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19.妾
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アンジェリアは、以前のような生活に戻っていた。
掃除を主とした、神殿の雑用をこなす日々だ。
だが、心にはぽっかりと穴が開いたようで、以前と同じような生活をしながら、もう以前とは何かが違う。抜け殻になったように、ただ空虚な時が流れていくだけだ。
ときおり、ベルナルドの姿を遠くから見かけることがあったが、胸が苦しくなってしまい、すぐに逃げ出した。
もう忘れてしまおう。もともとベルナルドは、アンジェリアが口をきくことも許されないような、遠い存在だったのだ。あるべき姿に戻っただけのこと。そう自らに言い聞かせ、アンジェリアは日課である掃除をして、かつての日常に戻ろうとする。
そうして、心の穴は塞がらないまでも、少しずつ日常に慣れてきた頃、神殿にざわめきが起こった。
魔物狩りで、ベルナルドが怪我をしたというのだ。
アンジェリアは頭の中が真っ白になり、いてもたってもいられず、駆け出した。カプリスの静止も耳には入らず、ベルナルドの部屋へと急ぐ。
ところが、その途中でビビアーナが立ちはだかったのだ。
「どこへ行くつもりかしら?」
「そ……その……旦那様がお怪我をなさったというので……」
しどろもどろになりながらアンジェリアは答えるが、ビビアーナは呆れたようなため息を漏らすだけだ。
「ベルナルド様のお側には近寄らないでちょうだいって、言ったわよね。聞いていなかったのかしら? あなたの耳は飾り物なの? それとも、理解するだけの頭がないのかしら?」
ビビアーナは腕を組み、傲慢に言い放つ。
「せ……僭越なのは存じております。でも、どうか、せめて旦那様がご無事かだけでも……」
「ふうん……あなた、本当にベルナルド様のことを愛しているのねえ」
アンジェリアの切なる願いを、ビビアーナは小ばかにしたように笑う。
その響きに、アンジェリアはひっかかりを覚える。
「……ビビアーナ様は違うのですか?」
「ベルナルド様がお持ちになっている、いろいろなものを愛しているわ」
思わずアンジェリアが問いかけると、ビビアーナが薄く笑みを浮かべて答えた。
「あの方は、王都の名門貴族よ。あたくしに、ふさわしい相手だわ。そりゃあ、あたくしと並ぶと、美女と野獣でつり合わないでしょうけれど、あたくしはそれくらい許容できるわ」
言外に、ベルナルドに対する愛はないとにおわせるビビアーナ。
それも、自分本位な言い方だ。
「最初は噂を聞いて警戒していたけれど、実際は噂とは違う方だったのよね。黒の神官なんて呼ばれているわりに、お優しい方だわ。扱いやすそうで、夫にしてあげてもいいと思えるわね」
ベルナルドのことも小ばかにしたような言い草に、アンジェリアはじりじりとした憤りが胸の奥からわきあがってくる。
「……愛はない、ということですか」
「まあ、あなたのような下々の者にはわからないでしょうけれどね。貴族っていうのは、愛だけで生きられるわけじゃないの。あたくしは、こんな田舎にはふさわしくないわ。王都の華やかな暮らしこそ、あたくしにふさわしいのよ」
「……つまり、愛ではなく、地位やお金が目当て、ということですのね」
こみ上げてきた怒りは、アンジェリアからいつもの臆病さも消し飛ばした。
はっきりと物申してきたアンジェリアに、ビビアーナは眉をひそめる。
「あなた、生意気ね。何様のつもり? 何も持たない、卑しい小娘のくせに」
「……私のことはどのように言おうと構いません。でも、旦那様のことを軽んじるような言い方は、おやめください」
アンジェリアが強く主張すると、ビビアーナは一瞬、怒りで顔を歪めた。しかし、すぐに何かを思いついたらしく、赤い唇をきゅっと吊り上げる。
「それほど、ベルナルド様のことを想っているというのなら、あなたとベルナルド様のことを認めてあげてもいいわよ」
あまりにも意外なビビアーナの言葉に、アンジェリアは耳を疑う。
ゆっくりと意味が染みこんでくると、もしかしたらという希望が、アンジェリアの心に灯る。
「どうしてもというのなら、妾として認めてあげてもいいわ。夫が妾を持つことくらいは、許容してあげませんとね。感謝なさい」
だが、続くビビアーナの言葉は、わずかに灯った希望を勢いよく吹き消すものだった。
結局のところ、ベルナルドと結ばれることはないのだと、より深い絶望に突き落とされるようだ。
身分を考えれば、何もおかしなことではない。それどころか、身よりもないアンジェリアの境遇からすれば、出世とすらいえるかもしれないだろう。
だが、アンジェリアには受け入れがたい。自らの身を妾という立場に置くことよりも、ベルナルドを独り占めできないことが、許せないのだ。
なんという身の程知らずだろうと、アンジェリアは自分自身に呆れる。
「あなたは日陰の身、ベルナルド様の横に立つことはできないの。身の程をわきまえなさい」
ビビアーナもアンジェリアの心を読んだように、咎めるような口調で言い放つ。
何も言えず、アンジェリアはうな垂れる。
