白銀の竜と聖なる魔女

加永原

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第1章

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「お待たせしましたー、陛下!」

 トーエが跪く横から、ドロシーは快活な声を上げながら玉座に駆け寄って行った。
 玉座にて男は緩慢な動作で視線を向け、次いでその瞳にうんざりとした色を浮かべて頬杖をついた。
 
「お前の声は頭に響く」

 深紅の瞳が細められ、ややぶっきらぼうに言い放つ。
 ドロシーに陛下と呼ばれた男は、ハルバート神聖国国王ヴェルテ・ハルバート、その人である。そして同時にトーエが最も敬愛する、神聖国国教、空神教の神でもある。
 そんな彼にもドロシーは他者と態度を変えるでもなく、頬に手を当てさめざめと涙を流すフリをして見せる。

「あーあ、お姉ちゃんにそんなこと言うなんて。 トーエが真似したらどうするんですか! ただでさえ要らないとこばかり陛下に似てきてるんですよ、これ以上トーエから可愛さを奪わないでください」

 ドロシーは苦言を呈するヴェルテに向け、腕を組んで小言を返す。
 トーエはその間にも跪いたままにその光景を見上げるが、もちろん口を挟むことはない。彼らのこういった戯れは久しく見ていなかったもので、何度見ても懐かしさに柄にもなく笑みを浮かべそうになる。
 しかし、トーエとしてみれば神と似ているというのは褒め言葉であり、これ以上似てくれるなと残念そうに要求してくるドロシーには、賛同しかねる。遺憾の意を表明したいところだが、今更彼らに口出ししたところで考えを変えることは出来ないだろう。
 いつまでも終わらない神の苦言と魔女の小言の応酬に、白翼の主席は仕方なく一つの咳払いを落とした。
 ぱたりと止んだ醜い言い争い。玉座の男は未だ不服そうな不服そうな目をドロシーから外し、ようやくトーエをその瞳に映した。

「俺も“子”の言葉に耳を貸さないほど狭量ではない、言いたいことがあるなら言え」

「まさか、我が神に物申す言葉を持ち合わせてるはずはありませぬ」

「お前の敬虔さをドロシーに少しでも分けてやりたいな」

 横合いから抗議する声を頬杖をついたままに無視するヴェルテに、トーエは恭しく頭を下げて褒め言葉だと受け取る。
 王との、さらに言えば神との謁見とは思えぬほどに和やかな雰囲気だが、遅れていた者がようやく到着したことで終わりを迎える。空気が締まり、本題に入るのだと言葉なくして感じ取ったのだ。

「いやぁまったく、この塔で飛べないってのは不便でしかねぇって毎度思わせてくれる」

 そう言いながらトーエに並ぶのは、目付きの悪い男だった。乱暴な口調と目付きの悪さのせいでごろつきのようにも見えるが、溢れ出る自信が威風を感じさせる。
 遅れたことに悪びれもせず、へらへらと笑うその男をトーエは鋭い言葉で糾弾した。

「獣如きが我が神に見える栄誉を給われるのだ、恵まれていると矮小な貴殿には理解出来ぬか」

「ハッ、羽虫如きがイキがりやがる。ブンブン耳障りなことこの上ねぇ」

 トーエが睥睨し、男は牙を剥く。
 一触即発になろうかという睨み合いは、果たして間に生えたドロシーによって強制終了を言い渡される。

「トーエもリックも、いつも喧嘩ばかりしていてはいけませんよ。本当はこんなことしてくはないですが、あなたたちが仲良くしてくれるのならお姉ちゃんは涙を飲んで実力行使に出ることも厭いません」

 二人の間でそう言うドロシーは、はぁと拳に息を吐いてから今にも拳骨を落とさんと袖を捲る。悲しそうにしながらも、どことなく嬉々としているのは何故なのか。
 トーエは即座に頭を下げ、リックと呼ばれた男は渋々といった様子で跪き、聞く体勢は整ったと態度で示す。
 ドロシーは残念だと零し、ヴェルテに向き直る。この間に未だ引きずる眠気に意識を取られていたらしいヴェルテは、ドロシーの呼ぶ声に重そうな瞼を開ける。

「......リチャード、狩猟群の経過を」

 ヴェルテは頬杖をつき直し、欠伸を噛み殺してリック――リチャードへと視線を向ける。
 狩猟群とは、リチャードが率いる獣人族――ドラティオの所有する、武闘派組織だ。かつては名前の通り、狩猟を担う者たちを指していたのだが時代は代わり、武闘派の者たちが所属する組織へと変貌していた。
 リチャードはさっきまでの威勢の良い若者のなりを潜めて、スっと真剣な面持ちに変わった。

