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琥珀に眠る記憶ー新章ー 第二幕
終話
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【注】冒頭、少しだけ女性が凌辱される描写があります。苦手な方はご注意ください。
女の悲鳴が聞こえる。
啜り泣くような声、そして、男達の卑しい笑い声も……。
『この女は薄汚い祓い人だ、何をされても文句は言えまい』『俺たちの霊力で浄化してやるぞ』『都の陰陽師衆に楯突くから、こんな目に遭うのだ』——
色のない瞳で、駒形司はじっとその光景を見下ろしていた。三人の男に輪姦されているのは、罪を犯して捕縛された祓い人の女。……それは、司の祖母にあたる人物である。
正義を振りかざし、嬉々として女を犯している男達は皆、誉れ高き陰陽師衆に属する男たちであった。彼らにとって祓い人は卑しく、蔑むべき存在だ。打ち払うべき仇——それは、確かだ。
だが、清く正しいはずの陰陽師衆の中にも膿はある。この男たちはまさにそうだ。歪んだ正義を振り翳し、力と権力を誇示して弱者を痛ぶる。それを罪とも思わずに。
そして司は、その膿から生まれた存在だった。
司の祖母は誰の子かも分からない娘を産み、司の父親はその娘を妾にした。そうして生まれたのが、駒形司だ。紛うことなく、司は祓い人の血を引いている。
幼い頃から霊力に溢れていた司の力は、駒形家の中でも群を抜いて強力なものだった。知力にも、そして容姿にも優れた司は、父親の覚えもめでたかった。
駒形本家の嫡子である憲広は、あいにくひとひらの霊力さえ備えていない。司は父親を唆し、憲広をおしのけるような格好で駒形本家に入り込み——
そして、陰陽師衆の中心で権勢を振るっていた。
司が祓い人の血を引くものであるということは、駒形家の一部のものしか知らないことだ。だが、誰よりもこの血を憎んでいるのは、司自身である。
司の母親もまた、祖母から呪いを受け継いだ女だった。幼い頃、司は母から幾度となく、陰陽師衆への憎しみの言葉聞かされ続けてきた。だが司は、清い存在になりたかった。暗く、卑しく、蔑まれる祓い人ではなく、華々しく活躍を重ねる陰陽師衆の一員になりたかった。
母親から語られる陰陽師衆への恨みごととは逆に、司は父から『祓い人こそが悪』だと教え込まれてきた。いつも暗く、人を呪うようなことばかりを口にする母親の言葉よりも、父の言葉を司は信じた。陰陽師衆の皆に尊敬されながら仕事に励む父の背中は立派で、自分もそうなりたいと思えたからだ。
司は駒形本家の嫡子として、宮内庁特別警護担当官になった。名家の名に恥じぬ術者となるべく、努力も重ねた。自分には力がある。祓い人だの、陰陽師だの、そんな縛りはどうでもいい。力さえあれば、自分は清くいられると信じていた。
だが、その度に夢に見るのが、この夢だ。
顔も知らない祖母が、司の望む姿である『清い存在』である陰陽師らによって穢されている姿——
幼い頃から母親に聞かされ続けてきた忌まわしい出来事は、いつしか司の脳内で形を作り出し、何度も何度もリフレインする。
その度、己の本来の姿を思い出せと言われている気がした。清い存在になどなれるわけがない、司は、汚れた祓い人の血を受け継ぐものなのだと。汚辱の果てに生まれた子なのだと、思い出さなければならなくなる。
だからこそ、祓い人の根絶やしは司の悲願でもあった。祓い人を全員殺せば、うんざりするようなこの夢を見なくなるはずだと。今度こそ、自分は清い存在になれるのだと、そう思って力をふるってきた。
咄嗟に藤原を庇った時、悟ったのは『死』
だが、あそこで死ぬわけにはいかなかった。祓い人はまだ生きている。しかも、自分自身が祓い人の攻撃によって命を落とすなど、あってはならないことだ。こんな屈辱があってたまるか、なんとしてでも、生き延びなくては。
