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第1章
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ハルバート神聖国第1区の中心地に、神が住まう塔として天を貫くようにそびえる塔――エーベ。政治的にも国教――空神教としても、国の中枢としての機能を兼ね備えており、ハルバート神聖国を象徴する建造物である。
そんなエーベの塔内にある、とある会議室では、非常に剣呑な雰囲気に包まれていた。
口をつぐみながら、俯きながらも出方を窺うように視線だけは周囲を探って忙しない。言葉を発しようにも部屋の最奥に座る存在が押し黙ったままでは、とてもじゃないが口を開けずにいるのだ。
冷や汗をかき、妙に喉の渇きを覚えてならない彼らの一人が、意を決して口を開こうとした、まさにその瞬間であった。
最奥に黙して座す、背丈を2mは越えるであろう巨躯の老人は、静かに瞼を押し上げた。
その老人はハルバート神聖国において翼人族――アルィーラムが率いる軍事的組織、テラクォシの主席である。彼は背中にその巨躯に見合うだけの巨大な純白の翼を持っており、誰もがその威圧感に満ちた雰囲気と眼光の鋭さに、身を強ばらせて萎縮してしまうのだ。
巨躯の老人――トーエを真ん中に、左右にそれぞれの区の枢機卿らが座っており、彼らの顔を緩慢な動作で一瞥してから、固く閉ざされていた口を開いた。
「――へヴァーゲンはどれだけの時を経ようとも、僅かにも学ばぬものであると、失念していたことを認めよう」
すぅっと細められた目は、感情を乗せていないにも関わらず、肌を刺すように感じるのは、トーエの威圧に気圧されているからだ。
各区代表でもある枢機卿団の面々は、皆一様にしてそれなりに歳を重ねてきた。だがしかし、彼らに睨みをきかせる老人の前では赤子も同然であり、故に嘆かわしいと叱るような口調で告げられる言葉に青くなったり赤くなったりと、複雑な面持ちを隠せない。
しかし、空神教を導く一人として、また神聖国の政治を担ってきた自負もある枢機卿の一人は、今一度意を決して口を開いた。
「ですが主席殿、我々の神が目覚めたのであれば、王国の反神者共から我々の斧を取り返すことこそ、我々神聖国民、空神教徒の為すべきことでありましょう」
そう口にするのは、ユヴディア・アレプサムであり、彼は第13区の区長であった。ユヴディアは熱心な空神教の信徒であり、その熱意を買われて枢機卿団の一員となった。
故に枢機卿団の中では一番若く、そして一番怖いもの知らずでもあった。
13区の区長補佐を務める他の枢機卿がユヴディアを窘めるように、縋るようにやめろと言うものの、彼はトーエに噛み付いた。
「我らが神の悲願のためにも、今すぐにでも王国に宣戦布告し開戦すべきでしょう!」
元々この招集はユヴディアによるものであり、届いた招待状からして嫌な予感がしていたのだと、他の枢機卿らは胃を締め付けられる思いに顔をしかめる。
熱意があることは良い。向上心があることも、愛国心も神を敬う心も。すべてにおいて空神教の一教徒としてなんら間違っておらず、敬虔たるその姿勢には感心させられるばかりだ。
だが、と誰もが首を振る。
ユヴディアが枢機卿になったのはほんの数年前のことであり、ましてや区長になったのも最近の出来事だ。それまでは区長補佐としてあまり会議に出席することはなく、自身の区の発展に邁進していた。故にトーエと対峙する経験が、あまりにも乏しかったのだ。
第13区の区長補佐の一人は、ユヴディアからトーエに恐る恐る視線を移し、思わず喉の奥から悲鳴が出そうになるのをなんとか堪えた。
「我らが神を仰ぐは当然のことだが、神の斧を愚かにも“我々の斧”と? 枢機卿ともあろう者が、神の斧が意味するところを理解していないと言うのか?」
トーエの翼が怒りを露わにばさりと一度広げられる。そしてその風圧にヒィッと何人かの悲鳴が情けなくも上がり、トーエはゆっくりと翼を閉じた。
