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第1章
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スクートを腕に抱いた男は、ユラーシアの樹に凭れるように座り直す。魔物の血に塗れた彼女を愛おしげに見詰め、汲み上げた魔力を使ってその身を浄化していく。
魔物の返り血は淡い光となって空に立ち上り、やがて霧散して消えていった。
深い眠りに落ちている彼女の顔は無表情であり、かつての記憶の穏やかなものとは違うことに一抹の寂しさを覚えた。それでも失ったものが手元にあるということだけで、この長い時の消失感を埋めるには十分だった。
彼女の口から出た言葉に、傷付いたというのは本音であり、それと同時に怒りも覚えた。
こんなにも求めているというのに、彼女は素知らぬ顔でそれを否定するのだ。
今腕にいる彼女は欠片に過ぎず、意図的に記憶も欠落させられているのだから、彼女を責めるのは酷だろう。
陽の光に煌めく金糸の髪に、鋭く睨み付けてきた金色の瞳。引き結ばれた薄い唇に、華奢でありながらも炉心を得た肉体はしなやかな強さを持つ。鼓膜を通して伝わる彼女の声は、澄んだ泉のせせらぎよりも心地好い。
彼女の目元にかかる前髪を指先で払い、露わになった額に口付ける。
自身の魔力を微量ながらに付与すれば、鍵を壊さぬままに覆い尽くす。そして、彼女の髪が滲むように色を変え始めた。
けれど、それもほんの数秒程度で元の金色に戻り、男は溜息混じりに顔を上げた。
「――ドロシー、お前も顔を見せてやれば良かったものを」
男の声に合わせ、頭上から何かが降ってくる。
音も立てずにそれは男の前に着地すると、いいえ、と眉を寄せて微笑んだ。
「思わぬところでではありますが、陛下にとって待ちわびた再会でございますから」
ドロシーと呼ばれた女は男の目の前に屈むと、微かな寝息をたてるスクートの頬に手を伸ばす。
触れるその手は震えていて、彼女は慈しむように優しく撫でる。
「可愛くて、可哀想なコルディス......」
ドロシーの深緑の髪がゆらりと揺れ始め、感情の激しい揺らぎに呼応して魔力が溢れ出す。
男に名を呼ばれ、ハッとしたような面持ちで我に返ると、ドロシーはスクートから手を離してさめざめと泣き出した。ぽろぽろと両目から流れる涙はとどまることを知らず、ドロシーの嗚咽だけが響く。
スクートの眠りがそれによって妨げられるわけではないが、男はドロシーに呆れた口調で言い放つ。
「鬱陶しいから泣くな。会う度に泣くお前を見たコルディスの、理解不能だと言う顔を忘れたか? 今のコルディスに、過去はない」
「酷いですね、陛下。家族にやっと会えた喜びと、その家族が記憶喪失になっている悲しみに涙を流しているというのに! まさか陛下、コルディスにもあたしのように接していたんじゃありませんよね? あたしの可愛いコルディスをぞんざいな扱いをしていたのだとしたら、あたし怒ってしまいますよ!」
ドロシーはキッと涙を浮かべたままの新緑の瞳で睨み付ける。
対して男はやや視線を逸らし、スクートを抱き寄せて口ごもる。
「いや、それは最初だけだから、コルディスにそんな言葉を言うわけがないだろう」
「おやおやおや~? これは初耳ですね、陛下。あたしの可愛いコルディスの涙に対し、鬱陶しいなどとおっしゃったと?」
「あの頃は人間に対して興味がなかったのだから当然だろう!」
「開き直りましたね!? あぁ、可哀想なコルディス。あたしが陛下の分まで愛してあげるから、もう心臓なんて返しちゃいましょうね!」
ドロシーの言葉に、男は冷たく切り捨てた。
「――お前とて、限度があるぞ」
深紅の瞳が深い色を煌めかせ、ドロシーを射抜かんばかりに睨めつける。
常人であればその眼差しに耐えられないだろうが、相手はそんな男の腹心たる女だ。
ふっと、ドロシーは笑みを落とす。
「冗談ですよ。あなたもまた、あたしにとっては大切な家族ですから」
彼女の言葉に男は敵わないとばかりに脱力すると、腕に抱いていたスクートをドロシーに預ける。
こんなにも賑やかな応酬を繰り広げていたというのに、スクートの瞼は閉じられたままだ。
男はドロシーに命令すると、目を閉じて眠りにつく。彼は最も魔素の濃いこの場所に、静養のため訪れていたのだ。
ドロシーは男が眠りについたのを見届け、スクートを腕に抱えたままユラーシアの樹を背にした。
森を駆けるドロシーに、近寄る魔物はいない。ドロシーからは絶えず魔物を容易く屠るだろう魔力が流れているため、本能で生きる彼らは危険を察知してその身を潜めているのだ。