瀕死の際で父に頼んだこと、それは、『吸魂憑依の術』による人体蘇生実験だ。
左半身を失おうとも、術式を用いて妖を引き寄せ寄り憑かせることで肉体を蘇生し、生き永らえることができるはず。時間をかければ、再び力を取り戻せるかもしれない。
それは、古から数多の権力者たちが望んだ『不老不死』にも応用が効くと考えた。司の肉体でこの実験の有効性が示せたなら、これまで誰もなし得なかった不老不死の術式を作り出すことができるかもしれない——そうなれば、駒形家の権力はさらに強まるだろうと、説き伏せた。
その甲斐あって、司本人の遺体なしに、葬儀をつつがなく終えることができた。だが、後ろ盾であったはずの父親は病がちになり、司の肉体は分家である憲広のもとへ預けられることとなったのだった。
ただ死体のように横たわり、胸に刻まれた術式を抱いてこんこんと眠り続ける日々が過ぎ、二十年余りを経て、司は再び目を覚ました。
あやかしを屠ることによって作り替えられた肉体、そして只人離れした容姿……それはあまりにも不気味だが、司はこうして生きている。生き永らえたのだ。妖力を孕んだ霊力は昔のように扱えた。むしろ、以前よりもずっと禍々しさを秘めているようにさえ感じられた。
今こそ、悲願を果たす時だと思った。
そうして、司は動き始めたのだ。
だが今のところ、大した成果を得ることはできていない。式を得ようと鞍馬の神使を唆したが失敗し、天之尾羽張という魔剣で力を得ようとしたが、またしても邪魔立てされた。
なし得たことといえば、能登にある祓い人の里を滅ぼしたこと、水無瀬の血縁のものを幾人か殺したことくらいだろうか。
いつもいつも、司を邪魔するのはかつての仲間達だ。
そして何よりも目障りなのが、五百年前の記憶と力を受け継ぐ半鬼の青年、沖野珠生。
数年前に、祓い人らは宮内庁のもとにくだり、今はその保護下にあるという。だから彼らは、祓い人を守ろうとするのだ。あまつさえ、かつての敵を内部に引き込もうとさえしている。……ただ、妖を退ける戦力を得るために。
司には、それは許し難い愚行に思える。そんなことが許されていいはずがない。陰陽師衆に祓い人を交じらせるなど、あってはならないことだ。
誰も彼も、等しく愚かで、等しく憎い。
祓い人も、祖母を穢した陰陽師の男達も、そして、崇高な志を忘れ、烏合の衆と成り果てようとしている現代の陰陽師衆らのことも……。
「っ……はぁ……」
目を開き、身体を起こそうとしたけれど、それはうまくいかなかった。
珠生によって斬り落とされた腕は形ばかりは再生しているけれど、まるで力のこもらないはりぼてのようなもの。力を入れて持ち上げようにも、ぶるぶると震えるばかりで、何も掴めやしない。司は舌打ちをして、ため息と共に天井を仰いだ。
幾重にも張られた結界で守られたこの部屋に、命からがら逃げ戻った。そういう自分が情けないし、そうさせた珠生の顔を思い出すにつけ、じくじくと傷口が痛むような悪感情が湧き上がる。
かつての自分は強く気高かった。苛立ちなど無縁だったはずなのに、こうして気が立ってしまうあたり、そろそろ脳にも限界が近いのかもしれない。これまで糧としてきた妖らによって、知性を侵され始めているような気がしていて、ここのところ頭の中が不快なのだ。
——けど……もし、ただの獣に成り下がれたら、いっそ楽かもしれないな……。
その時だ。
がた、がた……と、倉庫の扉が開く音が聞こえてきた。ここは、この家の当主・駒形憲広が仕事用に使う離れの奥、倉庫の中に作られた四畳半の部屋だ。近づける人間は限られている。
この最悪な気分の時に、また憲広の顔を見なければならないのかとげんなりする。だが、どうにも憲広とは気配が違う。ふわりと鼻腔をくすぐるのは、若く青い霊気の香りだ。この家に、霊力を持ち得る人間がいたというのか……? それとも、宮内庁の追っ手か——と緊張し、素早く身を起こした司の前で、小部屋の扉が開く。