ユヴディアの額には冷や汗が滲みながらも、臆することなく真っ直ぐにトーエの目を見詰め返す。
「いいえそのようなことは、えぇ、まったく。我々の“神の”斧であると、そう言いたかったのであります。多少の言葉足らずは多目に見ていただければ幸いです。なにぶん感情ばかりが先走ってしまった次第で」
「足らぬのは言葉だけではないだろう。この我を前にして感情すら御せず喚くなど、どうして許されようと思ったのか。その答えはもちろん用意してあるのだろう?」
睥睨する瞳から逃れようにも逃れられず、誰しもが下を向きながら、どうかこれ以上余計なことを言うなと、願うことしか出来ない。
息が詰まりそうな圧迫感はただの錯覚だと、ユヴディアは己に言い聞かせながら、竦みそうになる足を叱咤して立ち上がる。
「良い機会ですから、この場をお借りして物申したく思います。主席殿、あなたにとって我々のような短命な者たちは実に未熟で、あまりにも愚かに映るのでしょう。しかし、神の前では我々もあなたも、皆が平等であるはずです。我々を見下す数々の言動、アルィーラムの傲慢さは、我らが神の悲願における最大の障害だと言えるでしょう。我々は一丸となることでより強固な体制を築き、そうしてようやく神の一助となり、本懐を遂げられるのではないのですか!」
バンッと、昂った感情のままにユヴディアはテーブルを叩き、睨みつけるようにしてトーエに問いかける。
アルィーラムは総じて他種族を見下す傾向が強く、自分たちこそが天空の神の最高傑作であると信じて疑わない。そんなアルィーラムたちは純人族――へヴァーゲンを管理すべき対象としており、枢機卿団が政治などを執り行えども、結局はアルィーラムたちの管理下での統治に過ぎない。
ユヴディアはそんな今の体制のままでは、神の悲願は達成出来ないと考えていた。アルィーラムのへヴァーゲンへの差別意識を完全に失くすことは出来なくとも、手を取り合うかたちさえ出来ればもっとスムーズに話が進むことも多いはずだと。
そうしてもっとより良い国となり、空神教の発展は目覚ましいものになるだろうと、信じて疑わなかった。
そんなユヴディアの思いなど、しかしトーエの胸に響くことはほんの僅かにもない。
「――それがへヴァーゲンの総意であると、捉えて良いのだな?」
トーエの翼がばさりと大きく開き、部屋に差し込む光を遮る。そうして出来た影の中でもトーエの瞳は煌めきを保ったまま、ユヴディアを、そして頭を下げて許しを乞う枢機卿団へと向けられる。
「いいえ、まさかそのようなことはございません!」
「もう良いでは無いか、アレプサムよ。主席殿の寛大なお心をもってしても、目に余る言動だぞ!」
「それこそ脅迫であり、今まさに、恐怖で我々を支配下に置こうとしている、その行動こそが傲慢だと言うのです! トーエ主席殿、我々を真に支配出来るのは神だけであると、どうしてご理解くださらないのですか!」
一緒くたにされては困ると、一部否定の声が上がるのをユヴディアは被せて糾弾をする。
ユヴディアはここで屈することは、その支配を受け入れるということであると、震えている足を一歩踏み出すことでなんとか耐えてみせる。
枢機卿団の他の面々といえば、皆が萎縮しきってしまい、最早同志を得られそうにもなかった。故に、ユヴディアはこの老爺にひとりで立ち向かうしかなく、けれどそれも覚悟したとばかりにその目は爛々としていた。
揺るがぬ決意に、されどトーエは心動かされるほどに彼を対等になど見ていなかった。
「またも......またも同じ過ちを繰り返そうと言うのか、へヴァーゲンよ」
呆れに富んだその声音は、地を這うように低い。
室内の気温がグンと下がったように感じられたのは、本当に錯覚であるのかは誰にも分からない。しかし、今ここで自身らの生が終わるという、確固たる自信をもって予知を得ていた。
「我らアルィーラムが傲慢であると? 大地を穢した罪を雪ぐことなく、大空をも穢すと宣うその愚かさを、この大空の神が創りし始まりの翼、トーエに向かい曝したというのか」
