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26、酔っ払いの褒め言葉〈累目線〉

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「累~~!! 素晴らしかったわ!! さすがわたしの息子!!」

 控室に戻った累を待ち受けていたのは母親だった。
 自宅では豊かな金色の髪を振り乱し、すっぴんに眼鏡でビシバシ累を指導してきた母ニコラだが、今日はいつにも増して表情が輝いていた。
 累をぎゅうぎゅう抱きしめては頬に何度もキスをして、誇らしげな眼差しで、累の成功を褒めちぎってくれた。幼い頃からの師でもある母親に認めてもらえたということは、累にとっても誉れである。だが、その後が長かった。

『インペリアルシティコンサートホール』ホール長への挨拶に始まり、『インペリアルシティ東京』総支配人および各関係者、高城音楽大学学長をはじめとした大学のお偉方、指揮者を務めたロベルソン(とその妻)、累のもう一人の師匠である夏目(とその家族)、オーケストラのコンサートマスター……といった人々への挨拶回りに、ニコラはもれなく累を伴った。

 累のステージであるから、それは当然の義務だと分かっているのだが、いかんせんニコラは話が長い。そして相手方もまずは累を褒めちぎり、次は母親の活躍について褒めちぎり、今後のあれこれについてどうぞよろしく……などなどと、まるで様式美のように同じ会話が各箇所で繰り広げられ、累はだんだんくたびれてしまった。

 ——早く空に会いたいのに……。

 と、思いながら腕時計に目を落とすと、時刻はすでに22時が近い。トイレでひとりになると、ようやくホッと力が抜けた。ちなみに母はまだ音大の学長と話し込んでいるものの、挨拶回りからようやく解放されたため、オーケストラのメンバーへの挨拶はこれからだ。思っていた以上に遅くなってしまった。

 累は洗面台に腰をもたせかけながらスマートフォンを取り出して、『遅くなってごめん、今日はちょっと行けそうにないや』とメールを打った。するとすぐに空からの返信だ。『そりゃあ、今日の主役だもんね! 俺のことはいいから、もうちょっとがんばれ! 明日は会える? いっぱい話したいことがあるんだよ』という内容で……文面から漂う空の優しさに触れ、愛想笑いでひきつった累の表情も柔らかくなった。

 明日、家に遊びにきてもらう約束を取り付け、累はスマートフォンをポケットに仕舞い込む。そして一つ、大欠伸をした。

 さすがの累も、今日ばかりは疲れを感じる。実際にステージに立ってのリハーサルには緊張したし、これからここで空に演奏を聞いてもらうのかと思うとドキドキして、自分でも戸惑うくらい浮き足立っていたものだ。みっともないところなど見せられるわけもないため、この数日は暇さえあればヴァイオリンに触れていたし、個人的な練習にも没頭した。ステージを終えた今、その疲れがじわじわと累の身体を重くし始めている。

 だがそれは、清々しさを孕んだ心地のいい疲れでもある。
 ひとつひとつを振り返ってみれば、反省点がなわけがない。だが、これまでの練習が全て活きたという手応えを感じることができたし、オーケストラと一体になるあの快感は、いつにも増して累の心を高揚させてくれた。純粋に、楽しかったのだ。

「……はぁ」

 口から溢れるため息も、満足げな笑みを含んだものだ。さて、オーケストラのメンバーに早くお礼を言いに行こう——そう思った累は、鏡に映る眠たげな顔を引き締めて、パーティ会場へ向かうことにした。

   +

 インペリアルシティ内にあるレストランのひとつが、今日の打ち上げパーティ会場となっている。
 庭園に聳え立つ巨大なクリスマスツリーを窓から望める、一階の奥まった場所にあるレストランだ。累がそっと中を覗き込むと、すぐさまコンマスを務めていた男性ヴァイオリニストが累に気づいて歓声を上げた。すると、立食パーティ会場にいたオーケストラメンバー全員の注目が累に注がれ、どこからともなく拍手が沸き起こる。

 歩み寄ってきてくれるメンバーたちと握手を交わし、今日の礼を言う。このひと月、毎日のように顔を合わせていたメンバーだ。練習中はさほど言葉を交わすことがなかった相手も今日ばかりは累に親しげに声をかけてくれ、累はそれぞれの相手に笑顔を見せた。

 勧められるままに食事を摂りながら、しばしオーケストラメンバーたちとの交流の時間となった。リハーサル前にバナナを一本食べただけだったため、ようやく空腹を思い出したのだ。女性陣があれやこれやと皿に盛り付けて持ってきてくれるものだから、累は恐縮しながらも腹を満たした。