そこにいるのは、一人の少年だ。少年は、部屋の奥で膝をついている司を見て目を見開いた。
「や……やっぱり、人がおったんや」
よく日に焼けた健康そうな肌と坊主頭から、野球少年を連想した。高校生くらいだろうか、まだ未完成ながらも、よく鍛えられていそうないい体つきをしている。きっとあと数年もすれば、もっと背が伸び、さらに逞しい男になるだろう。
「……誰だ」
「えっ? あ、俺……俺、ここんちの息子。孝顕っていうねんけど……」
「孝顕……」
「……あんた、誰なん……?」
聞いた名だ。確か、憲広の一人息子である。
以前、憲広が司に折檻をしていた折、孝顕はこの部屋のすぐそばまでやってきていた。それを父親に咎められ、部屋から遠ざけられたことがあった。
父親とは似ても似つかぬ凛々しい目鼻立ちをしたその少年の全身からは、確かに霊力の気配が漂っている。まだ未熟で、目覚めさえしていない。殻の中で息を潜めているかのような力の気配……司は内心、ほくそ笑んだ。
——この霊力は、奪う価値がある。
司は緊張を解き、さも病弱げな容姿を存分に生かすように、その場にへたり込んで見せた。今まさに体がつらいのだから、あながち演技というわけでもない。
すると孝謙は慌てたように「あっ」と声を上げた。だが、この部屋に入ってはいけないという父親の声を思い出したかのように、扉の前で逡巡している。
その無垢な純粋さは、眩しくも尊い。司はにぃ……と微笑んだ。
儚げな声と物悲しげな表情で、司は孝顕を誘う。
「……こっちへきて、助けてください……」
「け、けど」
「お願いです、手を貸してください。……苦しいんです」
「わ、分かった」
戸惑いつつも心配そうに司を見つめる孝顕の表情は、美徳に溢れている。純粋で優しく、困っている人間を放っておけないのだろう。
——なんて正しく、清い魂だ。
腹の奥では憎々しさを感じつつも、儚くか細い声で司は少年の名を呼び、助けを求めた。
そして、ためらいがちに歩み寄ってきた孝顕の首筋へ、ゆっくり、ゆっくりと白い指先を伸ばす。
『琥珀に眠る記憶ー新章ー』第二幕 ・ 終
女の悲鳴が聞こえる。
啜り泣くような声、そして、男達の卑しい笑い声も……。
『この女は薄汚い祓い人だ、何をされても文句は言えまい』『俺たちの霊力で浄化してやるぞ』『都の陰陽師衆に楯突くから、こんな目に遭うのだ』——
色のない瞳で、駒形司はじっとその光景を見下ろしていた。三人の男に輪姦されているのは、罪を犯して捕縛された祓い人の女。……それは、司の祖母にあたる人物である。
正義を振りかざし、嬉々として女を犯している男達は皆、誉れ高き陰陽師衆に属する男たちであった。彼らにとって祓い人は卑しく、蔑むべき存在だ。打ち払うべき仇——それは、確かだ。
だが、清く正しいはずの陰陽師衆の中にも膿はある。この男たちはまさにそうだ。歪んだ正義を振り翳し、力と権力を誇示して弱者を痛ぶる。それを罪とも思わずに。
そして司は、その膿から生まれた存在だった。
司の祖母は誰の子かも分からない娘を産み、司の父親はその娘を妾にした。そうして生まれたのが、駒形司だ。紛うことなく、司は祓い人の血を引いている。
幼い頃から霊力に溢れていた司の力は、駒形家の中でも群を抜いて強力なものだった。知力にも、そして容姿にも優れた司は、父親の覚えもめでたかった。
駒形本家の嫡子である憲広は、あいにくひとひらの霊力さえ備えていない。司は父親を唆し、憲広をおしのけるような格好で駒形本家に入り込み——
そして、陰陽師衆の中心で権勢を振るっていた。
司が祓い人の血を引くものであるということは、駒形家の一部のものしか知らないことだ。だが、誰よりもこの血を憎んでいるのは、司自身である。
司の母親もまた、祖母から呪いを受け継いだ女だった。幼い頃、司は母から幾度となく、陰陽師衆への憎しみの言葉聞かされ続けてきた。だが司は、清い存在になりたかった。暗く、卑しく、蔑まれる祓い人ではなく、華々しく活躍を重ねる陰陽師衆の一員になりたかった。