空気が震える音が聞こえるとともに、とてつもない振動が室内を襲う。
恐怖に引き攣った喉は悲鳴すら上げることは叶わず、腰を抜かした何人かは椅子から滑り落ち、床にへたりこんで情けない姿を見せていた。良い歳をした、最早老年に差し掛かっているであろう者たちですら、かの白翼の前には等しく赤子であった。
トーエの手には一本の柄の長い斧が握られており、ガンッと床を打てば振動が収まった。
「――へヴァーゲンよ、今一度問おう。へヴァーゲンの愚かさを差し置き、我らアルィーラムを貶める発言の、その真の意を」
翼が閉じられ、光が再び室内に差し込んだことで、浅くなっていた呼吸にようやく気付く。何度か深呼吸を繰り返せばやがて落ち着きを取り戻し、ユヴディアは細められたトーエの目を見返した。
握る拳には力が入っており、ふと力を抜けばじっとりと嫌な汗が掌に浮かんでいる。自身に落ち着けと更に言い聞かせ、きつく噛み締めていた口をゆっくりと開ける。
「アルィーラムはあまりにも我々を軽んじる。同じ神に祈りを捧げる同志であるはずだというのに、神ではないあなたたちが我々を支配しようとする。そんなことは間違っていると、わたしは常々思っていました。ですから、我らへヴァーゲンの地位向上とアルィーラムの監視社会の撤廃に、神への直訴を行いたく、謁見の場を取り付けていただき――」
風を切る音は、首筋に温かいものが流れるよりも後に聞こえた気がした。
鋭く開かれた眼差しは、今にもユヴディアを殺さんと射抜いている。首に感じる圧はトーエの斧が今まさに、ユヴディアの首を落とさんとほんの少し切りつけるようにしてあてられているからだ。
頭で理解は出来ても、その状況を呑み込めるかと言われれば、もちろんユヴディアは出来るはずもない。
恐怖が身体中を支配し、そんな中粗相をすることがなかったのは奇跡に等しかった。
死を突き付けられ立ち尽くすユヴディアに、トーエはゆっくりと斧を推し進める。
重いその斧の刃の斬れ味は十分で、たらたらと流れる血は増していく。温かい液体が流れていくのを感じながら、ユヴディアは口を意味もなく開閉させることしか出来ない。
「いけませんよ、トーエ」
トーエが一息に首を落とそうと力を込めたその斧を、細い指が優しく受け止めていた。
この場にあまりにも似つかわしくない、慈愛に満ちたような声音に、ユヴディアは震えていた足がついに立ち続けることを放棄し、尻餅をついて見上げていた。
深い緑の髪が森の香りを伴って、ふわりと舞ってユヴディアを振り返る。そうして花のような笑顔を向けてくるものだから、今更に恐怖が涙として感情を発露させる。
「あらあらまぁまぁ、怖かったですよね。大丈夫ですよ、もうお姉ちゃんが来ましたから。はいはい、皆さんももう大丈夫ですよ。お姉ちゃんがトーエを叱りに来てあげましたからね!」
そう言って乱入者――ドロシーは、ユヴディアの首筋に手を触れると、傷は瞬く間に治ってしまう。
そしてパンっと、彼女が軽く手を叩けば一瞬室内に花々が咲き乱れる。だがその花畑は一瞬にして空気に溶けるようにして散り、室内には花の香りが残るだけだ。
その香りには気分を落ち着かせる効果があったのか、ユヴディアを含めた枢機卿団の面々の顔色も、段々と血の気が戻ってきたように見える。
「トーエ、いけませんよ。あんまりみんなを怖がらせると、あなたを叱らなくてはなりません。彼らは国のため、ひいては陛下のためを思って熱弁しているだけなのですからね」
「......理解していますとも、大地の魔女よ」
ズンズンと、トーエの前に歩いて来たドロシーは、腰に手を当てて指先を向ける。
そうしてぷりぷりと怒る姿を見ていると、何故か力が抜けてくるもので、トーエは扉に目を向けて片手を上げる。そこにはまだ若いアルィーラムがおり、扉番をしていたものの、ドロシーの侵入を防げなかったことを悔いているようだったが、トーエの不問にするという意図を汲んでから一礼して下がった。