 軽く酔いの回った大人たちはひとしきり累の技巧を褒めちぎり、軽妙な口調で練習時のあれこれやリハーサル時のロベルソンの乱れっぷりなどの話をし、大いに盛り上っている。気づけばあっという間に一時間ほどが経っており、累はだんだん眠くなってきてしまった。

 ふと、石ケ森はどこにいるのだろうと気になった累は、会場に視線をめぐらせてみた。累を取り囲む面々の中にその姿は見えないし、そもそもこの打ち上げ自体参加しているのだろうか。

「あの……石ケ森さん、打ち上げには来ておられないんですか?」
と、累はすぐそばにいたフルート奏者女性にそう尋ねてみた。
 この一時間近く、彼女はずっと累の左側のポジションをキープしている上、なんなら時折累の腕を親しげに軽く叩いたり、もたれかかってきたりと距離が近い。この距離感にやや困惑していたこともあり、石ケ森をダシにして逃げ出そうという魂胆もあった。

「ああ……石ケ森くんも来てるはずだよ。今日はいっぱい飲むぞーって言ってたし」
「そうなんですね。……どこにいるんだろう」
「石ケ森くん、まだ一年生でしょ? この時期は課題もあって忙しいから、あんまり寝てないって言ってたっけなぁ。いやあ懐かしい、覚えがあるよ」
と、しみじみと過去を懐かしむような口調でそう言っているのは、たっぷりと腹の出たチューバ奏者の男だ。山盛り肉の乗った皿を片手に、うんうんと頷いている。

「そうなんですね……」
「累くんと彼、カルテット組んで音楽祭に出てたんでしょ? 見たかったなぁ、絶対麗しいじゃないですか、石ケ森くんもかっこいいし。また組んで何かやってくださいよぉ」
と、甘えたような口調でそう語りかけてくるのは、クラリネット奏者のほっそりとした女性である。それぞれ顔と楽器は一致するのだが、いかんせん名前が覚えられない累だ。曖昧に微笑んで、手にしていたグラスをそっとテーブルに置く。

「僕、そろそろ帰らないと。石ケ森さんとは方向同じなので、一緒に帰ってもらいます」
「えーもう帰っちゃうの? この後の二次会も行こうよ~」
と、累の左側を譲ろうとしないフルート奏者がそう言って、上目遣いに累を見上げてくる。一見可憐にも見える華奢な女性だが、いかんせん目が怖いので、累は隙のない笑みを浮かべてこう言った。

「ほら、僕まだ未成年ですし。母にもあまり遅くなるなと言われているので」
「ああ……そ、そっか。そうだよね」

 偉大なヴァイオリニストである母の存在をちらつかせれば、この手の女性たちにも容易く一線が引けるというものだ。こういう時、母の存在をありがたく思う累である。
 そつのない笑みとともに丁寧に挨拶を済ませ、累は石ケ森を探すべくレストランを出た。寝不足に飲酒というコンボがどれほど健康によろしくないのかということくらい、未成年の累にでも分かることだ。どこぞの道端でヴァイオリンケースを抱え、ぐうぐう寝ている石ケ森の姿を想像しつつ、累は早足に館内を歩いた。

 すると、いた。
 レストランからロビーへと続く広い廊下の壁際に置かれたソファに、賢二郎がくったりと座り込んでいる。そしてそのそばには、少し派手目のスーツを着込んだ若い男が二人いて、そのうちの一人は賢二郎の太ももに手を置いているのだ。揃って手にしたペーパーバックを見るに、どうやら結婚披露宴か何かの帰りらしい。

 赤ら顔の若者たちは「なあなあ、何してんの?」「お兄さん酔いすぎじゃね? 俺らとこれからどっか行く?」と、馴れ馴れしく賢二郎に絡んでいる。なんとなく累はムッとして、ツカツカと早足にそちらに歩み寄っていった。

「その人は僕の連れですが、何か?」

 眠気のせいか腹立ちのせいか、居丈高な口調になる。突然現れた累を見上げて、酔っ払い男二人はギョッとしたような顔をした。その向こうで賢二郎がぴくっと身体を揺らしてのろのろと目を開け、視線を上げる。

「……あれぇ……? 累クンやん、どないしたん……」
「石ケ森さん、こんなとこで何やってるんですか。帰りますよ」
「はぁ~~? 何言うてんねんまだ全然飲み足りひんっちゅーねん。……ん? 誰やお前ら」