「鼠の侵入は成功した。他の連中はいつでも出れるよう森で待機中だ」

 リチャードの言葉にヴェルテは、そうかと短く返す。
 トーエは初めて聞く狩猟群の動きに、顔にこそ出さないものの内心驚きを確かに感じていた。確かに最近の狩猟群は二国間を分断する大森林に出て行くことが多いと報告は受けていたが、演習の一環だろうと思っていたからだ。
 テラクォシと狩猟群はそれぞれ独立した組織形態を持つため、不必要に互いに干渉することはない。そもそも相性が悪いのだ、必要以上に関わろうとする者などいない。
 そんな狩猟群をヴェルテが直々に動かしていた、それもアルィーラムよりも先にというのはなかなかに衝撃だった。
 適材適所の末であろうことを理解しながらも、神に最初に声を掛けられなかった不甲斐なさを抱えたままトーエは顔を上げ、発言の許可を得てから懸念を口にする。

「宣戦布告前に大々的に送り込むのであれば、枢機卿団をはじめとして国民らは反発を生むのは明白。我が神はこれを許容すると申されるのか」

 つい先程まで行っていた会議の当初の議題は、戦端をいつ開くかについてであった。枢機卿団にとって、いや、国民にとって今最も注目しているのはその点だ。
 だからこそ宣戦布告もせずに戦争は始まっていたと知れば、国民は動揺するだろう。
 神聖国民は特に形式を重んじる傾向にある。というのも、かの大地の神のような“狡猾”さを特に厭うのだ。
 トーエの内にある危惧は、それが神への叛意を僅かにも生み出さないかというもの。神の行いに口出しすることの烏滸がましさを噛み殺してでも、問うて確認べきことだと思ったのだ。

「俺が俺の斧を取り返すために動くことに、何故お前たちの同意を得る必要性があるんだ」

 そんなトーエに返ってきたのは、純粋な疑問だった。
 見開かれた深紅の瞳の瞳孔が縦に裂け、心底理解出来ないとばかりにヴェルテは首を傾げる。
 そもそも、ヴェルテには人間などを気遣う必要性などない。ヴェルテが慮るのは彼の斧だけであり、それ以外に対する情は端からない。故に義務も生じず、果たす義理も当然付随しない。
 ハルバート神聖国の国王として君臨しているのは、人間たちが担ぎ上げただけの結果だ。ヴェルテがテラクォシや狩猟群を使うのも、たまたま丁度いい道具があったから手にするのと変わらず、道具であるトーエらは言葉をする口などあるはずがない。
 領分を弁えない発言の許しを乞うトーエを見やったドロシーに、静かな怒りを内包したドロシーに笑顔を向けられるヴェルテは若干の居心地の悪さに眉を顰める。

「どうせ異を唱えるのは“母の人形”たちだけだろう。......だがそうか、国民か。ならば“お前たち”も不服だと?」

 にやりと持ち上げられた口角は好戦的で、トーエはまさかと間髪入れずに返す。

「我が神の意向に従わぬ者など、大空の民であるアルィーラムにはおりますまい。もし......もしもそのような愚か者がいるのであれば、我がこの手でその羽根を毟り、首を落として神前にて申し開きをいたしましょう」

 トーエの瞳には絶対なる忠誠と厳格なる秩序維持の意志が宿っており、隣にいるリチャードは口笛を鳴らす。
 怖い怖いと肩を竦めるリチャードを一瞥し、けれどトーエは反論せずに視線を戻せばつまらないと零した。

「そんなことをすれば俺がコルディスに叱られるだろうな」

 トーエの揺るがぬ意思に、しかしてヴェルテは遠い目を空へと向ける。寂寥感を滲ませるその姿に神の威厳はなく、ただ悲願に向けた切迫した思いが溢れている。
 ドロシーまでもが掛ける言葉を見失う中、ヴェルテはおもむろに立ち上がる。ばちばちと空気が爆ぜるように震え、遠くを見詰めた深紅の瞳がより濃くなる。
 ドロシーもまた神妙な面持ちでヴェルテに近寄れば、彼は外套を剥ぐようにして脱ぎ預けた。

「暫く寝ていた間に随分と“傾いた”ようだな」

 好戦的に口角を持ち上げたヴェルテの声音は地を這うようで、怒りに満ちていた。
 ビリビリとした空気の振動が肌を刺し、ヴェルテを中心に風の刃が徐々に吹き始める。トーエは片翼を自身に、もう片翼にリチャードを収める。
 キンッと、軽い金属音のような高い音が鳴り、風の刃を防いでいた。 
 小さな声で驚きの声を漏らすリチャードだが、この時ばかりは文句も言わずにただ翼の盾の中で大人しくしているのは、状況把握は出来ずとも身を出す危険は理解出来ているからだろう。
 アルィーラムの翼は硬質化することが出来、戦闘時にも飛翔のため軽装である彼らの防具だ。神の余波にも耐えられるよう設計されているため、この場においては人間であるトーエとリチャードにとって唯一の安地となっていた。
 