母親から語られる陰陽師衆への恨みごととは逆に、司は父から『祓い人こそが悪』だと教え込まれてきた。いつも暗く、人を呪うようなことばかりを口にする母親の言葉よりも、父の言葉を司は信じた。陰陽師衆の皆に尊敬されながら仕事に励む父の背中は立派で、自分もそうなりたいと思えたからだ。
司は駒形本家の嫡子として、宮内庁特別警護担当官になった。名家の名に恥じぬ術者となるべく、努力も重ねた。自分には力がある。祓い人だの、陰陽師だの、そんな縛りはどうでもいい。力さえあれば、自分は清くいられると信じていた。
だが、その度に夢に見るのが、この夢だ。
顔も知らない祖母が、司の望む姿である『清い存在』である陰陽師らによって穢されている姿——
幼い頃から母親に聞かされ続けてきた忌まわしい出来事は、いつしか司の脳内で形を作り出し、何度も何度もリフレインする。
その度、己の本来の姿を思い出せと言われている気がした。清い存在になどなれるわけがない、司は、汚れた祓い人の血を受け継ぐものなのだと。汚辱の果てに生まれた子なのだと、思い出さなければならなくなる。
だからこそ、祓い人の根絶やしは司の悲願でもあった。祓い人を全員殺せば、うんざりするようなこの夢を見なくなるはずだと。今度こそ、自分は清い存在になれるのだと、そう思って力をふるってきた。
咄嗟に藤原を庇った時、悟ったのは『死』
だが、あそこで死ぬわけにはいかなかった。祓い人はまだ生きている。しかも、自分自身が祓い人の攻撃によって命を落とすなど、あってはならないことだ。こんな屈辱があってたまるか、なんとしてでも、生き延びなくては。
瀕死の際で父に頼んだこと、それは、『吸魂憑依の術』による人体蘇生実験だ。
左半身を失おうとも、術式を用いて妖を引き寄せ寄り憑かせることで肉体を蘇生し、生き永らえることができるはず。時間をかければ、再び力を取り戻せるかもしれない。
それは、古から数多の権力者たちが望んだ『不老不死』にも応用が効くと考えた。司の肉体でこの実験の有効性が示せたなら、これまで誰もなし得なかった不老不死の術式を作り出すことができるかもしれない——そうなれば、駒形家の権力はさらに強まるだろうと、説き伏せた。
その甲斐あって、司本人の遺体なしに、葬儀をつつがなく終えることができた。だが、後ろ盾であったはずの父親は病がちになり、司の肉体は分家である憲広のもとへ預けられることとなったのだった。
ただ死体のように横たわり、胸に刻まれた術式を抱いてこんこんと眠り続ける日々が過ぎ、二十年余りを経て、司は再び目を覚ました。
あやかしを屠ることによって作り替えられた肉体、そして只人離れした容姿……それはあまりにも不気味だが、司はこうして生きている。生き永らえたのだ。妖力を孕んだ霊力は昔のように扱えた。むしろ、以前よりもずっと禍々しさを秘めているようにさえ感じられた。
今こそ、悲願を果たす時だと思った。
そうして、司は動き始めたのだ。
だが今のところ、大した成果を得ることはできていない。式を得ようと鞍馬の神使を唆したが失敗し、天之尾羽張という魔剣で力を得ようとしたが、またしても邪魔立てされた。
なし得たことといえば、能登にある祓い人の里を滅ぼしたこと、水無瀬の血縁のものを幾人か殺したことくらいだろうか。
いつもいつも、司を邪魔するのはかつての仲間達だ。
そして何よりも目障りなのが、五百年前の記憶と力を受け継ぐ半鬼の青年、沖野珠生。
数年前に、祓い人らは宮内庁のもとにくだり、今はその保護下にあるという。だから彼らは、祓い人を守ろうとするのだ。あまつさえ、かつての敵を内部に引き込もうとさえしている。……ただ、妖を退ける戦力を得るために。
司には、それは許し難い愚行に思える。そんなことが許されていいはずがない。陰陽師衆に祓い人を交じらせるなど、あってはならないことだ。
