琥珀に眠る記憶

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琥珀に眠る記憶ー新章ー 第一幕

十七、貴船神社・奥宮にて

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 枝を蹴って進むうち、徐々に山の空気が変わってきた。
 太陽の位置を見るに、今珠生は北西の方向へ向かっている。ということは、すでにここは奥貴船エリアへと入っているということになる。水神を祀る貴船神社を中心とした、清らかな聖域である。



 ——いる……なんだ、この異様な気配は……。


 ひときわ大きな枝を蹴り、珠生はひらりと一回転して地面に降り立った。ここは貴船神社・奥宮おくのみや。連なった灯篭の美しい風景で有名な本宮から、さらに山奥へと入った場所にある。

 ここには、つつみが岩、連理の杉、玉依姫たまよりひめ御船形石ふながたいわなど、さまざまな神話と伝説の語り継がれる不思議な場所で、濃密な神気が漂うパワースポットだ。

 また同時に、貴船神社奥宮は、『丑の刻参り』の生まれた場所としても有名だ。夫を奪われた宇治の橋姫が、憎い相手を呪い殺すため、ここで行った儀式である。嫉妬に狂い、生きながらに鬼神となることを望んだ女の、呪いの地だ。


 ——嫉妬に心を焼かれ、鬼になるための儀式を行った場所……。


 ざぁ……と冷たく湿った重たい風が、珠生の胡桃色の髪を乱していく。
 その風の匂いの中に、珠生はふと不可思議な気配を感じた。神気とも妖気とも霊気ともいえない、不気味な気配だった。

 砂利を踏んで立ち、珠生はぐるりと頭上を見渡した。腕時計を見ると、時刻は午後四時半。そろそろ参拝時刻終了ということもあってか、人気はまるで感じられない。

 自然が深く、鳥の声と風の音しか聞こえない、静謐な世界だ。
 すでに樹々の隙間から差し込む陽光は薄く、あたりはぼんやりと仄暗い。


「……へぇ……本当に、鬼の匂いがする」


 その時、背後から若い男の声がした。
 背後を取られたことに驚き、珠生は弾かれたように振り返った。


「……え……?」


 雪のように白い肌、さらりと風になびく灰色の髪、そして、ほとんど色などないように見える、淡い色の瞳。


 淡く消え入りそうな容姿をした痩身の青年が、音もなくそこに佇んでいた。


「……誰だ」
「誰って……僕は人間ですよ。ただの、人間」

 そう言って、その青年は唇を釣り上げて、笑った。
 黙っていれば、儚く美しい顔貌に見えるのだ。だがその笑みは、まるで白い蛇が裂けた口を開き、赤い舌を覗かせているかのような、邪悪な笑い方だった。

「人間……だと? ひょっとして、右水と左炎のところにいた、もう一人の……」
「うすい、さえん? あぁ……あの間抜けな虎のことですか? 力はあんなにも強いのに、なあんにも知らない、低脳な獣のこと?」
「……何だと?」

 あまりの物言いに、珠生は表情を険しくした。青年は事もなげに肩を揺すって喉の奥で笑うと、珠生を小馬鹿にしたように顎を上げ、色のない瞳をすっと細めた。

「鬱陶しいんですよね、あなたたち。突然現れて、僕の邪魔をして」
「邪魔って? お前は右水たちを使って、何をしようとしていた。あの少年を、どうするつもりだった」

 珠生はじゃり、と肩幅に足を開き、やや身を屈めて戦闘態勢をとる。
 相手からはさほどの力も感じはしないが、不気味な気配はどこまでも濃く、珠生の警戒心をびりびりと刺激した。その青年の様子をじっと窺いながら、同時に、視線だけで周囲を素早く見回す。丸腰のようだが、ひょっとしたら何か術のような物を使って、攻撃を仕掛けて来るかもしれない。