「聞いていますか、トーエ。トーエはすぐそうしかめた顔をするからみんなに怖がられるんですよ。こんなに可愛いんですから、にっこり笑えば良いんですよ、ほらにーっこり」
ドロシーはそのまま無遠慮にトーエに手を伸ばすものの、当然そのままではトーエに届きようもない。しかしトーエは自身の膝を折り、ドロシーのされるがままに顔を差し出した。
歳を経て最早大した弾力もないであろうトーエの頬を、ぶにぶにとこねくり回すドロシー。そんな姿を見せられている枢機卿団は、言葉を失っているどころではなく、何故か見るべきではないと本能で悟って目を逸らしていた。いくら魔女の行いといえど、あの大老の顔を捏ねくり回す姿を見続けれる強心臓の持ち主は、ここにはいなかったのだ。
「駄目ですよ、しかめっ面ばかり陛下に似ては。トーエはちゃんと可愛いところを残しておいてくださいね」
一頻りトーエの顔や頭を撫で回したドロシーは、溜息とともに手を離すとやれやれとばかりに首を振った。
「大地の魔女よ、わざわざ我の顔に苦言を呈しに来たわけでもありますまい。用件を伺ってもよろしいだろうか」
トーエはユヴディアを殺そうとしていたことなど無かったかのように、何をしに来たとドロシーを見詰める。
既にトーエの中でユヴディアのことなど眼中に無く、ユヴディアは唇を噛み締めて睨むことしか出来ない。
「ええ、良いですよ。あたしは呼びに来たんですよ、陛下がトーエをお呼びですから。だから、間違っても無礼な乱入者とか思ってはいけませんよ。喧嘩の仲裁に来た、優しいお姉ちゃんだと思ってください」
乱入者と思われたくないならば、もう少しまともな入り方をすれば良いと、トーエは胸にしまったままに立ち上がった。
ドロシーの指す陛下とは、ヴェルテ・ハルバート神聖国王――神聖国民ならば誰もが敬愛する大空の神、カエノスである。
そんな神の呼び出しとあればなにを置いても優先されるべきであり、この意味を失った会議を続ける道理などトーエにはない。閉会の言葉なくともそれを理解していようと、トーエはすぐに部屋を出て行こうとするが、そこへ思いがけず声が上がった。
「どうか! どうか陛下への謁見を――」
トーエは何よりも神を優先し、そしてそれを邪魔するものを許容出来なかった。
再度顕現した斧はユヴディアに襲い掛かり、トーエの進行を阻むものを一切の容赦なく排除しようとしていた。
しかし、今ここには大地の魔女であるドロシーがいたことで、ユヴディアの首は落とされることなく繋がったままに、その光景を見続けることが出来ていた。
トーエの振り落とした腕を、片手で難なく受け止めるドロシー。彼女はにっこりとした笑顔を向けながら、首を傾げてみせる余裕まで持ち合わせていた。
「二度目ですよ、トーエ。あたしは許さないと、そう言ったつもりでした。この意味が分からないとは、絶対に言わせませんよ」
みしりと、トーエの腕が軋む音がやけに響いた。
たっぷりと10秒ほどかけ、ようやくトーエはその腕を下ろし斧を収めた。トーエの深い溜息と対照に、ドロシーの朗らかな声が凍りついた場の空気を霧散させる。
「トーエは昔から本当に聞き分けが良い子ですね。これではお姉ちゃんの鼻が陛下にぶつかるのも時間の問題ですよ!」
ドロシーが背伸びをして偉い偉いと、トーエの頭を撫でようとするも、届かずにぷるぷると震えている。トーエも今度は背をかがめることもなく、その様を見下ろしているだけなのだから意趣返しのつもりなのだろう。
しばらく粘った末に諦めたドロシーは、ふぅと一息吐いてからユヴディアに向き直る。
「あなたが無為に命を散らしても、なにも変わりません。何事も、急いてばかりいては命を削りますからね。ですから、謁見の申し入れはまた時機を見て改めてくれますか?」
他の者に支えられ、ようやく立ち上がれるようになったユヴディアが、ぶるぶると震えたままに頷くと、それは良かったとドロシーは満面の笑みで手を叩く。
「それでは閉会ということで」
ドロシーはそう告げると、トーエを急かすように背を押しながら部屋をあとにする。
