琥珀に眠る記憶

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琥珀に眠る記憶ー新章ー 第三幕

七、夢幻 

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「司さん!! 司さん……!?」

 転がるように玄関に駆け込んでだ。足がもつれて、スニーカーを脱ぐのも煩わしい。板張りの冷たい廊下を一直線に突っ走り、父親の書斎の戸を荒々しく開け放つ。そしてその奥にある司のいる部屋へと進み入った。

「司さん……!」
「……おや、どうしましたか。血相を変えて」

 畳敷きのスペース、いつもの場所に、司が不自然なほどに行儀良く正座をしていた。夜着にしている浴衣姿で、色のない瞳で物静かに孝顕を見上げるその姿は、いつもとなんら変わらない。


 ——『二十年前に亡くなった』……


 喪服を思わせる黒いスーツを着た美貌の青年。柔らかな口調で語られた信じ難い言葉が、耳に奥にこだまする。ざわざわと胸を騒がせる疑問を薙ぎ払うように、孝顕は大股で司に歩み寄り、華奢な肉体を強く強く抱きしめた。

 無抵抗に、されるがままに、司は孝顕の腕の中に収まっている。ほのかな温もりは確かにある。だが、あんなことを聞いてしまったせいか、それは常人のものよりも低いようにも感じられる。それとも、混乱している自分の肉体が熱いからそう感じるだけなのだろうか。

 そのまま畳に押し倒し、さらに強くかき抱いても、司はなんの反応も示さない。萎えた肉体も、浴衣の裾から除く紙のように白い太ももの血の気のなさにも……「ああやっぱり」と思ってしまう自分に混乱した。

「……司さんが『何』やったとしても、俺は、司さんのことが好きやった」
「……」
「司さんは、俺のことを理解してくれた。……あんたの力になれることが、俺はすごく誇らしかった」


 ——何で俺、全部過去形で喋ってんねやろ……。


 これは愛の告白だ。司への想いは、これまで誰にも感じたことのない特別な感情だった。

 その存在が『何』であれ、司は生まれて初めて孝顕を理解してくれる存在だ。孝顕の身の回りには、学校のクラスメイトや部活の仲間たちには話せようはずもない事柄が多すぎる。
 駒形家という不気味な家系のこと、反吐が出るような趣味を持った下卑た父親のこと、実の息子には目もくれず若い男に走っている阿婆擦れた母親のこと……。

 いつの間にか身に備わってしまっていた霊力を。否応無しに高まってしまうその持て余した力を、甘い快楽を伴う行為と共に孝顕から奪い去ってくれた。

 何もないこの土地で、反吐が出るほど軽蔑している両親のもとで生きる息苦しさをわかってくれ——『君は、父親とは大違いなんですね』と言ってくれた。


 それらは全て、孝顕にとっての救いとなっていたのだ。


「……駒形本家の人に世話になったとかいう人と、そこで会った。なんやようわからへんけど、ここにいたら危ないような気がすんねん」
「……。そうですか」
「逃げようや、一緒に」
「一緒に……?」

 細い肩を掴んで灰色の瞳を覗き込む。どんなに淫らなことをしているときでさえ表情の揺らぎを表に出さないその瞳が、一瞬小さく揺れた気がした。

「あんたが何をしようとしてるんかはわからへん。……けど俺は、ここに一人で置いていかれるなんて耐えられへんよ……!」
「……」
「それに、司さんは俺の霊力がないと動けへんくなるんやろ? そうやんな!?」

 どんなに強く訴えても、司は無言だった。それどころか、どんどん表情が冷えてゆく。ついさっき感じた司の心の揺れなど幻だったかのように。

 孝顕は苛立ち、横たわっている司の浴衣の襟を、グッと強く掴んだ。

「俺と一緒に東京へ行くって言うてたやん……!! 俺がおらな、あんたは生きていかれへん。そうなんやろ!?」

 文字通り、生きていけないはずだ。そうに決まっている。二十年前に滅びたであろう肉体をどうやってこの姿に保っているのかはわからないが、この姿でいるためには、孝顕の霊力が必要なのだ。……そう確信して、強い口調で司に縋った。

