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13、欲求不満な音?〈累目線〉

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「オイ、ちょい顔貸せ天才くん」

 高城音楽大学での学園祭を明日に控えた土曜日、累は今日も弦楽四重奏の練習に入っていた。カルテットのリーダーである多香子がヴィオラを顎から外し、首を左右に曲げ伸ばしながら「じゃ、ちょっと休憩。そのあと頭から通しでやって、今日はラストね」と言った。

 累もパイプ椅子から立ち上がり、壁際の長机に置いたヴァイオリンケースに楽器を置いた。ここのところはさすがに根を詰めていたため、疲れが出てきているようだ。少し甘いものを摂りたくなった累は財布を手にして、外の自販機で何か温かい飲み物を購入しようと防音室を出る。すると、なぜか目を据わらせた石ケ森賢二郎が累を待ち構えていて、ぐいと親指をしゃくってきたのだ。

 練習棟の玄関を出ると、大学の中央に広がる中庭へと続く小径が続く。その両脇にはきれいに色づきはじめたイチョウの木が等間隔に並んでいる。夏の名残を残す青々とした葉の色は残暑の日差しを吸い込んで、黄金色へと色を変えつつあるところだった。もう一週間もすれば、この並木道は見事な金色に染まるだろう。太陽の熱と香りをたっぷりと抱き、秋空に鮮やかな彩りを添えるのだ。

 行儀良く並んだ樹の下に置かれたベンチに、賢二郎はどかりと腰を下ろした。ふんぞり返って脚を組み、ベンチに甘いカフェオレの缶を置く。いつも累が買っているカフェオレである。

「え?」
「座り。ほんでこれ、飲み」
「あ、はい……ありがとうございます」

 明日が学園祭とあって、今日はいつにも増してキャンパス内が騒がしい。清々しい秋の風に乗って、クリアに聞こえてくる音の数々。これまでになく様々なメロディが聞こえてくる。普段、音大ではあまり聴かない類のドラムの音が高らかに響き渡り、そこここからさまざまな楽器の音が聞こえていた。
 加えて、明日の模擬店の準備だろうか、バンダナを頭に巻いて軍手をし、大きなベニア板を運ぶ学生たちの姿も目立っている。作業中に大事な指を傷つけたりしやしないだろうか……と、累は若干心配になった。

 今回の学園祭、賢二郎らとの弦楽四重奏では、『カノン』を始め三曲を披露する予定だ。それに加え、アンコール用にもう一曲準備してある。完成度も上々だ。

 しかし今日の累は忙しかった。午前中は大ホールで凱旋公演の練習に入り、二十分遅れでようやく賢二郎との練習に合流したのである。遅刻について平謝りしたものの、そのことを賢二郎に咎められるのだろうと思い、累は先に謝ろうとした。

「あの、今日は遅れてすみませ……」
「君がほんまに上手いのはよう分かった、うん。よう分かった」
「……えっ?」
「でも……何なんやろなぁ。何やろ、この、この胸にわだかまるこのもどかしさっちゅうかなんちゅうか……」

 賢二郎は眉根を寄せてしかめっ面を作りながら、よくそんなに曲がるなという角度で首を捻っている。突然始まった自問自答に累が戸惑っていると、賢二郎は渋柿でも間違って口にしてしまったかのような渋面で累を見て、「ん~~」と重く澱んだようなため息をついた。

「あ、あの……どうしたんですか?」
「君さぁ……なんやこう、もっとないん? グワ~~~~~っとくるような勢いっちゅーか、パッション、みたいな……」
「……はあ」
「そら上手いで、君は。物覚えも良すぎてドン引きするレベルやけど、なんやこう……技術もなんもかんもかなぐり捨てるような熱いもんが、全く感じられへんちゅうか」
「そ……そうでしょうか」
「僕、ハノーファーの配信見ててん。そんときほんっまに、ゾクゾクして……。なんやよう分からん感覚に全身ゾッとさせられた」
「ぞっ……ですか?」

 擬音ばかりで途方もなく感覚的な賢二郎の言葉をどう理解すれば良いのか……累もまた首を捻って悩んでしまった。賢二郎にとって、そんなにも不快感を与えてしまうような演奏を繰り広げていたのかと思うとショックでもある。

