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甘い時間、甘い日々
#144:彼がくれる言葉 - side 時生
しおりを挟むゴミ出しの指摘をされた瞬間、どこかで聞いたことのある声だった。
似たような声の人はいると思ったから、振り向いたときに心臓が止まるかと思うほどびっくりした。
何も考えられなくて、駆け出して、腕を引かれて。マスクも外された。
それからは、手を引かれて、彼の部屋に僕は連れていかれた。
たったの5室しかない小さなマンションで、彼の個人事務所があるなんて思わなかった。
こんな偶然は、普通ならないだろう。普段なら、気づいた瞬間に嬉しくなるだろうけど間が悪すぎた。
今一番、会っちゃいけない人に僕は会ってしまったのだから。
「どうぞ」
扉が開かれて、ようやく僕の手は開放されたけど、中に入らないといけなくて一歩を踏み出すしかなかった。
玄関に入り靴を脱ぎ、細いフローリングの廊下を数歩踏み出したとき、ガチャンと後ろでドアの閉まる音がした。
鍵を掛けたのだろう。
僕は後ろを振り向けなくて、また前に進むしかなかった。
同じ間取りだ。バス、トイレ、洗面所を通り過ぎた廊下の先にあるドアを開けば、左手にキッチン。正面は広いリビング。
5階と大して変わらない。閉じられた二つのドアが右手に並んでいるが、一つは作業部屋と、休息を取るための寝室なのだろう。
どちらもプライベートな部屋だから、ドアを開ける勇気はなかった。
ぱっと電気が点いて、部屋が明るくなった。オレンジ色に照らされたリビングには大きな液晶テレビと柔らかそうなソファが置かれていた。
「盤さん…ごめんなさい…」
「え…何で謝るの?」
「僕…デュエット曲をダメにした」
彼は僕の前に回り込んできた。覗き込むように、しゃがんで僕を真っすぐに見た。
「謝らないで。君の所為じゃない」
「でも。僕が試合に出なければ丸く収まっていたかもしれない。きっと今頃プロモも継続されていたし、販売休止にもならなかった」
「時生くん。それは違う」
「え?」
「相馬くんは君に感謝していたよ。ウィンタースターで無双して戦ってくれたことにだ。企業から訴えられるかもしれないというプレッシャーもあったのに、君は圧勝した。結果からして何もお咎めはなかった。だから相馬くんはホッとしていたよ?」
「相馬に会ったんですか?」
「学校を休学して、これから親戚の元へ行くというから見送りにね。さっき行ってきたんだ」
知らなかった。もう行ってしまったなんて。
「時生くん。もし君が逃げていたら相馬くんは、今頃どうなっていたと思う?」
「え…?」
「神楽は特別試合という名のショーを開いた。配信仲間にミラー配信ができるようにも広めていたんだ。君らに許可もなく試合は見世物にされたよね?」
真剣に見つめられて、僕は小さく頷いた。彼は話を続けた。
「仮にも相馬くんは配信者じゃない。たとえ因縁の相手だろうと一般人を巻き込むべきじゃなかった。神楽が見世物のようなショーをしたのは、相馬くんに誰を相手しているのか見せつけるため。神楽自身によるマウントなんだよ。周囲には名の知られた配信者が沢山集まって、しかもFPSのプロもいる。もし神楽が負けても周囲の皆は神楽を慰めるだろう。相馬くんに立場の違いを大きく見せつけて貶めようとする魂胆だった。皆が配信をしていれば、アーカイブも残るしな。最悪だろ?」
最悪だ。この先も笑い者にされるかもしれない試合だったのかと思うと、ぞっとした。
「レクシアズが契約解除をしたとき、特別試合のアーカイブも非公開になった。ミラー配信もすべて非公開だ」
「盤さん…」
「SNSには切り抜かれたクリップ映像がまだ出回ってしまっている。今は色んな人たちから、色んなことを言われて辛いかもしれない。けど君は何も間違ったことはしてない。デュエット曲のことだって君が気に病むことじゃない」
そんなことを言われても、僕は胸が苦しくなった。
プロモや楽曲が台無しになって、恐らく冠番組だって影響は出た筈なのに。これから得られる売上もなくなったのだから。
彼がくれる言葉の数々には、どうしても素直に喜べなかった。
「暫くしたら、また配信を頑張れば良い。俺は、君とコラボをする日を楽しみにしてるんだぞ?」
彼とコラボをする――
もっとも一番欲しかった言葉だ。それなのに全然嬉しさが込み上げなかった。
どうして今このタイミングなのだろう。
最悪だ。何もかも最悪だ。
「ムリだよ」
僕は思わず言葉が洩れた。
目を合わせていられなくて、視線が床に落ちた。
「どうして?」
彼は驚く様子もなく、優しく問いかけた。
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