 だが、司は突然、「ふっ……ふはっ……」と噴き出した。
 そして、込み上げてくる笑いが止まらないといった様子で、腹を抱えて大笑いをし始める。

「あっはははははははは!! この僕が、君がいないと生きられない!? ははっ……あははははっ……!!」
「……つ、司さん……?」

 急に笑いを引っ込めた司が、今度は鋭い眼差しでこちらを睨めあげてくる。弓形にしなった唇には挑発的な笑みが浮かび、これまでに見たことがないほどに強い力が瞳に宿っていた。

「ふふっ……無知なお子様はこれだから……。ちょっと気持ちのいいことをして、耳触りのいい言葉を囁いてやれば、いくらでも生きのいい霊力を頂戴できる。なんて単純で……可愛らしい」
「……え……?」
「その青年に聞いたんですね。僕が二十年前に死んでるってこと。……ふふっ、ふふふ……」
「っ……」

 司は妖艶に目を細め、どん、と孝顕の胸を突いた。あまりに重い衝撃に全身を襲われ、孝顕は司の上から突き飛ばされる。

 あんなにもか細く、非力に思えていた司が見せた暴力に、孝顕はあっけに取られるしかない。

 畳の上にねじ伏せて何度も何度も唇を重ねた。全身を押さえつけながら、力の宿ることのない幼げな性器を口で愛撫したときも、身を捩る司は非力だった。……だというのに、この剛力は一体。

「っ……ぅ……」
「失礼。肋を折ってしまったかもしれません。早く医者にかかったほうがいいですよ」
「つ……つかささんっ……なんで……」

 司はスッと立ち上がり、すっかりはだけてしまった浴衣もそのままに、へたり込む孝顕の前にしゃがみ込む。そして、斜め下から舐めるような視線で孝顕を見つめ、ふ……と薄く微笑んだ。

 そして、音もなく伸びてきた白い指が、孝顕の首に絡みつく。

「美味しかったですよ、君の清らかな霊力は」
「ぅ、く……っ……ぐぅ……ッ」
「あぁ、首を絞められて、苦しいですね。でも、君は僕のことを知りすぎました。ここで死んでもらいます」
「んっぐ……ぅ……」

 ぎり、ぎりと有無を言わさぬ力で食い込んでくる白い指を外そうともがいたけれど、びくともしない。倒れ込み、ただ殺されゆくか弱い生き物に憐憫の微笑みを向けながら、司はますます指の力を強めてゆく。

 だがふと、司の注意が逸れた。遠のきかけていた意識を無理やりに引っ張り戻し、力無く瞼を開く。すると司の舌打ちが聞こえてきた。

「……結界が破られた」

 霞む視界の中に司の苛立った表情が揺らめく。このまま解放されるのかと思いきや……突然、唇をこじ開けられ、半ば無理やりのように司の舌が挿入された。

「っ……! ん、っぅ……ン」

 殺されそうになっていたというのに、そうして柔らかな舌で口内を愛撫されることに、悦びを感じてしまう。いつになく性急なキスに応じたくて舌を蠢かせたその時、ピリ、と鋭い痛みが走った。

「っ……!!」

 舌を噛まれたらしい。じわ……と口の中に広がる血の味は不快だが、なぜだか少し甘さを感じた。首を絞められて意識が朦朧としているせいだろうか。

 ようやく唇を解放されたかと思うと、どさりと畳の上に身体を投げ出される。白い脚が目の前で跪かれ、耳元に近づいてきた唇から、最後に囁く声が聞こえてきた。

「もうこの場所に用はない。……さようなら、孝顕」
「っ……まって……!」


 喉が詰まって声が掠れる。力を振り絞って伸ばした腕に、掴めるものはなにもなかった。


「……おい、大丈夫か!? 制服姿の子が倒れてるぞ!」
「ここの息子だ! 救急車を!!」

 母家の方から押し寄せてくる別の気配と共に、耳慣れぬ男たちの声が響き渡る。

 霞む視界の中に白い幻影を探し求めながら、孝顕は意識を失った。
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