「そんなに気持ち悪かったですか……」
「はっ!? ちゃうちゃう! キモいとかそういうんちゃうねん。なんちゅーかこう……ああ、僕には一生出せへん音やなって感じて……絶望した……って感じやろか」
「ぜ、絶望!? 石ケ森さん、あんなにきれいな音で弾くのに!?」

 賢二郎の口からあまりにも重い日本語が飛び出してきたものだから、累はぎょっとして賢二郎のほうへ向き直り身を乗り出した。すると、思いがけず距離が近づいてしまい、賢二郎が目を丸くしている。

 学園祭に備えて髪を切ったらしく、ヘアスタイルが変わっている。この間までぐりぐりとパーマがかかっていた黒髪はさらりとしたストレートになり額も見えていて、以前よりも少し爽やかな印象だ。
 眉や目がはっきり見えると、より相手の感情が見て取れるというものだ。累は賢二郎が何を言わんとしているのか探るように、じっと焦げ茶色の瞳を見つめた。すると、賢二郎の白い頬が、じわじわと赤く染まり始める。

「ちょ、なっ……!? な、何なんじぶん?! ち、ちかいねんけど!?」
「えっ……あ、いえ……。絶望なんて日本語、日常で聞くとびっくりして」
「ああ……そう。いや、そんな重い顔せんといてよ。そら、配信聴いた直後はしばらく楽器触る気にもならへんかったけど、今は全然普通やし。君、思ってたより普通やし」
「……そっか。よかった」
「はぁ? 良かったん? 普通や言われてんねんで自分」

 嫌味が通じなかったことに拍子抜けしているのか、賢二郎は眉を下げてため息をついた。
 累にとって賢二郎は、さまざまな刺激を与えてくれる存在になりつつある。こうして四重奏の練習に入るようになって初めて、歳の近い音楽家たちとひとつのものを作り上げてゆく楽しさを知ったのだ。

 特に賢二郎は何においても遠慮のない物言いをするし、これまで『神童』としての累に遠慮して、言葉を選ぶ大人たちとは違う気易さがあった。現在進行形でオーケストラと共に練習を重ねている累だが、オケのメンバーは三十~四十代と若めのメンバーで構成されているものの、やはり累を特別視する独特の空気を感じ取ってしまう。

 累は世界的ヴァイオリニストである母、ニコラ・ルイーズ・高比良の一人息子だ。特別視されないわけがない。技術はあるし、母親似の容姿は目を引くだろう。ソリストとしての華もある——それはすでに累にとっては自覚に近いものだ。ずっとそういう立場でヴァイオリンを弾いてきた。

 それがいかに恵まれた境遇かということも、累は重々承知している。どこへ行っても言われるのだ。『二世だから注目される』『コネがあって羨ましい』『審査員も当然贔屓するよね』など、ヴァイオリニストの母親あってこその、自分なのだと。

 親が何かしらで偉業を成し遂げた場合、その後に続くように同じ楽器を選ぶ者もいるが、あえて別の道を行くものも少なくはない。だが累は、母親と同じヴァイオリンを選んだ。一時期ピアノも習っていたけれど、やはり累にとってはヴァイオリンの方が身近だし、弾いていて純粋に楽しかったからだ。

 それに累の愛する音楽は、『空のため』にあるものだ。何もかも自分で選んだ道だ。だから誰に何を言われようと、累はあまり気にしたことがなかった。

 なので、『普通』と言われることにむしろ驚き、それがとても新鮮だった。ちくちくと小言の多い賢二郎だが、彼の発言に間違ったところはひとつもない。そういう意味でも、累は賢二郎に一目置き始めているところである。もっと話をしてみたい……そう思った累はベンチに座り直し、その時のことを思い出す。

「……ハノーファー出場が決まる少し前に、日本に帰国することが決まったんです。だから僕、どうしても勝ちたくて、これまでの人生で一番集中してレッスンしてました」
「帰国するから勝ちたかったん? ああなるほど。箔をつけて帰国して、凱旋公演でさらに世間からの注目度をアップしようと目論んで……? 意外やな自分。ただ『音楽に愛されてます』って顔して弾いてるように見えたけど、そんなセルフプロデュースを……」
「いえ、あの! そうじゃなくて……僕、すごく好きな人が日本にいて」
「へ? 好きな人?」
「幼馴染です。その幼馴染に『かっこいい』と思われたくて、必死だったんです。だからあんな演奏ができたんです」
「へぇ……」