 しかし青年はくつろいだ様子のまま、軽く羽織った黒いコートのポケットに手を突っ込み、そこに立っているだけだ。
 身なりはごく普通の現代人といったところだろう。身長は珠生より少し低いくらいだが、特徴的な目の色や青白い肌のせいで、年齢のほうはいまいちよく分からない。宗喜が『子ども』と表現したように、確かに中学生くらいの若さにも見える。しかし、この不遜な態度や毒気のある物言いのせいで、もっともっと年上のようにも見える。

「どうするって……まぁ、簡単に言うなら、強力な式を得るために、鞍馬に来たって感じですけど」
「式……?」
「ここでさらったあのガキを衰弱死させて、あの虎のせいにしようと思ってたんですよ。そうすればあの二頭は罪に呑まれて、神使ではいられなくなる。ただの妖に堕ちるだろうから」
「……なんだと?」
「本当に、簡単でしたよ。あの神のお使い虎たちは、本当に本当に、心優しい獣たちですから。僕の言葉を何でも信じて、何でも言うことを聞いてくれて……ふふっ」

 青年はそう言って、くつくつと喉の奥で笑った。そしてちろりと珠生の方を見やり、小首を傾げてこんなことを言う。

「あの二頭は、この山に葬られた子どもたちの存在に心を痛めてました。そして、気が狂い子どもを殺めてしまったあの老婆の心の叫びも、ずいぶん前から気にかけていたようで」
「え……?」
「でもね、彼らは何もできなかった。何もできないことを嘆いていた。だから、できることはあると教えてやった。心に傷を負った少年を救ってやればいいと、助言したんです。彼を守ることで、殺された赤ん坊の魂も救われる。彼らの親が気づかないように、偽物を返しておけば、それでいいからとね」


 その言葉に、珠生は迷わず宝刀を抜いた。
 刀身から迸る真珠色の光に、青年の目がわずかに見開かれる。


「やはり入れ知恵だったのか。……お前は一体、何なんだ」
「……へぇ、お噂どうり、美しい宝剣だ。ていうか、そんな警戒しないでくださいよ。ほら、僕はただの人間です」
「ただの、ってわけじゃなさそうだけどな。お前の身柄は捕縛する。ゆっくり話を聞かせてもらいたいからね」
「へぇ、僕を捕まえる?」


 ニタリ、と青年が笑った。
 その直後、青年はさっと両手を広げた。まるでオーケストラの指揮でも始めるかのように、気取った動きだ。そしてその手を胸元に持ってくると、素早く印を結び、信じられない言葉を口にした。


吸魂憑依きゅうこんひょうい、急急如律令!」

「……何!?」


 ——陰陽術……!?


 刹那、青年の胸元に大きな風穴が開き、ごおおおっと激しい風があたりをびゅうびゅうと吹き荒ぶ。珠生の立っている場所に敷き詰められた砂利をも飲み込んでしまいそうに、強い吸引力だった。

 ぐっとその場で踏ん張りながら青年の動きを見据えていると、淡く光る何かが、次々に青年の胸に空いたうろへと吸い込まれていく。はっとして周りを見回してみると、神域に漂っていた妖たちが、青年の中へと次々に飲み込まれていくではないか。


「ふっ……ふふっ……ああ……気持ちがいいなぁ……どんどん、力が漲ってくる……」

「……どういうことだ……!?」


 青年の身体に漲る力が、みるみる強くなっていく。いつしかその身体には青黒い光が宿り、青年の双眸が、不気味に光り輝いた。


「憑依させてるのか……? 妖を……!?」
「……ま、そんなとこです。あぁ……はぁ……たまらないなぁ、この全能感。……ほら、ほらほら、かかって来てくださいよ。早くしないと僕、ここらへんにいる無害な妖、みーんな喰っちゃいますよ?」


 ——人間なのに、妖を喰う……!? 