「リック、狩猟群の今後については?」

 ドロシーは意識を他へと移したヴェルテに変わり、そう言ってリチャードへと顔を向ける。ドロシーはヴェルテの傍らに立ちながら、風の刃を受けている様子も、ましてや防御しているようにも見えない。
 一瞬目をぱちくりとさせたリチャードだが、ひょこりと翼から顔を出す。

「“土産”さえ届けば内側から招待状を貰えるはずだ。とはいえ、モレロポたちが大空の神への忠誠心を忘れていなければって条件があるがな。あとはビラ配りに合わせてちょっとした嫌がらせも考えているが、そっちは陛下の意向に合わせるぜ」

 言い終えるやいなや、飛んできた風の刃にすかさず翼の中へと身を隠す。じとりとしたトーエの視線にへらりと笑むリチャードに、ドロシーの深い溜息が聞こえた。

「リック、あたしはドラティオには口酸っぱく教えてきたはず。あたしたちが他の民を蔑む資格はないと。陛下の温情により族滅を免れ、お傍に置かれていることを忘れたの?」

 リチャードが瞬きをしたその刹那、次に目を開けた時には新芽のように淡い黄緑の瞳がリチャードを覗いていた。いつものような優しい笑みは浮かべておらず、感情を伴わない無機質な瞳。
 リチャードは背中に冷や汗が垂れるのを感じながら両手を上げ、まさかとだけ返す。そうすればまたも瞬きのうちに彼女は目の前から掻き消え、翼から覗いた先でヴェルテの傍らに戻っていた。
 駄目ですよとこちらに向かってぷりぷりとしたいつもの怒りを見せるドロシーに、リチャードは確かな恐怖を覚えたその瞬間だった。
 盛大な舌打ちとともに空気が割れる音が響く。
 突風が周囲に向けて襲い掛かるものの、トーエの翼でなんとか防ぐ。リチャードの驚きに満ちた短い悲鳴を傍らに、トーエは目を細めて巨躯を見上げる。
 そこには輝く白銀の鱗を持つ竜が現れており、言わずもがなヴェルテの本来の姿である。いや、本来の姿と言うのにはこれでもまだ小さい方であるのだが、エーベの塔を崩さないように配慮しているのだ。
 言葉を失い見惚れるのは、人間にとってのある種の特権だった。

「――魔物の利用を考えているのならやめておけ、意味が無い。中間に位置するからアレらは俺の言葉も聞くが、あちらに入ってしまえば届かん」

 首をもたげた深紅の瞳が翼から出たリチャードを射抜き、思わずこくりと唾を飲む。
 ドラティオの寿命はへヴァーゲンと殆ど同じで、これまで神が寝ていた数百年間はその姿を間近で見られた者は恐らくいなかったであろう。そんなドラティオの中で、リチャードは自身が久方ぶりに神の尊体に拝謁する機会を得た、初めての王であることに半ば興奮をしながら、情けなくも言葉が出ずに頷くだけで精一杯であった。
 ヴェルテは次いでトーエに目を向ける。

「トーエ、お前は言わずとも解るだろう」

「我が神の御心のままに」

 語らずとも短い言葉で理解していると、一種の信頼を寄せる神の言葉に、望外の喜びを感じながらトーエは恭しくも頭を下げた。
 ヴェルテは顔を上げると、一度確かめるようにばさりと翼を動かした。それだけで凄まじい風が吹き荒れ、トーエはまたも翼でリチャードを囲ってやりながらも多少の風に煽られたのかひっくり返っていた。
 ヴェルテの深紅の瞳がドロシーに向けられ、伸ばされた手に顔を近付けた。

「最早言葉では届かない可能性が高い、“落とされる前に落とす”。払うだけではキリがない」

「もうどうにもならないんですね」

 涙ぐむ声色に、ヴェルテは慰めるように告げる。

「――ドロシー、お前がどのような選択をしようとも、その意思を尊重しよう」

「――カエノス、あなたの慈悲に感謝を」

 大空の神が与える慈悲に、大地の魔女は深い感謝を示す。
 その光景はトーエとリチャードにとっては神話の世界に迷い込んだかのような錯覚を起こさせ、美しくもどこか悲しい気持ちに胸の奥に痛みを感じた。訳もなく、赤子のように泣けたらどれほど楽であるか。そんな気持ちに苛まれるのは、果たして本当に錯覚なのか。
 微笑むドロシーが手を離すと、白銀の竜が一際大きな風を伴って飛び上がる。
 追い掛けて見上げれば空に溶けていく竜の背にトーエは頭を下げ、リチャードは圧巻の光景に口を開けて見送った。