平時より静かな森の中、ドロシーは腕の中で眠るスクートに罪悪感に苛まれた声音で独り言を落とした。
「情けないお姉ちゃんで、ごめんね」
魔物の返り血は淡い光となって空に立ち上り、やがて霧散して消えていった。
深い眠りに落ちている彼女の顔は無表情であり、かつての記憶の穏やかなものとは違うことに一抹の寂しさを覚えた。それでも失ったものが手元にあるということだけで、この長い時の消失感を埋めるには十分だった。
彼女の口から出た言葉に、傷付いたというのは本音であり、それと同時に怒りも覚えた。
こんなにも求めているというのに、彼女は素知らぬ顔でそれを否定するのだ。
今腕にいる彼女は欠片に過ぎず、意図的に記憶も欠落させられているのだから、彼女を責めるのは酷だろう。
陽の光に煌めく金糸の髪に、鋭く睨み付けてきた金色の瞳。引き結ばれた薄い唇に、華奢でありながらも炉心を得た肉体はしなやかな強さを持つ。鼓膜を通して伝わる彼女の声は、澄んだ泉のせせらぎよりも心地好い。
彼女の目元にかかる前髪を指先で払い、露わになった額に口付ける。
自身の魔力を微量ながらに付与すれば、鍵を壊さぬままに覆い尽くす。そして、彼女の髪が滲むように色を変え始めた。
けれど、それもほんの数秒程度で元の金色に戻り、男は溜息混じりに顔を上げた。
「――ドロシー、お前も顔を見せてやれば良かったものを」
男の声に合わせ、頭上から何かが降ってくる。
音も立てずにそれは男の前に着地すると、いいえ、と眉を寄せて微笑んだ。
「思わぬところでではありますが、陛下にとって待ちわびた再会でございますから」
ドロシーと呼ばれた女は男の目の前に屈むと、微かな寝息をたてるスクートの頬に手を伸ばす。
触れるその手は震えていて、彼女は慈しむように優しく撫でる。
「可愛くて、可哀想なコルディス......」
ドロシーの深緑の髪がゆらりと揺れ始め、感情の激しい揺らぎに呼応して魔力が溢れ出す。
男に名を呼ばれ、ハッとしたような面持ちで我に返ると、ドロシーはスクートから手を離してさめざめと泣き出した。ぽろぽろと両目から流れる涙はとどまることを知らず、ドロシーの嗚咽だけが響く。
スクートの眠りがそれによって妨げられるわけではないが、男はドロシーに呆れた口調で言い放つ。
「鬱陶しいから泣くな。会う度に泣くお前を見たコルディスの、理解不能だと言う顔を忘れたか? 今のコルディスに、過去はない」
「酷いですね、陛下。家族にやっと会えた喜びと、その家族が記憶喪失になっている悲しみに涙を流しているというのに! まさか陛下、コルディスにもあたしのように接していたんじゃありませんよね? あたしの可愛いコルディスをぞんざいな扱いをしていたのだとしたら、あたし怒ってしまいますよ!」
ドロシーはキッと涙を浮かべたままの新緑の瞳で睨み付ける。
対して男はやや視線を逸らし、スクートを抱き寄せて口ごもる。
「いや、それは最初だけだから、コルディスにそんな言葉を言うわけがないだろう」
「おやおやおや~? これは初耳ですね、陛下。あたしの可愛いコルディスの涙に対し、鬱陶しいなどとおっしゃったと?」
「あの頃は人間に対して興味がなかったのだから当然だろう!」
「開き直りましたね!? あぁ、可哀想なコルディス。あたしが陛下の分まで愛してあげるから、もう心臓なんて返しちゃいましょうね!」
ドロシーの言葉に、男は冷たく切り捨てた。
「――お前とて、限度があるぞ」
深紅の瞳が深い色を煌めかせ、ドロシーを射抜かんばかりに睨めつける。
常人であればその眼差しに耐えられないだろうが、相手はそんな男の腹心たる女だ。
ふっと、ドロシーは笑みを落とす。
「冗談ですよ。あなたもまた、あたしにとっては大切な家族ですから」
彼女の言葉に男は敵わないとばかりに脱力すると、腕に抱いていたスクートをドロシーに預ける。
こんなにも賑やかな応酬を繰り広げていたというのに、スクートの瞼は閉じられたままだ。
男はドロシーに命令すると、目を閉じて眠りにつく。彼は最も魔素の濃いこの場所に、静養のため訪れていたのだ。
ドロシーは男が眠りについたのを見届け、スクートを腕に抱えたままユラーシアの樹を背にした。
森を駆けるドロシーに、近寄る魔物はいない。ドロシーからは絶えず魔物を容易く屠るだろう魔力が流れているため、本能で生きる彼らは危険を察知してその身を潜めているのだ。
平時より静かな森の中、ドロシーは腕の中で眠るスクートに罪悪感に苛まれた声音で独り言を落とした。
「情けないお姉ちゃんで、ごめんね」
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