残された枢機卿らは未だに恐怖に包まれていたが、その中でユヴディアだけは恐怖の他に、ただならぬ決意に満ちた目で二人が出て行った扉を見詰めて自嘲気味に呟いた。
「......“あのお方”の言う通りだったな」
そんなエーベの塔内にある、とある会議室では、非常に剣呑な雰囲気に包まれていた。
口をつぐみながら、俯きながらも出方を窺うように視線だけは周囲を探って忙しない。言葉を発しようにも部屋の最奥に座る存在が押し黙ったままでは、とてもじゃないが口を開けずにいるのだ。
冷や汗をかき、妙に喉の渇きを覚えてならない彼らの一人が、意を決して口を開こうとした、まさにその瞬間であった。
最奥に黙して座す、背丈を2mは越えるであろう巨躯の老人は、静かに瞼を押し上げた。
その老人はハルバート神聖国において翼人族――アルィーラムが率いる軍事的組織、テラクォシの主席である。彼は背中にその巨躯に見合うだけの巨大な純白の翼を持っており、誰もがその威圧感に満ちた雰囲気と眼光の鋭さに、身を強ばらせて萎縮してしまうのだ。
巨躯の老人――トーエを真ん中に、左右にそれぞれの区の枢機卿らが座っており、彼らの顔を緩慢な動作で一瞥してから、固く閉ざされていた口を開いた。
「――へヴァーゲンはどれだけの時を経ようとも、僅かにも学ばぬものであると、失念していたことを認めよう」
すぅっと細められた目は、感情を乗せていないにも関わらず、肌を刺すように感じるのは、トーエの威圧に気圧されているからだ。
各区代表でもある枢機卿団の面々は、皆一様にしてそれなりに歳を重ねてきた。だがしかし、彼らに睨みをきかせる老人の前では赤子も同然であり、故に嘆かわしいと叱るような口調で告げられる言葉に青くなったり赤くなったりと、複雑な面持ちを隠せない。
しかし、空神教を導く一人として、また神聖国の政治を担ってきた自負もある枢機卿の一人は、今一度意を決して口を開いた。
「ですが主席殿、我々の神が目覚めたのであれば、王国の反神者共から我々の斧を取り返すことこそ、我々神聖国民、空神教徒の為すべきことでありましょう」
そう口にするのは、ユヴディア・アレプサムであり、彼は第13区の区長であった。ユヴディアは熱心な空神教の信徒であり、その熱意を買われて枢機卿団の一員となった。
故に枢機卿団の中では一番若く、そして一番怖いもの知らずでもあった。
13区の区長補佐を務める他の枢機卿がユヴディアを窘めるように、縋るようにやめろと言うものの、彼はトーエに噛み付いた。
「我らが神の悲願のためにも、今すぐにでも王国に宣戦布告し開戦すべきでしょう!」
元々この招集はユヴディアによるものであり、届いた招待状からして嫌な予感がしていたのだと、他の枢機卿らは胃を締め付けられる思いに顔をしかめる。
熱意があることは良い。向上心があることも、愛国心も神を敬う心も。すべてにおいて空神教の一教徒としてなんら間違っておらず、敬虔たるその姿勢には感心させられるばかりだ。
だが、と誰もが首を振る。
ユヴディアが枢機卿になったのはほんの数年前のことであり、ましてや区長になったのも最近の出来事だ。それまでは区長補佐としてあまり会議に出席することはなく、自身の区の発展に邁進していた。故にトーエと対峙する経験が、あまりにも乏しかったのだ。
第13区の区長補佐の一人は、ユヴディアからトーエに恐る恐る視線を移し、思わず喉の奥から悲鳴が出そうになるのをなんとか堪えた。
「我らが神を仰ぐは当然のことだが、神の斧を愚かにも“我々の斧”と? 枢機卿ともあろう者が、神の斧が意味するところを理解していないと言うのか?」
トーエの翼が怒りを露わにばさりと一度広げられる。そしてその風圧にヒィッと何人かの悲鳴が情けなくも上がり、トーエはゆっくりと翼を閉じた。
ユヴディアの額には冷や汗が滲みながらも、臆することなく真っ直ぐにトーエの目を見詰め返す。
「いいえそのようなことは、えぇ、まったく。我々の“神の”斧であると、そう言いたかったのであります。多少の言葉足らずは多目に見ていただければ幸いです。なにぶん感情ばかりが先走ってしまった次第で」