「あらあら、ドラティオの王となったというのにまだまだ手のかかる子供ですね」

 いつまでも口を開けたまま空を見続けていたリチャードの髪は、幾度も風を受けたせいでボサボサになっていた。ひっくり返って尻餅をついたままのリチャードの髪を、どこから取り出したのか櫛で梳かし始めるドロシーは、まったくまったくと言って鼻歌を歌う。
 先程までの神妙な面持ちは嘘のようで、リチャードはハッと我に返って飛び退いた。せっかく梳かした髪を頭を振って居心地の悪さを誤魔化せば、チャラチャラと装飾品の奏でる音でやっと冷静になれる。
 たとえ魔女と言えど、己の髪に触れていいのは伴侶だけであるリチャードは、引き攣った笑みで脳裏で既に爪を研ぐ自身の伴侶に身震いする。

「勘弁してくれ、ナラに八つ裂きにされちまう」

 ナラとはリチャードの嫁の愛称である。
 リチャードはドラティオの中でも獅子の一族であり、皆総じて夫が嫁の尻に敷かれる一族だ。そんな例に漏れず、リチャードも同様に嫁に頭が上がらないのだから仕方ない。
 下手なことで嫁の機嫌を損ねるわけにはいかないと言うリチャードに、ドロシーはいたく感心したとばかりに頷いた。その目は生易しく見守るように細められており、妙な気持ち悪さにリチャードは逃げるようにして出て行った。
 去り際に、「単身で突入すんなよ! アンタはオレらの魔女なんだからな!」と残して。
 くすくすと、“我が子”の言葉に思わず笑みが溢れる。ドロシーにとってこの国において大事な“我が子”と呼べるのは、ドラティオしかいない。掛けられた言葉はあまりにも愛おしく、同時に胸中にあるのはほんの小さな後悔だ。
 残ったのはドロシーとトーエだけであり、玉座が役目を終えてさらさらと形を失っていくのを眺めながら口を開く。

「我が神は、つくづく人間には興味がないようだ。我々の身勝手で国主に祀り上げたが、自身の国に欠片の情もないとは」

「仕方ありません。“彼ら”と対等に渡り合えるのは“彼ら”しかいませんから。神の執着を得るくらいならば、無情で在られる方が実は喜ばしいことなんですよ?」

 首を振ったドロシーは、悪戯めいた笑みを浮かべて人差し指を立てる。
 だが直ぐにその笑みは掻き消え、はるか遠くを見据える。トーエもまた倣い、白銀の竜が消えた空へと視線を向ける。

「陛下はへヴァーゲンに主導権を握らせることに決めたようです。というよりも、斧を取り返したら誰にも侵されることのないようにしたいだけのようですけどね」

 凪いだ空を見上げながら告げられた言葉に、トーエはやはりという気持ちしかない。
 神は斧以外を手放すと、そう決めると予想していただけに特段驚きはしなかった。
 ただ、そこに自身らも含まれるかもしれないという憂慮に、トーエは自嘲の色を濃くして笑む。

「我ら大空の民も、あのお方にとっては煩雑な物の一つなのでありましょうな」

「んー、どうでしょうね。へヴァーゲンや他の神の民ならば迷いなく置いて行くでしょうけれど、“我が子”を蔑ろにするほどではないとは思いますよ」

「......そうであれば、まさに望外の喜びだと言えましょう」

 たとえそれが慰めであろうとも、そうでありたいものだと言う望みを抱きながら、トーエは瞑目する。
 ヴェルテとドロシーの会話から、最早この地に猶予は無いのだと理解していた。目覚めて間もないにもかかわらず、これまでと違って強引に斧の奪還をしようとしているのもまた、その余裕の無さを示唆していたのだ。
 未来の不透明さに幾許かの憂慮のままならなさに泥に足を取られている気分になったところを、ドロシーの真摯に訴えようとする瞳に現実を見る。

「トーエ、どうか何があっても見捨てないでください。あたしたちはどうしてもあたしたちの神の手を取れなかった、裏切ってしまったけれど、あなたたちは絶対に陛下を裏切ってはいけませんよ。大空の神は――」

「無論ですとも。大地の魔女の忠告、しかと我らの魂に刻んでおきます」

 ドロシーの言葉を最後まで言わせるわけにはいかないという、どこからともなく湧いた強迫観念に任せてトーエは頷いた。
 大地の魔女の優しい微笑みは、けれどトーエの目には今にも泣きそうな表情にしか見えなかった。
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