「ニュースで流れるのを知るか、私の口から知るかの違いしかないじゃない。それとも早く知らせたい内縁の妻でもいるの?」

 部屋の中から視線が戻り、振り返った彼女が俺を見上げた。互いのことは干渉しない。それは当初に取り決めたことで、口出し無用のことである。

「もういい。じゃあ俺は帰るよ」

 引き返そうとして背を向いたときだ。

「これでも感謝してるのよ」

「は?」

 独白のようにも聞こえたが、振り返って彼女をみた。

「私の恋愛対象をずっと黙っててくれたでしょ。寝室の彼女。私が今本気で愛している人なの。付き合って4年になる」

 寝室で見た女性の寝顔から、直ぐに英華のパートナーであることは分かっていた。同姓しか愛せない彼女は、長年、撮影現場で同業の女性に恋しては数日か数か月で破局を迎えて酷く落胆していた。

「良かったじゃないか。今度こそ本気の付き合いができて。お幸せに」

 部屋を出て行こうとしたが「待って」と静かに引き留められた。

「悪いけど、もう少ししたら彼女を起こすから、起きたら私たちを空港まで送ってちょうだい」

「もしかして送迎のために呼んだのか?」

「そうよ。最後の会話を楽しむために呼び出したと思ってるの?」

 溜め息が出そうになったが、これで英華と終わりなのだ。

「分かったよ。最後の最後くらい君の我儘に付き合うことにする。それで最後だ」

 彼女の口角が僅かに上がった。

 今まで見たことのない美しく柔らかな笑顔で、最初で最後にして初めて聞く言葉を告げられた。

「ありがとう」

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