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バグった距離感
#180:煩わしいこと - side 誉史
しおりを挟む「それじゃあ成美さん。また今度会いましょうね」
「遥さんもお元気でね」
隣の家の浅沂遥が見送りに来た引っ越しの日。俺の母が手を振りながら別れの挨拶をした。アパートの外で最後に交わした隣人は、浅沂遥、彼女一人だけだった。
「残念ねぇ。いっつも遊んでたから、よほどショックなのねぇ」
母が隣で溜め息を付きながら、去り際にちらりとアパートを見上げたから俺も釣られて住んでいた部屋の隣を見上げた。そのときだ。カーテンが少し揺れた。母は気が付かなかったようだが、俺の視界には見えた。さっと身を隠すように小さな影は急いで引っ込んだ。あの子だ。
引っ越しの話を、いつ知ったのかは知らないが夏休みに入る頃には避けられた。隣の部屋から来なくなり、部屋に籠るようになったから一度話をしに行った。
今日はゲームで遊ばないのかと聞いてみてもダンマリで、母親の遥から良い点数でテストが返ってきたことを凄いと褒めても、彼は浮かない顔だった。
何を言っても彼の心には響かなくて、諦めて部屋に帰ろうとしたときだ。
「……ずっと、居てくれると…思ったのに…」
小さな声で聞こえた言葉が、俺の心には突き刺さる言葉で「ごめんね。時生くん」と言葉を掛けても、ずっと体育座りのままで顔が上がることはなかった。それから、引っ越しの日まで顔を突き合わせることができないまま俺と母は、慣れ親しんだ土地を離れた。
愛のない無理やりに進めた結婚式場で、遠目から会えただけでも嬉しかったが、ドラマで脚光を浴びた英華に纏わりつく記者から逃れるため、周りに殆ど連絡も出来ぬまま度重なる引っ越しを重ねた。年賀状と隣人、遥とのメールだけが唯一の繋がりだったのに連絡が取れなくなって、俺はやっと決断した。
疎遠になった浅沂家へ、会いに行くことに。
酷く後悔したのは、その時だ。
かつての場所に赤の他人が居住する場所に、彼ら親子はいない。あの子はいない。もういない。
何もかも環境が変わってしまったのだろう。呆然とした。
俺に残っているのは、無断で撮影した写真だけ。自分で最低だと分かっていても処分するどころか忘れたくなくて写真は手放せなかった。殆どもう望みもないのに動画投稿と配信を続けたのは、どこかで繋がりを感じたかった。
流れてくる言葉の波から彼を見つけ出そうと、どこにもない影を追った。
最後に会った日から10年。ようやく会えた君が、昔と変わらぬまま成長した姿だったことに驚いた。
「…もっと早く気付けたのに。ごめんな」
彼は俺との押し問答に疲れてしまい腕の中でいつの間にか眠ってしまった。身を起こして、ソファに寝かせた彼の頬に触れてみると、まだ少し肌が湿っていた。
結局ダメだと抵抗されてキスできなかった。無理やりしてしまうこともできたが傷つけたくなかった。もう手放すことなどできない。たったの一日、彼を家に帰しただけで、一緒に居たいという気持ちの膨れ上がりに止められなかった。
俺の傍にいて欲しい。どうしたら一緒に居られるかを考えた。だから今できることは、ケジメを付けることだと思った。今まで状況に流されて、なぁなぁにしてきたことに終止符を打つ。
「もう少しだけ待っててくれ」
彼の涙の痕をそっと撫でた。
「…ん…」
身じろいだ体を優しく抱きしめてから立ち上がった。
手にしたスマホから素早くメッセージを打ち込み送信すると――
【英華。離婚に応じてくれないか?】
待つことなく返事が届いた。
【じゃあ家に来て。今すぐに】
意外だと思った。俺以上に多忙な彼女が家にいることなど珍しいことだったから。
【わかった】
英華の気は変わりやすい。人との約束など彼女は殆ど守らない。というより俺とまともに話をしたことは数える程しかない。今に始まったことではないが。
あるときだ。駅まで迎えに来てくれと通知を受けて、車を飛ばしたときだった。指定された場所に向かうと彼女の姿はなかった。電話を掛けてみれば、捕まえたタクシーの中だと言われた。
だったら連絡を寄越してくれても良いではないかと抗議をすると〈両手に荷物を持ってて返事なんかできるだけないでしょ〉素っ気なく返された。
芸能界という特殊な環境は人を変えるのか、彼女の言動には一切の優しさなど微塵もない。いや結婚する前からだが、彼女には付き人が常に2人いる。1組の男女である。出演作やスケジュールの交渉事は男性が担当し、彼女の身の回りの世話は女性が担当している。
一例をあげるなら、出演作を褒めるのは男性が行い、買い出しや荷物の持ち運びは女性が行う。無論、可笑しな言動や怠惰を許さない英華は、常にアラの出た動きを見つけてはスタッフをクビにする。事務所のトップスターは常にチヤホヤが当たり前なのだ。
だからクビにしたスタッフが使えないときに、俺は呼び出されることがままある。
空港までの足が必要なときだ。急に呼び出して、1分遅れただけで遅いと罵られ、ついでに荷物の移動からタワーマンションの家に着いたあとの片づけまでさせられる。御礼なんて一度も言われたことすらない。
「まずいな。赤信号か」
彼女の気が変わって、やっぱり離婚に応じるのは面倒だから先延ばしなんて言われたら堪ったものではない。溜め息が出た。
車で向かう道すがら道路脇に見えたコンビニで、ふと昔を思い出す。喉が渇いたから何か飲み物を買ってきてと言われて、無難に水を選んで持ってきたときだ。彼女は静かに言った。
―『これ競合の他社商品じゃない。あたしが宣伝してるアントリー社の水にしてちょうだい。それくらい言わなきゃわかんないなんて。もう良いわ。気が変わった』
それならそうと早く言って貰いたかったが、互いの事に干渉しないことを前提に結婚に応じた根底にはあったのだから彼女のことを理解しようなどとは思わなかった。
だが英華との無暗な争いに、いちいち応じることが面倒だったから所属事務所にわざわざ足を運んだこともある。
契約した広告の違反内容に引っ掛からないよう、普段からどんな言動や振る舞いに気を付けるべきか把握することが必要だった。
離婚すれば、そんな煩わしいことを考えなくて済む。ようやく解放されるのだから、今すぐにでも早く行きたい。
はやる気持ちを抑えながら早く青信号に変わってくれと、じっと信号機を眺めた。
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