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〈四〉

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 ふと目を開け辺りを見回すと、すぐ隣で丸くなって眠っている陽路殿の顔が見えました。
 私は目を瞬き、重い身体をゆっくりと起こします。肩から滑り落ちるのは、幻殿の羽織でございましょうか。


「おう、起きたのか」
「えっ……」


 背後から声がかかり、私ははっとしてそちらを振り向きました。見ると、幻殿が悠然と瓢を傾け、うまそうに酒を飲んでいます。

「あ、あの……」
「もうすぐ夜明けだぜ。ったく、とんでもねぇ坊さんがいたもんだ」
「はぁ……」

 そこへ、濡れた髪を拭いながら、伊佐殿がお堂の中へ入ってまいりました。目を覚ましている私を見て、伊佐殿はにぃっといやらしい笑みを浮かべます。

「よお、お目覚めかい?」
「あ、はい……」
「いやぁ、たっぷり楽しませてもらったぜ。ま、誰よりも楽しんでいたのはおめぇだろうがな」
「そ、そんなことは……」
「ひょっとして、その強欲が災いして、あんたはこんなところで一人暮らしなのかねぇ」

 どっかりと私のそばに腰を下ろした伊佐殿は、どうやら水浴びをしてきたようでございます。つんと冷えた指先で、私の目元をそっと拭う仕草は、先ほどの行為の荒々しさとは裏腹に優しいものでございました。

「目ぇ真っ赤」
「あっ……ぅ」
「ははっ、また感じてやがんのか? お前、そんなんでこの先大丈夫なのかよ。村の男を食い散らかすか?」
「そんなことは致しませぬ! あ、あなた方こそ。皆さんお若いようですが、いつまでこのようなことをして生きてゆくつもりですか」
「いつまで……ねぇ」
「それに……どうして、私を殺さぬのですか」

 気づけば私は、彼らにそんなことを尋ねていました。余計なことを口にしてしまったがゆえに斬られてしまうかもしれないと思いましたが、幻殿と伊佐殿はゆるりと顔を見合わせています。

 穏やかな眼差しで陽路殿を見つめながら、幻殿が静かな声でこう言いました。

「滅多なことでは殺しはやらねぇ。殺しをすれば、俺たちは、俺たちを棄てた野郎と同じところまで堕ちちまうからな」
「棄てた……?」
「……俺たちだって、好きでこんなことをやってるわけじゃねぇよ。俺を見ろ。がきの頃の病で片目を失い、人買いにさえ『売り物の価値はねぇ』と切り捨てられた。俺なんて、何の役にもたたねぇ破落戸(ごろつき)だ」

 そう言って、幻殿は眼帯をめくりあげ、私に潰れた片目を見せました。
 生々しく引き攣れた跡は、人目に晒すことを憚りたくなるのが分かるほどに、痛々しいものでございます。

「伊佐なんてもっとひでぇ。女郎小屋の下働きとして売られたこいつは、毎日毎日下男どもに尻を犯され、挙句、その相手を殺して逃げ回ってるような男だ。行くあてなんて、どこにもねぇ」
「……そんな」

 痛ましい気持ちで俯くと、伊佐殿が鼻で笑う声が聞こえてきました。
 見つめると、伊佐殿は長い睫毛をゆったりと上下させながら、「ま、俺はがきの頃から別嬪だったから、しょうがねぇな」と微笑んでいる。その笑みに、言いようのない悲しみと強がりを見つけてしまい、私の胸はずきんと痛みました。

「陽路んちは貧乏なくせに子沢山でね。俺は、末っ子だったこいつのことを川へ沈めてこいと、他ならぬこいつのおっかさんから頼まれたんだ。俺たちは同郷で、陽路のことは、こいつがおっかさんの腹ん中にいる頃から知っていた。赤ん坊の頃の鳴き声だって覚えてる。……そんなこいつを、殺せるわけがねぇ。だから連れて逃げたのさ」
「そうだったのですね……」
「こんな暮らしをし始めて、気づけばもう十数年だ。伊佐とは、まだ四、五年の付き合いだけどな。……この先もきっと、俺たちはずっと一緒にいる。一人じゃとても生きられねぇが、三人でいれば、何とかならねぇもんも何とかなる」
「……」
「いつまでこんなことを……と言われると返す言葉もねぇが、俺たちはただ、生きていくだけさ」


 幻殿は微笑んで、私をひたと見つめました。
 伊佐殿は、手を伸ばして陽路殿の頭を撫でています。


 寄る辺のない子どもたちであった三人が、悪事に身を染めながらも、手に手を取り合って生きてきた……彼らのかたを想うと、胸の詰まる思いでございます。


 その時、私の脳裏にふと閃くものがありました。
 わたしはすっと居住まいを正し、幻殿と伊佐殿へ、こんなことを提案させていただきました。


「それならば……ここに、住み着いてみられてはどうでしょう」
「は? どういうことだ」
「私は、小さいながらも畑を耕し、仏像を彫って暮らしております。最近では、隣の村までお勤めに出向く機会も増え、物騒な山道を一人で歩むこともおおございます」
「……それが?」
と、怪訝そうに伊佐殿が首を傾げています。私はすっと背筋を伸ばし、幻殿と伊佐殿の方を見つめながらゆっくりと話しました。

