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甘い時間、甘い日々
#146:盤さんのコーヒー - side 時生
しおりを挟むぼうっと、重たい瞼を開けると紺色の生地が見えた。
掌で撫でると、サラっとしていて心地良さを感じた。体を起こしてみれば、それがベッドの上なのだと知った。体に掛けられた布団から出て、ベッドからそっと下りた。
「…でっか」
自分には余りにも大きすぎるベッドだった。特注なのかと思うほど、ふかふかとした弾力のあるベッドは恐らく彼が使うものなのだろう。
寝ていたのは自分だけだった。しんと静まり返った寝室のドアから、外を覗くように小さく開けてみると、キッチンに立つ彼の後ろ姿が見えた。
「あ、起きた。おはよう」
ドアを開けた音に気付いたらしい。ふいに振り返った彼と目が合った。
「…おはよう、ございます」
「朝飯できてるから、こっち座って食べよ?」
ゆっくりダイニングテーブルに近づくと、オムレツ、サラダ、トースト、カットされたオレンジの皿が二人分、用意されていた。
「今コーヒー淹れてるんだけど、時生くんは何飲む? 紅茶とかジュースの方が良い?」
「え。コーヒー?」
ドアを開けたときから良い匂いはしていた。彼は黒いポッドを傾けて細いノズルからお湯を注いでいるようだった。
ポタポタと流れる香ばしいコーヒーは、ビーカーみたいなガラスの中でゆっくり落ちていた。
「僕も…それ飲みたい」
つい口に出た。飲んでみたい衝動が湧いたというより、これは前から飲んでみたかった願望に近い。
「え。コーヒー飲むの?」
「あ…僕…あの…」
「コーヒーは飲めないとか?」
僕は首を横に振った。
「飲めます!」
柔らかく微笑んだ彼は、目の前の棚に手を伸ばしてカップを取り出した。
「砂糖とミルクは要る?」
「あ、要らないです」
「え、要らないの?」
彼は驚いた顔で一度振り向いてから、やかんに視線を戻して黒いポッドに湯を入れた。
「僕は何も入れないで飲むのが好きっていうか、その方が目も覚めるから」
「マジ」
彼からカップを渡されて、僕は両手で持ってそっと静かにテーブルに置いた。
「俺はちょっとだけミルクと砂糖入れて飲むのが好きなんだよね」
彼もカップを持ってテーブルに置くと、席に着いた。僕のすぐ斜め向かいに座るから、凄く近い。
「知ってる」
「あ、そっか。俺の古参だもんな?」
彼がニコニコと笑みを浮かべて、僕を見た。
普通に返したつもりだったのに、配信で見聞きしたことを介して話すから、どこか調子が狂ってしまうのを感じた。
「え。あ、あの…だって前に配信で盛り上がってたから」
「雑談のときだね。そうそう。この豆さ。配信で皆に聞いて、おすすめされてたやつを買ってみたんだ」
「マンデリン」
「そう、それ。え。良く分かったね?」
彼は不思議でならないのだろう。数々のコーヒー豆を紹介されて、端からメモして様々な産地別の豆をまとめて購入したと報告してたのだから。
「マンデリンは特徴的だから。あ、僕は普段インスタントなんですけど、時々カフェでコーヒーを飲んだりもするんです。どんな豆を購入したかまでは知ってるから、コーヒーを専門に淹れるカフェで、よく飲んでました。学校帰りとかで」
「そうなんだ。当てられるのも凄いけど。それより専門店で出すコーヒーって、結構高いと思うけど」
「キングスでバイト代みたいなお金は貰うから、コーヒーを飲むくらいは」
「じゃあ今度は俺が淹れるコーヒーで毎日飲めるね」
「え」
サラっと飛んでもないことを言われた気がした。
「あの…盤さん」
「俺さ。聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
「どうして冬珈琲チャンネルなの?」
「え、あ、チャンネル名のこと?」
「うん」
「あの、単純に冬に飲んだコーヒーが美味しかったから」
「そうなんだ。じゃあ俺のは?」
「え…あ…」
カップの量が全然進んでないのだ。最初に一口を飲んだだけ。
僕はカップを持ち上げて、口を付けた。飲んでる間も彼はフォークを持ったままじっとこちらを見ているから、なんだか居たたまれなくて。
思わず彼から逃れるように視線だけを外して明後日を見てしまった。
「あの…美味しいです」
「ほんと?」
「ほんとに美味しいです…あの、僕は…盤さんの淹れたコーヒーを、一度で良いから飲んでみたかったから」
「そうなんだ」
彼は驚くように目を見開いた。
「だけど、もう充分です。こんな贅沢…僕は、もう上に…上がりますから」
ずっと視線に耐えられなくて、椅子から立ち上がろうとした。だけどテーブルから手を離そうとしたとき、僕の手首は彼に直ぐ捕らわれた。
優しいけど、軽く引いても離してくれなさそうな強さが込められていて。
彼は、真っすぐ僕を見た。
「待って。俺にはまだ君に聞きたいことがあるんだ」
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