 もっと呆れられるかと思ったけれど、賢二郎は意外にも納得したような表情を浮かべている。

「なるほどね。……つまり今は、その幼馴染とうまくいったっちゅーことか」
「えっ!? 何で分かるんですか」
「なるほどなるほど。だから今の君の音には、あのひりつくような熱いパッションを感じられへんちゅうことやな。恋愛が楽しすぎてウキウキハッピー、音楽は二の次やと」
「そっ、そんなことないですって!」
「いーや、僕の目はごまかされへんで。今の君には欲がない。せやからあんな、優し~くて綺麗なだけの音しか出せへんねん」
「欲くらい……ありますよ!」

 生温い目つきになった賢二郎に、累は思わず食ってかかっていた。すると賢二郎はじとっとした目線を累に向け、「ほう、どんな?」と尋ねてきた。

「僕は……必死で我慢してるんです! 昔、空に手を出して怖がらせたから、今はすごく、すごく我慢して、空を困らせないように優しくしてる。でも本当は……、ほんとは」
「本当は?」
「めっちゃくちゃどエロいセックスがしたいんですよ!! でも、いきなりそんなことしたら嫌われるから……っ!!」
「どエロ…………い」

 まさかこうも直接的な単語が出てくるとは思っていなかったのか、賢二郎は引きつった顔のまま硬直してしまった。たまたま近くを通りすがった音大声が、何事かと累と賢二郎を二度見している。

「本当は、今すぐにだって空とやりたいですよ! 僕で気持ち良くなってほしいし、僕以外のことなんて考えられないくらい僕だけに夢中になってほしいんです! でも……そんな僕の欲望を一方的に押し付けるようなことはしたくないんです! 今のままだって十分幸せだし、でも、でも……っ」
「わ、わ、わかった!! 分ーーーかった分かった!! 声でかいねん君ちょい黙らんかい!!」

 賢二郎の大声に、累はハッとして周りを見回す。すると、街路樹のしたでトランペットを吹いていたロックな青年や、クラリネットを吹いていた大人しげな女性が、珍獣でも見るような目でこっちを見ている。累は思わず口を覆った。

「っ……やばい」
「つまり、君の演奏に僕が萌えへんのは、君が欲求不満を抑え込んでいるからか」
「萌……?」
「ていうかや、そんなに欲求不満なら、その下にあるそのやたら破廉恥な情熱を音に出したらんかい。ほしたらもうちょいマシな音出るんちゃうか?」
「はれんち」
「まぁ……学祭の曲目はそういう感じちゃうけど、凱旋公演、何弾くんやった?」
「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲です」
「ほう……華やかやな、君っぽいわ。まぁ、あの世でチャイコもドン引きかもしれへんけど、オケに負けへんくらいのド迫力でるなら、その報われへん欲望ぶつけるくらいがちょうどいいんちゃうか?」

 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調は、クラシックに馴染みのない人でも一度は耳にしたことがあるであろう有名楽曲だ。華やかでロマンティックな第一主題は特に魅力的で、一度聴けば深く耳に残ることは間違いがないだろう。徐々に熱を帯びてゆく盛り上がり方も、情熱的な主旋律も、聴衆をぐっと音楽の世界へと引き込んでゆく力のある曲だ。

「……欲望か」
「そうや。はぁ、これで僕もスッキリしたわ。ていうか君、見かけによらずムッツリやねんな」
「むっつり?」
「……まぁ深く考えんといて。とりあえず、ヴァイオリン弾くときは、君は自分を抑える必要なんてないねん。むしろ逆効果やで? もっとぐわーっと! もっと人の胸掻き毟るような音、出せるやろ!」
「は、はい……!」

 立ち上がって仁王立ちになり、ぐわっと目を見開いてそう言い放つ賢二郎につられて、累は深く頷きつつ大きな返事をした。
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