黒の神官と夜のお世話役

苺野 あん

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20.求婚

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「……旦那様!」

 ベルナルドの声が、アンジェリアを現実に引き戻した。思わず、アンジェリアは小さく叫び、ベルナルドに駆け寄る。

「お怪我は、お怪我は大丈夫なのですか?」

 気を揉みながら、アンジェリアはベルナルドの様子を伺う。
 ぱっと見た限りでは、怪我らしきものは見当たらなかった。少しやつれたようだが、大きな不調があるようには見えない。

「ああ、たいしたことはない。腕を少しかすっただけなのに、周りが大げさに騒ぎすぎているんだ」

 何ともないことを示すように、ベルナルドは腕を軽く振った。
 アンジェリアの心に、安堵が広がっていく。

「よかった……」

 力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになりながら、アンジェリアはゆっくりと息を吐き出す。

「心配をかけたようだな。すまない」
「いえ、そのような……」

 しばし、今の状況も忘れて、二人の間にやわらかく、温かな空気が流れる。
 二人を隔てる壁のことは、いっとき忘れ去られていた。

「……そのようなことより、あたくしに訓練をしろということは、お心が決まりましたのかしら?」

 ところが、立ちはだかる壁を思い起こさせる声が響き、二人の間に流れていた空気が硬質なものに変わる。
 ビビアーナが不機嫌そうに唇を尖らせ、二人を睨んでいるのを見て、アンジェリアは体を強張らせた。

「……ああ、決まった」

 ベルナルドが答えるのを聞き、アンジェリアはさらに体が硬直していく。
 心が決まったかというのは、おそらくベルナルドとビビアーナの結婚に関係することなのだろう。
 それが決まったということは、今この場でアンジェリアに引導が渡されることになるのだ。
 アンジェリアは、耳を塞いでこの場から逃げ出してしまいたかったが、体が動かない。
 そのようなアンジェリアの姿を見て、ビビアーナが満足そうに笑った。

「ビビアーナ、おまえとは結婚しない」

 だが、聞こえてきたのはアンジェリアの予想とは違うものだった。
 アンジェリアは唖然として、ベルナルドを見つめる。
 そして、満足そうな笑みを浮かべていたはずのビビアーナも、目を見開き、信じられないといったようにベルナルドを見つめていた。

「……どういうことですの?」
「どうもこうもない。おまえとは結婚しない。ただ、それだけのことだ」

 きっぱりと拒絶するベルナルドに、ビビアーナはわなわなと震え出す。
 しかし、ビビアーナはすぐに何かを思い出したようで、再び口元に余裕のある笑みを浮かべる。

「あたくしがいないと、調整役とやらがいなくなりますのよ。困るのではありませんか?」
「やる気のない奴なんざ、いてもいなくても同じだ。俺が一人でどうにかする」

 脅すビビアーナだったが、ベルナルドは取り付く島も無い。

「……まさか、その小娘を妻になさるおつもりですの? そのようなこと、許されると思っていますの? あたくしだって、許しませんわよ」
「おまえに許してもらう必要はない。……だが、困難なことはわかっている」

 ベルナルドは苦い表情を浮かべながらも、決意をこめた目でアンジェリアを見つめた。
 真剣な眼差しに射すくめられ、アンジェリアは心臓が跳ね上がり、動けなくなる。

「俺は、アンジェリアを妻にしたい。どうだ、受けてくれるか?」
「だ……旦那様……」

 アンジェリアは胸がいっぱいになり、ベルナルドを見つめることしかできなかった。
 これは都合のよい夢ではないかと、信じられない。

「すんなりと認められることは、まずない。どうにか説得してみるが、もし無理だったときは、俺は地位と財産を捨てるつもりだ」
「えっ……」
「なっ……」

 言い切ったベルナルドの言葉で、アンジェリアもビビアーナも絶句する。
 まさか、そこまでするとは、アンジェリアもビビアーナも、完全に予想外だった。

「もしかしたら、全てを失って逃げることになるかもしれない。俺はアンジェリアを力の限り守るが、それでもつらい思いをさせてしまうことになると思う。それでも、ついてきてくれるか?」
「そ……そんな……旦那様……」

 アンジェリアは感極まって、口元を押さえながら、首を縦に振るのが精一杯だった。
 それほどアンジェリアのことを想ってくれているなど、考えもしなかった。
 もともと、アンジェリアには失うようなものは何もない。つらい思いというが、ベルナルドを失う以上につらいことなど、存在しない。
 地位や財産も、どうでもよい。慎ましくとも、二人でいられるのなら、それに勝る喜びはなかった。
 答えなど、決まりきっていた。

「し……信じられないわ……地位と財産を捨てるなんて……」
「おまえは、俺が地位や財産を失えば興味はないだろう。さっさと見切りをつけて、別の男を探したほうがいいぞ」

 愕然と呟くビビアーナに対し、ベルナルドはそっけなく言い放つ。

「おまえは勘違いしているようだが、この地の結界を保つのは、本来おまえたち領主一族の役割だ。もし結界が崩壊すれば、最も困るのはおまえたちだということを忘れるな。魔物たちがなだれこんできたとき、おまえは抗えるのか?」

 はっきりとベルナルドに指摘され、ビビアーナもさすがに言い返せず、唇を噛む。

「だが、安心しろ。この地の結界補修だけは、どうにか終わらせる。それが最後の仕事になるかもしれないがな」

 そう言い切ると、ベルナルドはアンジェリアに向き直った。
 厳しく引き締まっていた顔が、やわらかく緩められる。

「俺が優柔不断で情けないため、いらぬ心労を与えてしまったな。本当に悪かった。もう、迷わない。どうか、俺と共に生きてくれ」
「旦那様……旦那様……」

 アンジェリアはあふれる涙を抑えられず、ただベルナルドの胸に飛び込んだ。
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