「足らぬのは言葉だけではないだろう。この我を前にして感情すら御せず喚くなど、どうして許されようと思ったのか。その答えはもちろん用意してあるのだろう?」
睥睨する瞳から逃れようにも逃れられず、誰しもが下を向きながら、どうかこれ以上余計なことを言うなと、願うことしか出来ない。
息が詰まりそうな圧迫感はただの錯覚だと、ユヴディアは己に言い聞かせながら、竦みそうになる足を叱咤して立ち上がる。
「良い機会ですから、この場をお借りして物申したく思います。主席殿、あなたにとって我々のような短命な者たちは実に未熟で、あまりにも愚かに映るのでしょう。しかし、神の前では我々もあなたも、皆が平等であるはずです。我々を見下す数々の言動、アルィーラムの傲慢さは、我らが神の悲願における最大の障害だと言えるでしょう。我々は一丸となることでより強固な体制を築き、そうしてようやく神の一助となり、本懐を遂げられるのではないのですか!」
バンッと、昂った感情のままにユヴディアはテーブルを叩き、睨みつけるようにしてトーエに問いかける。
アルィーラムは総じて他種族を見下す傾向が強く、自分たちこそが天空の神の最高傑作であると信じて疑わない。そんなアルィーラムたちは純人族――へヴァーゲンを管理すべき対象としており、枢機卿団が政治などを執り行えども、結局はアルィーラムたちの管理下での統治に過ぎない。
ユヴディアはそんな今の体制のままでは、神の悲願は達成出来ないと考えていた。アルィーラムのへヴァーゲンへの差別意識を完全に失くすことは出来なくとも、手を取り合うかたちさえ出来ればもっとスムーズに話が進むことも多いはずだと。
そうしてもっとより良い国となり、空神教の発展は目覚ましいものになるだろうと、信じて疑わなかった。
そんなユヴディアの思いなど、しかしトーエの胸に響くことはほんの僅かにもない。
「――それがへヴァーゲンの総意であると、捉えて良いのだな?」
トーエの翼がばさりと大きく開き、部屋に差し込む光を遮る。そうして出来た影の中でもトーエの瞳は煌めきを保ったまま、ユヴディアを、そして頭を下げて許しを乞う枢機卿団へと向けられる。
「いいえ、まさかそのようなことはございません!」
「もう良いでは無いか、アレプサムよ。主席殿の寛大なお心をもってしても、目に余る言動だぞ!」
「それこそ脅迫であり、今まさに、恐怖で我々を支配下に置こうとしている、その行動こそが傲慢だと言うのです! トーエ主席殿、我々を真に支配出来るのは神だけであると、どうしてご理解くださらないのですか!」
一緒くたにされては困ると、一部否定の声が上がるのをユヴディアは被せて糾弾をする。
ユヴディアはここで屈することは、その支配を受け入れるということであると、震えている足を一歩踏み出すことでなんとか耐えてみせる。
枢機卿団の他の面々といえば、皆が萎縮しきってしまい、最早同志を得られそうにもなかった。故に、ユヴディアはこの老爺にひとりで立ち向かうしかなく、けれどそれも覚悟したとばかりにその目は爛々としていた。
揺るがぬ決意に、されどトーエは心動かされるほどに彼を対等になど見ていなかった。
「またも......またも同じ過ちを繰り返そうと言うのか、へヴァーゲンよ」
呆れに富んだその声音は、地を這うように低い。
室内の気温がグンと下がったように感じられたのは、本当に錯覚であるのかは誰にも分からない。しかし、今ここで自身らの生が終わるという、確固たる自信をもって予知を得ていた。
「我らアルィーラムが傲慢であると? 大地を穢した罪を雪ぐことなく、大空をも穢すと宣うその愚かさを、この大空の神が創りし始まりの翼、トーエに向かい曝したというのか」
空気が震える音が聞こえるとともに、とてつもない振動が室内を襲う。
恐怖に引き攣った喉は悲鳴すら上げることは叶わず、腰を抜かした何人かは椅子から滑り落ち、床にへたりこんで情けない姿を見せていた。良い歳をした、最早老年に差し掛かっているであろう者たちですら、かの白翼の前には等しく赤子であった。