「お三方に、私の手伝いをしていただけないかと考えているのです。ひとところにとどまり、人らしい暮らしをしてゆけば、きっと、新たな生計たっきの道も開けようというもの。私の用心棒となり、友となってはいただけはしないでしょうか」
「友、だと?」
「……私も、親家族はありませんで、生まれた時からひとりです。ひとりは寂しゅうございます。それに、御察しの通り、私は昔いたお寺で、こんなにも淫らな身体に躾けられてしまいました。ひとりでは、身に篭る欲を散らすことができませぬ。ですから……その……」

 私は言葉に迷いました。これから言おうとしていることが、どれだけはしたないことなのか、私はじゅうぶんに理解しているのでございます。

 ですが、寄るのない若者たちを、このまま放ってはおけません。そして何より、私自身もまた、ぬくもりを分け与えてくれる誰かを求めている——私は、すうっと息をひとつ吸い込むと、勢い込んで、己の考えを訴えることにいたしました。

「もし、あなた方がずっとここにいてくださり、そして、私の欲を満たしてくださるのなら、これ以上の幸せはございません……!」
「ちょ、ちょっと待てよ、お坊さま。てめぇにあんなことをした俺たちを、ここに置いてやろうって言ってんのか?」
と、伊佐殿が胡座を組んだ膝を叩きながら、驚いたような声を上げています。私は耳まで赤くなってゆくのを感じながら、こくりと小さく頷きました。

「……はい」
「こりゃまた酔狂な話だぜ……。なぁ、どうするよ、幻」

 伊佐殿の視線を追って幻殿のほうを見やります。すると幻殿はじっと表情の読めない生真面目な顔をして、じっと私のことを見つめています。私の申し出について思案しているようでもあり、呆れられているようでもあり……。おかしなことを言ってしまった……と、私はじわじわと後悔の念を感じ始めました。

「……あんた、名は?」
「えっ、名……? 翠円すいえんと申します」
「すいえん、ね。……ふうん」

 幻殿はすっと立ち上がると、私の前に仁王立ちになりました。私が思わず身を縮こませていると、幻どのはゆっくりと私の前に跪き、そっと私の手を握ったのでございます。

「……悪くねぇ」
「えっ……?」
「……正直、俺もちょっと、迷ってた。世の中のことを何も知らねぇ陽路のためにも、本当に、このままでいいのかと」


 幻殿はすっと背筋を伸ばして正座をし、膝の上に拳を固めたかと思うと、こくりと頭を垂れました。
 そして、しっかとした声色で、私にこう言ったのでございます。


「だから……よろしく頼む」
「あっ……は、はい……こちらこそ……!!」
「伊佐、お前もちゃんと礼を言わねぇか。俺たちを世話してやろうって言ってくださってるんだぞ」
「まぁ、そりゃいい話だけどよぉ。世話すんのはむしろ俺らの方だろうが」

と、伊佐殿は心なしか明るい口調でそう言いながら、私のそばににじり寄ってきました。そして、そっと私の腰を抱きながら、耳元で低く、こうおっしゃられました。

「……ありがとうな」
「へっ……? あ、あのっ……耳元で囁かれるのはっ……」
「あははっ、どんだけ敏感なんだよ。しょうがねぇ助平坊主だぜ、翠円さんはよ」
「あ……」

 伊佐殿に親しげに名を呼ばれ、私は不意に、胸の奥にあたたかなものが流れ始めるのを感じました。
 目を瞬きつつ伊佐殿を見上げていると、伊佐殿はにっと快活な笑みを浮かべて、さらに強く私の腰を抱き寄せます。


 私はその手を軽く叩いて、改めてお二人に向き直り、しゃんと背筋を伸ばしました。


「そうと決まれば、これからは規則正しい生活を送っていただきます。読み書きそろばん、炊事洗濯、行儀作法、ありとあらゆることをあなた方に叩き込みますので、どうぞ、お覚悟を」
「えぇ……? んだよそりゃ」
と、間の抜けた声を出す伊佐殿を見て、幻殿が吹き出しました。そして、しばらく私たち三人は顔を見合わせ、声を立てて笑い合ったのでございます。

「昼間はそれでいいさ。俺たちは何も知らねぇ、獣みたいな破落戸だからな。だが夜は……」

 幻殿は雄じみた笑みを浮かべて、もう一度私の手を取りました。そして、密やかな指の動きで思わせぶりに私の指の股を撫でながら、そっと耳元でこう囁きます。

「……夜は、たっぷりあんたに礼をしてやる。泣くほど喘がせてやるからな」
「ふっぅ……ん」

 腰に響く低い声が、私の鼓膜を淫らに震わせます。
 思わず涙目になりながら幻殿を見上げると、ふわりと優しい接吻が、頬に授けられました。


 その時、もぞもぞと身じろぎをした陽路殿が、寝ぼけ眼をこすりながら起き上がり、「……んー……腹減ったぁ……」と暢気に大欠伸をしています。私はそっと、ぼさぼさに乱れた陽路殿の髪を撫でながら、「おはよう」と微笑みかけました。


 ふと気づくと、お堂の格子戸から、明るい陽光が差し込んでいます。

 
 さぁ、これからは、とても忙しくなりそうでございますね。





『うつくしき僧、露時雨に濡れ』・ 終
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