「身の程というのなら、自分もこの地を守る貴族としての自覚を持ち、法力の訓練をしたらどうだ」
そこに、もはや懐かしくすら感じる声が響いた。
掃除を主とした、神殿の雑用をこなす日々だ。
だが、心にはぽっかりと穴が開いたようで、以前と同じような生活をしながら、もう以前とは何かが違う。抜け殻になったように、ただ空虚な時が流れていくだけだ。
ときおり、ベルナルドの姿を遠くから見かけることがあったが、胸が苦しくなってしまい、すぐに逃げ出した。
もう忘れてしまおう。もともとベルナルドは、アンジェリアが口をきくことも許されないような、遠い存在だったのだ。あるべき姿に戻っただけのこと。そう自らに言い聞かせ、アンジェリアは日課である掃除をして、かつての日常に戻ろうとする。
そうして、心の穴は塞がらないまでも、少しずつ日常に慣れてきた頃、神殿にざわめきが起こった。
魔物狩りで、ベルナルドが怪我をしたというのだ。
アンジェリアは頭の中が真っ白になり、いてもたってもいられず、駆け出した。カプリスの静止も耳には入らず、ベルナルドの部屋へと急ぐ。
ところが、その途中でビビアーナが立ちはだかったのだ。
「どこへ行くつもりかしら?」
「そ……その……旦那様がお怪我をなさったというので……」
しどろもどろになりながらアンジェリアは答えるが、ビビアーナは呆れたようなため息を漏らすだけだ。
「ベルナルド様のお側には近寄らないでちょうだいって、言ったわよね。聞いていなかったのかしら? あなたの耳は飾り物なの? それとも、理解するだけの頭がないのかしら?」
ビビアーナは腕を組み、傲慢に言い放つ。
「せ……僭越なのは存じております。でも、どうか、せめて旦那様がご無事かだけでも……」
「ふうん……あなた、本当にベルナルド様のことを愛しているのねえ」
アンジェリアの切なる願いを、ビビアーナは小ばかにしたように笑う。
その響きに、アンジェリアはひっかかりを覚える。
「……ビビアーナ様は違うのですか?」
「ベルナルド様がお持ちになっている、いろいろなものを愛しているわ」
思わずアンジェリアが問いかけると、ビビアーナが薄く笑みを浮かべて答えた。
「あの方は、王都の名門貴族よ。あたくしに、ふさわしい相手だわ。そりゃあ、あたくしと並ぶと、美女と野獣でつり合わないでしょうけれど、あたくしはそれくらい許容できるわ」
言外に、ベルナルドに対する愛はないとにおわせるビビアーナ。
それも、自分本位な言い方だ。
「最初は噂を聞いて警戒していたけれど、実際は噂とは違う方だったのよね。黒の神官なんて呼ばれているわりに、お優しい方だわ。扱いやすそうで、夫にしてあげてもいいと思えるわね」
ベルナルドのことも小ばかにしたような言い草に、アンジェリアはじりじりとした憤りが胸の奥からわきあがってくる。
「……愛はない、ということですか」
「まあ、あなたのような下々の者にはわからないでしょうけれどね。貴族っていうのは、愛だけで生きられるわけじゃないの。あたくしは、こんな田舎にはふさわしくないわ。王都の華やかな暮らしこそ、あたくしにふさわしいのよ」
「……つまり、愛ではなく、地位やお金が目当て、ということですのね」
こみ上げてきた怒りは、アンジェリアからいつもの臆病さも消し飛ばした。
はっきりと物申してきたアンジェリアに、ビビアーナは眉をひそめる。
「あなた、生意気ね。何様のつもり? 何も持たない、卑しい小娘のくせに」
「……私のことはどのように言おうと構いません。でも、旦那様のことを軽んじるような言い方は、おやめください」
アンジェリアが強く主張すると、ビビアーナは一瞬、怒りで顔を歪めた。しかし、すぐに何かを思いついたらしく、赤い唇をきゅっと吊り上げる。
「それほど、ベルナルド様のことを想っているというのなら、あなたとベルナルド様のことを認めてあげてもいいわよ」
あまりにも意外なビビアーナの言葉に、アンジェリアは耳を疑う。
ゆっくりと意味が染みこんでくると、もしかしたらという希望が、アンジェリアの心に灯る。
「どうしてもというのなら、妾として認めてあげてもいいわ。夫が妾を持つことくらいは、許容してあげませんとね。感謝なさい」
だが、続くビビアーナの言葉は、わずかに灯った希望を勢いよく吹き消すものだった。
結局のところ、ベルナルドと結ばれることはないのだと、より深い絶望に突き落とされるようだ。
身分を考えれば、何もおかしなことではない。それどころか、身よりもないアンジェリアの境遇からすれば、出世とすらいえるかもしれないだろう。
だが、アンジェリアには受け入れがたい。自らの身を妾という立場に置くことよりも、ベルナルドを独り占めできないことが、許せないのだ。
なんという身の程知らずだろうと、アンジェリアは自分自身に呆れる。
「あなたは日陰の身、ベルナルド様の横に立つことはできないの。身の程をわきまえなさい」
ビビアーナもアンジェリアの心を読んだように、咎めるような口調で言い放つ。
何も言えず、アンジェリアはうな垂れる。
「身の程というのなら、自分もこの地を守る貴族としての自覚を持ち、法力の訓練をしたらどうだ」
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