トーエの手には一本の柄の長い斧が握られており、ガンッと床を打てば振動が収まった。
「――へヴァーゲンよ、今一度問おう。へヴァーゲンの愚かさを差し置き、我らアルィーラムを貶める発言の、その真の意を」
翼が閉じられ、光が再び室内に差し込んだことで、浅くなっていた呼吸にようやく気付く。何度か深呼吸を繰り返せばやがて落ち着きを取り戻し、ユヴディアは細められたトーエの目を見返した。
握る拳には力が入っており、ふと力を抜けばじっとりと嫌な汗が掌に浮かんでいる。自身に落ち着けと更に言い聞かせ、きつく噛み締めていた口をゆっくりと開ける。
「アルィーラムはあまりにも我々を軽んじる。同じ神に祈りを捧げる同志であるはずだというのに、神ではないあなたたちが我々を支配しようとする。そんなことは間違っていると、わたしは常々思っていました。ですから、我らへヴァーゲンの地位向上とアルィーラムの監視社会の撤廃に、神への直訴を行いたく、謁見の場を取り付けていただき――」
風を切る音は、首筋に温かいものが流れるよりも後に聞こえた気がした。
鋭く開かれた眼差しは、今にもユヴディアを殺さんと射抜いている。首に感じる圧はトーエの斧が今まさに、ユヴディアの首を落とさんとほんの少し切りつけるようにしてあてられているからだ。
頭で理解は出来ても、その状況を呑み込めるかと言われれば、もちろんユヴディアは出来るはずもない。
恐怖が身体中を支配し、そんな中粗相をすることがなかったのは奇跡に等しかった。
死を突き付けられ立ち尽くすユヴディアに、トーエはゆっくりと斧を推し進める。
重いその斧の刃の斬れ味は十分で、たらたらと流れる血は増していく。温かい液体が流れていくのを感じながら、ユヴディアは口を意味もなく開閉させることしか出来ない。
「いけませんよ、トーエ」
トーエが一息に首を落とそうと力を込めたその斧を、細い指が優しく受け止めていた。
この場にあまりにも似つかわしくない、慈愛に満ちたような声音に、ユヴディアは震えていた足がついに立ち続けることを放棄し、尻餅をついて見上げていた。
深い緑の髪が森の香りを伴って、ふわりと舞ってユヴディアを振り返る。そうして花のような笑顔を向けてくるものだから、今更に恐怖が涙として感情を発露させる。
「あらあらまぁまぁ、怖かったですよね。大丈夫ですよ、もうお姉ちゃんが来ましたから。はいはい、皆さんももう大丈夫ですよ。お姉ちゃんがトーエを叱りに来てあげましたからね!」
そう言って乱入者――ドロシーは、ユヴディアの首筋に手を触れると、傷は瞬く間に治ってしまう。
そしてパンっと、彼女が軽く手を叩けば一瞬室内に花々が咲き乱れる。だがその花畑は一瞬にして空気に溶けるようにして散り、室内には花の香りが残るだけだ。
その香りには気分を落ち着かせる効果があったのか、ユヴディアを含めた枢機卿団の面々の顔色も、段々と血の気が戻ってきたように見える。
「トーエ、いけませんよ。あんまりみんなを怖がらせると、あなたを叱らなくてはなりません。彼らは国のため、ひいては陛下のためを思って熱弁しているだけなのですからね」
「......理解していますとも、大地の魔女よ」
ズンズンと、トーエの前に歩いて来たドロシーは、腰に手を当てて指先を向ける。
そうしてぷりぷりと怒る姿を見ていると、何故か力が抜けてくるもので、トーエは扉に目を向けて片手を上げる。そこにはまだ若いアルィーラムがおり、扉番をしていたものの、ドロシーの侵入を防げなかったことを悔いているようだったが、トーエの不問にするという意図を汲んでから一礼して下がった。
「聞いていますか、トーエ。トーエはすぐそうしかめた顔をするからみんなに怖がられるんですよ。こんなに可愛いんですから、にっこり笑えば良いんですよ、ほらにーっこり」
ドロシーはそのまま無遠慮にトーエに手を伸ばすものの、当然そのままではトーエに届きようもない。しかしトーエは自身の膝を折り、ドロシーのされるがままに顔を差し出した。