 賢二郎はジロリと酔っ払い二人を見比べ、ふん、と鼻を鳴らした。そして自分にぴったりとくっついている酔っ払い男の一人の肩をぐわしと掴んで支えにし、ふらふらと立ち上がる。

「お子様はとっとと帰らんかい。やっとプレッシャーから解放されたんや、今夜飲みまくったんねん。……誰か知らんけどほら、行くで。僕と飲みたいんやろ」
「えっ……いや、俺らは……なぁ?」

 賢二郎の据わり切った目に怯んだのか、男たちは目を見合わせてそそくさとその場から逃げてゆく。なるほど、うとうとしている賢二郎が大人しそうに見えたから絡んでいたんだな……と累は悟った。
 現に、賢二郎は立ち去ってゆく酔っ払い二人の背中に向かって聞こえよがしな舌打ちをし、「なんやねんお前ら。ちゅーか誰やねんクソ酔っ払いどもが」と悪態を吐いている。累はため息をついた。

「……帰りますよ。石ケ森さんこそ立派な酔っ払いです」
「はぁ? 誰が酔っ払いやねんほっといてや」
「ほっとけませんよ。石ケ森さんち、大学のすぐそばでしょ? 方向同じだし、タクシーで帰れって言われてるんで、途中まで一緒に帰りましょう」
「イヤや、帰らへん」
「何言ってるんですか。ヴァイオリンケース持ってるってことは、もう帰ろうとしてたってことでしょ? で、ここで力尽きたんでしょ?」
「……チッ」

 ソファに立てかけられたヴァイオリンケースと、タキシードの納められたガーメントケースを見て累が冷静にそう指摘すると、賢二郎はまた舌打ちをして……そしてふらりとよろめいた。咄嗟に支えた賢二郎の身体からは、予想通り酒の匂いが強く香っている。

「っ……さ、さわんなやっ!」
「一人で立てないくせに、何言ってるんですか。タクシー乗り場まで歩けます?」
「歩けるに決まってる……やん……」

 と言いつつも、賢二郎はヘロヘロとその場に座り込みそうになっている。累は眉を下げ、ソファに再び崩れ落ちてしまった賢二郎の前にしゃがみ込み、背中を向けた。

「おぶさってください。荷物も渡して」
「はっ……!? はあ? おんぶて、あははっ、天才クンにおんぶなんてしてもらえへんわ」
「いいから。僕も早く帰りたいんです、眠いんですよ」
「……」

 やや強い口調でそう言うと、賢二郎は渋々といった調子で、累の背中に身体を預けてきた。幸い、すぐそこにはガラス扉があり、屋外の庭沿いに正面玄関へ出られるようになっているはずだ。そこにタクシー乗り場もある。

 脱力した賢二郎の身体をひょいと背負い、累はガラス扉を押して外へ出た。ひゅう、と吹き荒ぶ冬の風は冷たいけれど、酔っ払いを背負っているので寒さを感じることはない。綺麗に整えられ、ところどころをライトで照らされた庭園を、累は歩き出した。

「……ごめんなぁ、天才クンにおんぶしてもらった上に、荷物まで持ってもろて」
「いえ、石ケ森さんは軽いので全然平気です」
「……言うようになったやん」

 賢二郎はそう言って、累の背中でくつくつと上機嫌に笑い始めた。そしてぎゅっと累の首にしがみつきながら、「……めっちゃええにおいすんな、君……」と言う。

「あの……公演後シャワーも浴びてないんで、あんまりくんくんしないでもらえますか?」
「くんくん? あっはははっ、なんそれめっちゃかわいい。……ははっ……ほんま、ははっ……」

 こんなに喋れるのなら歩かせれば良かったと内心後悔しつつも、累は黙って人気のない庭園を歩き進めた。すると賢二郎はふと大人しくなる。

「なぁーなんやねんあのソロ。チャイコのー、第一楽章のー」
「えっ……おかしかったですか? 確かに、ちょっと気持ち良くなって途中突っ走っちゃった自覚はありますけど……」
「はぁ? ちゃうわ、めっちゃくちゃ良かったやん……なんやねんホンマ。G線もモンティもどれもこれも……めちゃめちゃ良かったしうしろで弾いててめっちゃ気持ちよかったわ……ちゅーかあんっな大舞台で緊張もせぇへんであんなのびのびようやれるわ……僕やったら手汗めっちゃ出て弓滑るわ。ポーン飛んでくわ」
「……はぁ」

