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音楽祭編
〈2〉……累目線
しおりを挟む「南禅寺のデュオ? やる」
賢二郎の返事はあっさりしたものだった。あまりにあっさりしすぎていて、こっちが気を遣ってしまう。
「ええと……大丈夫なんですか? サーシャ……さんが気を悪くされたりしません?」
「え? なんでそこでサーシャの話題が出てくんねん。君と僕にきた話やろ? やるかやらんかは僕が決めることやん」
「その通りなんですけど……」
サーシャの気配を探りながらレッスン棟へやってきた累は、そこでバッタリ賢二郎に出くわしたのだ。こんなところで二人で話し込んでいてはまた何を言われるやら……とソワソワしている累を見かねたらしく、賢二郎は「そんな気にせんでええて。向こうももう君にやきもちやいてるわけちゃうし」と言う。
「ほんまに気にしてんねん。君の回復ぐあいをな」
「そ、そうですか。まぁ、音楽祭も近づいてきましたしね」
「まぁ、それもあるやろけど……」
賢二郎はなにか言いかけたが、すぐに口を閉じてしまう。何を言おうとしたのか気になったけれど、賢二郎はすぐに「ほんで、京都の話やけど」と話題を変えた。
「いつの予定? また桜の時期やろか」
「そうみたいです。スケジュールは大丈夫ですか?」
「だいたい半年後やんな? 君みたいにスケジュールビッシリってわけちゃうから全然大丈夫やで」
「はぁ」
あいかわらず、賢二郎の言葉はどことなく嫌味っぽい。だが、こうしてのんびり二人で話をするが久しぶりということもあって、嫌味さえも懐かしかった。
賢二郎がおごってくれた缶コーヒーを手に、レッスン棟の涼しい廊下で、二人並んでベンチに腰掛けていると、まだ高校生だった頃の記憶が累の脳内を去来する。
賢二郎との付き合いのことで、空にはずいぶん気苦労をかけてしまった。なので空と賢二郎が親しくなった今、懸念ごとが一つ減ってホッとしている。
「南禅寺のコンサートはネットでも評判よかったしなぁ。今後定期的に呼んでくれたらええな」
ブリックパックのアイスカフェオレをズズズーと啜りながら、賢二郎はスマートフォンを尻ポケットから取り出した。スイスイと慣れた手つきでスクロールされてゆく画面がちらりと見えたが、どうやらSNSの類らしい。
「SNSやってるんですね」
「おう、宣伝活動も大事やしな。君はなにかやってへんの?」
「いや全然……。事務所のアカウントがあるんで、広報関係は全部任せているんです」
「ほーーーええなぁさすがは天才クンや。大手事務所がバックにいてはると、さぞかし心強いやろなぁ」
「……」
今度ははっきりとした嫌味だろう。一見笑顔に見えるけれど、スゴーと音を立てながら空っぽのブリックパックをへこませる賢二郎の目は、明らかにスンとしている。
ニコラが未成年だった累を守るために自らの事務所に引き入れたわけだが、確かにこんな対応は一般的ではない。はたからみなくても恵まれすぎているとわかる。
「ところで、音楽祭のコンチェルト、またチャイコになったらしいな」
「ああ……はい、そうなんです。僕の凱旋公演を聴きにきてくれていた同期がいて、今回僕がソリストに選ばれたんなら、ぜひいっしょにあれをやりたいって話になって」
「へぇ、そうなんや。まあ確かに……あんときの演奏は神がかってたもんな。僕もよう覚えてるよ」
「ありがとうございます」
お礼の言葉を口にしているものの、累はちょっと複雑なのだ。あの時のコンサートのことばかりが妙にもてはやされるので、自分の絶頂期はあのコンサートで、あとは下降の一途を辿っているだけなのだろうか……と、考えなくてもいいことを考えてしまう。
もちろん空は「そんなことないって! あのあとだってでっかいホールでコンサートやったじゃん。スランプ抜けたら一回り大きくなるよ!」と励ましてくれる。だが、いまだ調子にムラがあるため、落ちているときにはネガティブ思考になってしまう。
すると、黙り込んでいる累の心を読んだように、賢二郎がこんなことを言う。
「不安なん? 十五歳んときの自分のほうが上手く弾けてたかもとか思ってる?」
「えっ……」
じ……と斜め下から見上げてくる猫目にぎくりとする。一瞬強がろうかと思ったけれど、それも賢二郎の前ではもう必要ないような気がして、累は苦笑した。
「なんでもお見通しなんですね」
「ふん、図星か。音を聴かんでも、君の顔見てたらなんとなくわかるようになってきたわ」
「怖い……」
