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番外編『トライアングル』

〈6〉賢二郎目線

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 そして翌日。
 昨晩めいっぱい多治見にしごかれたのだろう、楽団メンバーたちの音色は、昨日よりもぐっとまとまりを増していた。

 累会いたさに浮かれていた様子の女性陣の瞳にも、プロらしい落ち着きが浮かんでいる。それを見て安堵した表情を浮かべる累を見て、賢二郎もホッとしたものである。

 そして開演一時間前、京都の街が夕暮れ色に沈み込む風景を、賢二郎は累とともに三門の楼上から眺めていた。京都住まいであったとはいえ、こうして南禅寺の二階から京都の街並みを眺めるの初めてだ。

 夕暮れが近くなるにつれ、風の温度が変わってくる。刺すような冬の冷気とは肌触りの異なる、やや湿度を孕んだひんやりとした空気が、あたりを包み込んでいる。

 下を見てみると、レッドカーペットの上に有料観客席を設置する作業も終わり、スタッフたちが最終調整のために動き回っている。

 屋外コンサートなので、距離は離れるが無料で音色を聴くこともできるとあって、通りすがった人々が関心を惹かれている様子が見てとれた。道路にまで人が溢れないように対策されているというが、累の音色とルックスに惹かれ、変なパニックが起きなければいいが……と賢二郎は思った。

 ただでさえ、ここは桜の名所だ。満開に咲き誇ったソメイヨシノは幻想的にライトアップされ、その向こうに、歴史を抱く南禅寺三門が聳えている。それだけでも絵画のように美しい眺めなのだ。

 ——そこにこんっっっな美形がおって、しかもヴァイオリン弾くんやで? 絵面めっちゃええやん最高やん……あとで絶対録画もらわな。

 スヌードの中に顔半分を埋めつつ、無表情な顔の下でそんな決意を固めていると、累が心地良さそうなため息をつき、こう言った。

「桜と寺って合いますね。本当にきれいで……すごいなぁ、さすが名所だなぁ」
「おのぼりさんやなぁ。君、一応国籍は日本なんやろ? もっと日本文化にも興味持って、勉強しときや」
「分かりました。漢字がもっとスラスラ読めるようになったら、頑張って寺の名前も覚えます!」
「真面目か。……まぁたしかに、ライトアップされると幻想的で綺麗やし、ええもんやな」

 累も賢二郎もすでに着替えを済ませているものの、今回の衣装はタキシードのように改まったものではなく、黒を基調としたシンプルな装いである。

 累は黒いタートルネックに黒ジャケット、そしてスラックスも黒だ。全身黒ずくめという格好なのに、そうして無駄な装飾のないものを身につけていると、累の美しさがより際立つ。白い肌や繊細なきらめきをたたえた髪の色の、黒との対比で鮮やかになるようだ。 
 ちなみに賢二郎も同じような格好をしているが、ジャケットの中は黒シャツだ。色白なのは自覚しているが黒髪なので若干地味に思え、髪の色を変えてくればよかったかと少し後悔しているところだ。

 昨日新幹線や大鳥居を見てはしゃいでいた姿が嘘のように、本番を控え、凛とした緊張感を瞳にみなぎらせる累の表情はとても頼もしい。

 身体や指先が冷えないようにと、手袋をしてジャケットの上にラフなアウターを羽織り、累は手を擦り合わせながら賢二郎に微笑みかけた。
 
「コンサート、楽しみですね。こんな素晴らしい場所で弾けるなんて、ワクワクします」
「うん、そうやな」
「三年経ったら……また、一緒に弾きましょうね」
「……え?」

 不意に、累が口にした言葉に、賢二郎はどきりとした。

 ドヤ顔で留学の件を報告したとき、累には「へぇ、すごい、オーストリアですか。まぁ、石ケ森さんなら大丈夫だとは思いますけど、置いて行かれないように頑張ってくださいね」と、サラッと腹の立つことを言われただけだった。

 だが、楼の手すりに手を置き、くれなずむ京都の街並みを青い瞳に写す累の横顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見える。

 ——な、なんやねんその顔……。

 どきどきどき……と鼓動が高まり、頬が熱くなるのを抑えることができない。賢二郎はぎゅっと唇を引き結び、無理矢理に「ははっ」と笑い声を立てた。

「フン。三年本場で修行すんねんで? 君なんかより、ずーーっと上手なって、めったくそ有名人になってしもてるかもな」
「確かに……まぁ、その可能性はありますね」
「は? 可能性ちゃうやろ、確実な未来やろ」
「そ、そうですね……すみません」
「三年後も僕と共演したかったら、君から頭下げて丁重に申し出てくることやな。そしたら考えてやらんでもない」