誰も彼も、等しく愚かで、等しく憎い。
祓い人も、祖母を穢した陰陽師の男達も、そして、崇高な志を忘れ、烏合の衆と成り果てようとしている現代の陰陽師衆らのことも……。
「っ……はぁ……」
目を開き、身体を起こそうとしたけれど、それはうまくいかなかった。
珠生によって斬り落とされた腕は形ばかりは再生しているけれど、まるで力のこもらないはりぼてのようなもの。力を入れて持ち上げようにも、ぶるぶると震えるばかりで、何も掴めやしない。司は舌打ちをして、ため息と共に天井を仰いだ。
幾重にも張られた結界で守られたこの部屋に、命からがら逃げ戻った。そういう自分が情けないし、そうさせた珠生の顔を思い出すにつけ、じくじくと傷口が痛むような悪感情が湧き上がる。
かつての自分は強く気高かった。苛立ちなど無縁だったはずなのに、こうして気が立ってしまうあたり、そろそろ脳にも限界が近いのかもしれない。これまで糧としてきた妖らによって、知性を侵され始めているような気がしていて、ここのところ頭の中が不快なのだ。
——けど……もし、ただの獣に成り下がれたら、いっそ楽かもしれないな……。
その時だ。
がた、がた……と、倉庫の扉が開く音が聞こえてきた。ここは、この家の当主・駒形憲広が仕事用に使う離れの奥、倉庫の中に作られた四畳半の部屋だ。近づける人間は限られている。
この最悪な気分の時に、また憲広の顔を見なければならないのかとげんなりする。だが、どうにも憲広とは気配が違う。ふわりと鼻腔をくすぐるのは、若く青い霊気の香りだ。この家に、霊力を持ち得る人間がいたというのか……? それとも、宮内庁の追っ手か——と緊張し、素早く身を起こした司の前で、小部屋の扉が開く。
そこにいるのは、一人の少年だ。少年は、部屋の奥で膝をついている司を見て目を見開いた。
「や……やっぱり、人がおったんや」
よく日に焼けた健康そうな肌と坊主頭から、野球少年を連想した。高校生くらいだろうか、まだ未完成ながらも、よく鍛えられていそうないい体つきをしている。きっとあと数年もすれば、もっと背が伸び、さらに逞しい男になるだろう。
「……誰だ」
「えっ? あ、俺……俺、ここんちの息子。孝顕っていうねんけど……」
「孝顕……」
「……あんた、誰なん……?」
聞いた名だ。確か、憲広の一人息子である。
以前、憲広が司に折檻をしていた折、孝顕はこの部屋のすぐそばまでやってきていた。それを父親に咎められ、部屋から遠ざけられたことがあった。
父親とは似ても似つかぬ凛々しい目鼻立ちをしたその少年の全身からは、確かに霊力の気配が漂っている。まだ未熟で、目覚めさえしていない。殻の中で息を潜めているかのような力の気配……司は内心、ほくそ笑んだ。
——この霊力は、奪う価値がある。
司は緊張を解き、さも病弱げな容姿を存分に生かすように、その場にへたり込んで見せた。今まさに体がつらいのだから、あながち演技というわけでもない。
すると孝謙は慌てたように「あっ」と声を上げた。だが、この部屋に入ってはいけないという父親の声を思い出したかのように、扉の前で逡巡している。
その無垢な純粋さは、眩しくも尊い。司はにぃ……と微笑んだ。
儚げな声と物悲しげな表情で、司は孝顕を誘う。
「……こっちへきて、助けてください……」
「け、けど」
「お願いです、手を貸してください。……苦しいんです」
「わ、分かった」
戸惑いつつも心配そうに司を見つめる孝顕の表情は、美徳に溢れている。純粋で優しく、困っている人間を放っておけないのだろう。
——なんて正しく、清い魂だ。
腹の奥では憎々しさを感じつつも、儚くか細い声で司は少年の名を呼び、助けを求めた。
そして、ためらいがちに歩み寄ってきた孝顕の首筋へ、ゆっくり、ゆっくりと白い指先を伸ばす。
『琥珀に眠る記憶ー新章ー』第二幕 ・ 終
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