「十五歳であんな立派なステージ用意してもらえて、ほんであの演奏や。そら、そうとうインパクトはあるよな」
賢二郎はベンチに後ろ手をついてのけぞり、細長い脚を投げ出した。今日もビーチサンダルだ。冷房で冷えないのかなと累は思った。
「ま、サーシャとやるんや。きっと大丈夫やろ」
「そう、ですか?」
さらりとサーシャの名前が出てきて驚いた。賢二郎はその感情さえも読み取っているかのように、やや目をみはる累に勝ち気な笑みを見せる。
「君の周りをチョロチョロしてるから今はうっといかもしれへんけど、指揮者としてはできるやつやし、まぁそう嫌わんといたってや」
「……すごいな。サーシャのこと、すごく信頼してるんですね」
滅多に人を褒めない賢二郎がこの調子だ。累はさらに驚いて、敬称をつけることを忘れてしまった。
サーシャの能力に対する盤石な安心感があるのだろう。パートナーだからといって、賢二郎がサーシャを贔屓目で見るようなことをするわけがない。
「僕も向こうで一度だけ、サーシャの指揮で弾いたことあんねん。めちゃめちゃ気持ちよかったで」
「気持ちいい……」
「曲に関する分析も深いし、コミュ力高いから、オケのメンバーとのやりとりもうまい。ややこい年上相手にも、やんわり懐に入り込んでいくしな」
「へぇ」
「せやし、オケの雰囲気がいいねんな。そうなると自然に音がまとまって、弾いててめっちゃ心地ええ。奏者ひとりひとりの能力を引き出すのもうまいと思う」
「ベタ褒めですね」
サーシャへの賛辞が止まらない賢二郎だ。そんな姿がもの珍しすぎて、累の目は丸くなりっぱなしである。
賢二郎にもその自覚がなかったのだろう。ハッとしたように真顔になり、げふん、と咳払いをした。
「……とまぁ……そんな感じやし、大丈夫ちゃう? 知らんけど」
「サーシャの指揮で弾いたってのは、付き合う前ですか?」
「はっ? なんでそんなこと聞くねん」
「いや……才能に惚れ込んだから交際に至ったのかな……と思って」
賢二郎はあんぐり口を開けて累を見上げている。まさか累がそんなことに関心を抱くのかと驚愕しているような顔だ。
「そのあたり、どうだったのかなぁ……と」
「えー……まぁ……オケに参加したんは付き合うたあとやったけど。それがどないしてん」
「へぇ……」
「な、なんや気持ち悪いな! どうでもええやろそんなことはっ!」
何に照れているのかわからないが、賢二郎はぽっと頬を染めつつそっぽを向いた。
「まぁ、石ケ森さんがそう言うなら……というか、僕は別にサーシャを嫌っているわけではないです。実際、ちょっとずつ調子は戻ってるわけだし」
「そ、そか……そら何よりやな」
「オケとの合同練習ももうすぐだし、僕もあの人に身を任せてみようかな……」
「いや、君にも君のやりたい表現があるやろ。じっくり議論したらええと思うで。刺激的で楽しいんちゃうかな」
「はい」
話が一区切りしたところで、賢二郎はうーーんと小さく唸りながら伸びをして立ち上がった。
そして「しっかし暑いな……日本てこんなやった? 温暖化か?」とブツクサ言いながら、今度はボディバッグからペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、グビリと飲んでいる。
「そういえば、サーシャ……さんて、ピアニストだったんですよね」
「今更さん付けせんでもええやろ。……うん、ピアニストやった時期もあるみたいやな。二十歳前後の頃や言うてたかな」
「なんでやめちゃったんですか?」
「それは……」
それも、以前から気になっていたことだったため、賢二郎に問いを投げかけてみた。
賢二郎はなにか言いかけた口の形のまま言葉を切り、そのあと一度首を振る。
「そういうことは本人に聞いたらええんちゃう? 僕よりしょっちゅう会うてるやろ」
「ああ……はい、そうですよね。すみません」
「ま、仲ようしたって。まだ日本にそう知り合いいいひんしな」
「まぁ……がんばります」
「ふはっ、頑張らなあかんのかい」
歯切れの悪い累の返事を聞き、賢二郎が噴き出した。累は驚かされることばかりだ。賢二郎は、こんなにも柔らかく笑う人だっただろうか。
「ほな僕は授業やし行くわ。練習頑張りや」
「はい、ありがとうございます」
累も立ち上がり、賢二郎に軽く一礼する。
すると、ヴァイオリンケースを手に立ち去りかけていた賢二郎が、「空くんにもよろしゅうな」と微笑んだ。
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