歳を経て最早大した弾力もないであろうトーエの頬を、ぶにぶにとこねくり回すドロシー。そんな姿を見せられている枢機卿団は、言葉を失っているどころではなく、何故か見るべきではないと本能で悟って目を逸らしていた。いくら魔女の行いといえど、あの大老の顔を捏ねくり回す姿を見続けれる強心臓の持ち主は、ここにはいなかったのだ。
「駄目ですよ、しかめっ面ばかり陛下に似ては。トーエはちゃんと可愛いところを残しておいてくださいね」
一頻りトーエの顔や頭を撫で回したドロシーは、溜息とともに手を離すとやれやれとばかりに首を振った。
「大地の魔女よ、わざわざ我の顔に苦言を呈しに来たわけでもありますまい。用件を伺ってもよろしいだろうか」
トーエはユヴディアを殺そうとしていたことなど無かったかのように、何をしに来たとドロシーを見詰める。
既にトーエの中でユヴディアのことなど眼中に無く、ユヴディアは唇を噛み締めて睨むことしか出来ない。
「ええ、良いですよ。あたしは呼びに来たんですよ、陛下がトーエをお呼びですから。だから、間違っても無礼な乱入者とか思ってはいけませんよ。喧嘩の仲裁に来た、優しいお姉ちゃんだと思ってください」
乱入者と思われたくないならば、もう少しまともな入り方をすれば良いと、トーエは胸にしまったままに立ち上がった。
ドロシーの指す陛下とは、ヴェルテ・ハルバート神聖国王――神聖国民ならば誰もが敬愛する大空の神、カエノスである。
そんな神の呼び出しとあればなにを置いても優先されるべきであり、この意味を失った会議を続ける道理などトーエにはない。閉会の言葉なくともそれを理解していようと、トーエはすぐに部屋を出て行こうとするが、そこへ思いがけず声が上がった。
「どうか! どうか陛下への謁見を――」
トーエは何よりも神を優先し、そしてそれを邪魔するものを許容出来なかった。
再度顕現した斧はユヴディアに襲い掛かり、トーエの進行を阻むものを一切の容赦なく排除しようとしていた。
しかし、今ここには大地の魔女であるドロシーがいたことで、ユヴディアの首は落とされることなく繋がったままに、その光景を見続けることが出来ていた。
トーエの振り落とした腕を、片手で難なく受け止めるドロシー。彼女はにっこりとした笑顔を向けながら、首を傾げてみせる余裕まで持ち合わせていた。
「二度目ですよ、トーエ。あたしは許さないと、そう言ったつもりでした。この意味が分からないとは、絶対に言わせませんよ」
みしりと、トーエの腕が軋む音がやけに響いた。
たっぷりと10秒ほどかけ、ようやくトーエはその腕を下ろし斧を収めた。トーエの深い溜息と対照に、ドロシーの朗らかな声が凍りついた場の空気を霧散させる。
「トーエは昔から本当に聞き分けが良い子ですね。これではお姉ちゃんの鼻が陛下にぶつかるのも時間の問題ですよ!」
ドロシーが背伸びをして偉い偉いと、トーエの頭を撫でようとするも、届かずにぷるぷると震えている。トーエも今度は背をかがめることもなく、その様を見下ろしているだけなのだから意趣返しのつもりなのだろう。
しばらく粘った末に諦めたドロシーは、ふぅと一息吐いてからユヴディアに向き直る。
「あなたが無為に命を散らしても、なにも変わりません。何事も、急いてばかりいては命を削りますからね。ですから、謁見の申し入れはまた時機を見て改めてくれますか?」
他の者に支えられ、ようやく立ち上がれるようになったユヴディアが、ぶるぶると震えたままに頷くと、それは良かったとドロシーは満面の笑みで手を叩く。
「それでは閉会ということで」
ドロシーはそう告げると、トーエを急かすように背を押しながら部屋をあとにする。
残された枢機卿らは未だに恐怖に包まれていたが、その中でユヴディアだけは恐怖の他に、ただならぬ決意に満ちた目で二人が出て行った扉を見詰めて自嘲気味に呟いた。
「......“あのお方”の言う通りだったな」
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