 褒められているのだろうが、なんせ口調がぞんざいなので喜んでいいところなのか分からない。いつもの嫌味なのだろうかと気にしつつ、累は賢二郎の声に耳を傾けた。

「……背ぇは高い顔もいいしかも優しくて真面目でヴァイオリン上手いとかなんやねん君、神は何物君に与えたら気ぃすむねんありえへんやろ」
「……はぁ」
「その代わり学校の成績めっちゃ悪いとかないん? 体育できひんとか、実はめっちゃアホとか、絵ぇがド下手とか」
「アホ……ではないと思います。国語以外はそこそこできるんで。絵は……そんな得意じゃないけど」
「めっちゃキッチリ答えるやん真面目か」
「……酔っ払うとめんどくさいですね、石ケ森さん」

 累があきれた声でそう言うと、賢二郎はまたしても楽しげに声を立てて笑っている。そしてふと、ぎゅっとその腕に力がこもり、また首筋の匂いをくんくん嗅がれた。
 
「……しかもめっちゃええ匂いするやん自分、なんなん? しかも酔っ払いからスマートに助けてくれるとかどうなってんねん。お母さんからどないな教育受けたらこんなええ子が育つんか知りたいわ……」
「はぁ……。ていうか酔っ払いは石ケ森さんが自分で追い払ってましたけどね」
「そーやっけ」
「そうでしょ」

 累が曖昧な返事をしているうち、タクシー乗り場に到着した。そのまま一人で乗せた方がいいのだろうかとも思ったけれど、車内で寝入ってしまう可能性を考えると、やはり同乗した方が良さそうだと判断する。

 運転手に行き先を告げている間も、案の定賢二郎は眠たげに目を閉じてフラフラしている。しかも船を漕いだ瞬間タクシーの窓に頭を打ちつけそうになってる。その様子を見て、累は咄嗟に石ケ森の肩を引き寄せ、自分のほうへもたれかからせた。タクシーが静かに発車して、車窓に都会の風景が流れ始める。

「もう……頭打ちますよ。しゃんとしてください」
「あんなぁ……ほんっまあかんでそういうとこ、せやから空くん、君のこと心配すんねんで? 誰にでもこんな優しくしとったら、きみに関わる人間皆きみに惚れてまうやろ、どないすんねん」
「はぁ……」
「オケの女性陣も、食らいつきたそうな目ぇで君のこと見てはったで? 気づいてへんの?」
「それは……気付いてますけど。そこはちゃんと線引きをしてますし」
「ほーーん、そら感心やなぁ。……けどなぁ、女だけちゃうで。これからは、男も君のことねろてくんねんから、気ぃつけなあかんで自分ほんま」
「……そうでしょうか」
「そらそやろ。君なぁ、見た目からして王子様やねんから、そーいうやつらには多少冷たいくらいでちょうどいいねん。下々のものに夢とか希望とか与えたらあかんねん、君みたいな子ぉは」
「しもじも?」
「まぁ……僕にはもう、関係ないわ……もう、しばらく会えへんもん……。はぁ……ええなぁ、これから空くんとラブラブどエロいクリスマスえっちすんねんろ……? 死ぬほど羨ましいわ……」
「……いえ、今夜はもう遅いので、会いませんけど……」

 ドライバーもいるのに何てことを言うのかとそわそわしつつも、累は素直にそう答えた。すると賢二郎はもぞ……と累を見上げた。潤んだ黒い瞳に街の灯りが写り込んで、きらめいて見える。黙っていれば綺麗な人なのにな、と累は思った。

「……会わへんの?」
「もう遅いし、空にも家族がいますから。明日、会えるし」
「……あー……明日ね。はいはい、明日があるもんな、君らには。ええなぁ……くっそ羨ましい……」
「石ケ森さんは恋人がいないんですね。モテそうなのに」
「…………チッ」

 また舌打ちをされてしまった。それはつまり、またしても台詞のチョイスを間違えたということだろう。累は気まずくなって窓の外に目をやった。

「……すみません」
「別にえーけど。……空くん、かわいいもんな……いい子そやし、お似合いや」
「……あの、空と会ったことありませんよね?」

 さっきからやたらと空の名前が出てくるので疑問に思っていたところだ。だが、賢二郎は累の問いに答えることなく、「会ったことね……どーやったかな……」とぼそぼそ呟く。そして累にもたれかかったまま、すーすーと寝息を立て始めた。

 累はやれやれとため息をついて、深くシートにもたれかかる。徐々に見慣れた風景へと移り変わりつつある車窓を眺めながら、累もまた大欠伸をした。
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