 そう言って賢二郎が腕組みをして踏ん反り返ると、累が「……ふふ」と小さく笑った。
 しばらく肩を震わせて笑っている累に向かって、「なに笑ろてんねん!」と言ってやりたいところだったが、賢二郎もなぜだか笑えてきて、しばらく二人で笑い合った。

 すると累は黒い手袋の指先で目尻を拭い、賢二郎のほうへ視線を向けてきた。そして少し躊躇いがちに、口を開く。

「本当は、こんなことをあなたに言ってはいけないのかもしれませんけど……」
「な、なんや。なんや喧嘩でも売ろうとしてんのかこの本番前にっ!」
「違いますって」

 累は再び、視線を前方に戻した。つられるように、賢二郎も京都の街並みのほうへ目をやる。
 さっきよりも夜の色が濃くなり始めた風景の中、ライトアップされた桜の薄紅色が、視界の端でさらりと揺れた。

「僕は、あなたの音がとても好きです」
「……へっ?」
「僕、石ケ森さんと一緒にヴァイオリンを弾いていると、すごく楽しいんですよ」

 累は横顔でそう言うと、すいと賢二郎のほうへ視線を向けた。そして、ほんの少し苦笑を浮かべつつ、こう言った。

「初めは、あなたのことが苦手でした。どうして喧嘩腰で話しかけてくるのか分からなかったし、いつも機嫌が悪そうで……」
「……うそやん」
「本当です。でも、石ケ森さんのヴァイオリンの音は、いつもすごくきれいでした。言葉ではものすごくきついことを言うくせに、あなたの音はいつも優しくて、僕にとって心地の良いものでした。遠慮のない指摘をもらえたおかげで、僕自身気づくこともたくさんあった。すごく刺激的で、本当に楽しかった。だから、この人は信頼できる……っていうか、なんて言えばいいのかな……」
 
 後半は、少しもどかしげな早口だ。累自身、うまく感情と言葉を結びつけることが難しいのかもしれない。賢二郎はじっと息を潜めた。累の言葉を聞き逃したくなかったからだ。

「そうだな……。あなたと弾いていると、安心できる……という感じがしました」

 その青い瞳に、薄闇に浮かび上がる花弁の色が映り込んでいる。吸い込まれそうになるくらい美しい色だ。泣きたくなるほどに、きれいだった。
 
「出発されるまでの間に、ちゃんとお礼を言えるタイミングはもうないかもしれません。だから今、言いたくて。……僕にいろんなことを教えてくれて、ありがとうございました」
「っ……」
「向こうでも頑張ってくださいね。僕も、頑張りますから」

 ——この子は……ほんまに……。

 幼い頃、初めて累に対して抱いた感情は、嫉妬と羨望。
 決してポジティブではない感情を糧に、賢二郎は累の音色を追いかけて来た。累の存在は、賢二郎にとっての起爆剤だ。こいつを見返してやろう、こいつより上手くなってやろうという気持ちに、いつでも賢二郎は駆り立てられてきた。

 憧れていた。累の音色にも、果てのないような彼の才能にも。嫉妬しながらも、強く強く憧れていた。累と過ごす時間が増えれば増えるほど、憧れと恋慕の入り混じった複雑な感情に、心を揺さぶられ続けてきた——

 ——……これで、満足せなあかんとこやな……。

 累は賢二郎のことを、同じヴァイオリニストとして、心から信頼している。安心できるとまで言ってくれたのだ。これに勝る喜びはないはずだ。そう思えたら幸せだった。だが賢二郎が今感じているのは、諦めにも似た寂しさだった。 
 
 『音楽』という世界の中でしか、賢二郎は累のそばにいられない——はっきりと、そう線引きをされた気がしたからだ。

 自分の気持ちは、一生累に伝える気はない。そもそも、初めから実るはずもない恋だと分かっている。だから、これでいいのだ。

 累から与えられた言葉の全てが、賢二郎の心の奥深くにまで染み込んでゆく。胸を震わせる喜びと微かな痛みに、じわ……と目の奥が熱くなった。

 だが、ここで泣いてみせるほど、賢二郎は殊勝な性格をしていない。
 ぎゅうっと唇を噛み締めてしばらく黙った後、賢二郎は長く息を吐いた。

「……君に言われるまでもないねん。僕は腕上げて、結果残して帰ってくる」
「はい」
「僕がいいひん間に、つまらんヴァイオリニストに成り下がってたら、承知せえへんからな!」
「はい」
「その前に今夜のコンサートや。音ズラしたらしばき倒すで。気合い入れろや!」
「はい!」

 白い歯を見せて笑う累の素直さが、いじらしくてたまらない。賢二郎の唇にも、自然な笑みが浮かぶ。
 だが今はただ、早く累の音色を聴きたい。早く、累と音を重ねて音楽を奏でたいと、全身がざわついて落ち着かなかった。

 これから続くヴァイオリニストとしての人生の中、決して今夜の風景を忘れることはないだろうと、賢二郎は思った。
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