 ぞっとするような不気味な笑みを浮かべながら、青年はそう言って珠生を煽った。挑発とは分かっているが、ここでこの青年を放っておくわけにはいかない。妖は、人に害をなすものばかりではない。この土地の秩序を守り、自然のバランスを保つ役割を担っているのだから。

 それよりも危ういのは、青年が身に纏う霊力が、禍々しさを伴いながら急上昇していっていることだ。ついさっきまではほとんど何の力も感じなかったというのに、爆発的に力が高まっていく。

「くそっ」

 珠生は即座に地を蹴り、青年めがけて斬りかかった。態勢を低くしながら砂利を蹴り、珠生を弾き飛ばさんとするが如く吹き乱れるつむじ風を物ともせず、かまいたちのように鋭く宝刀を振り抜いた。


 確実に捉えたと思った。
 殺さず捕らえるために、青年の太ももを狙ったはずだった。


 だが青年の身体は、さらに二、三メートル先に佇んでいるではないか。咄嗟に避けたのではなく、ずっとその場にいたかのように。


「っ……!」
「ふうん……どれほどのものかと思っていたけど。大したことないんですね、千珠様」
「何……!」
「なるほど。ここ数年の平和で、ずいぶんと腑抜けてしまわれたのですね。祓い人を平定して、それで全てを終えたつもりでいたんでしょうが、それは大間違いというものです」


 ——祓い人……?


 四年前に水無瀬楓を討ち、実質的に祓い人の集団は解体されたことになっている。今は宮内庁の監視下に置かれ、式は全て剥奪され、霊的な力を使わぬようにと命ぜられているのだ。

 古い慣習に囚われ、ひどく閉鎖的だった祓い人の里にも、今は穏やかさが訪れている……そう、珠生は聞いていた。

 なのに今、陰陽術を使う青年が、祓い人のことを口にしている。
 珠生は混乱しつつも、ここでこの青年を逃してはならないという使命感に背中を突かれ、何度も青年へ斬撃を打ち続けた。

 だが、まるで風に舞う木の葉を相手にしているかのように手応えがない。ひらりひらりと身をかわし、気づけば背後に立ち、また気づけば奥宮の屋根の上に立っている青年の不可思議な動きに、徐々に判断が鈍っていく。頭が鉛のように重くなり、目の奥がつんと痛むのだ。


 ——おかしい……なんだ、これ……っ……!?


「ほうら、まるで戦い方がなってない。ただ斬り込むだけのあなたが、この僕の相手になるとでも? ……縛!!」
「うあっ……!!」

 カッ!! と地面が光り輝き、複雑な呪印が足元に現れた。その次の瞬間には、珠生の全身は細かな棘のある蔓草のようなものに搦め捕られてしまっていた。

 スーツを突き破り、皮膚を突き刺し、ぎりぎりと締め上げて来るその蔓草には、見覚えがあった。苦悶に表情を歪めながらも、それが崎谷宗喜の擬態を作っていたあの植物だと、珠生は気づいた。

「ぁあああああ!!」
「痛いですか? ふふ……僕の邪魔をした罰ですよ。大丈夫、殺しはしませんから」
「くっそぉ……!!」
「もう少しで強力な式を得られたのに、全部やり直しだ。この労力の分、痛めつけさせてもらいますよ」
「ぁ、ああっ……!!」

 容赦無く締め上げてくる蔓草の棘が、珠生の全身の肌を突き破る。手首からは血が流れ、白いワイシャツにも血が滲む。珠生の手から宝刀が落ち、ふわっと霧散して消えてしまった。それを見て、青年はさらに唇を釣り上げて、凶々しい笑みを浮かべて舌なめずりをしている。


 ——くそっ……!! こんなことで……!!


 戦いから身を離していた数年。こんなにも激しい痛みは久しぶりだ。だが、貫かれる痛みに、珠生の本能は徐々に研ぎ澄まされていくようだった。


 珠生は歯を食いしばりながら、ぐっと目を閉じた。そして体内に眠る己の力を呼び覚ますように、深く、深く息を吐く。


 そして再び開かれた珠生の双眸は、血のように赤く染まっていた。
 縦に鋭く裂けた瞳孔、燃え上がるような激しい妖気。
 四肢に絡みついていた蔓草が一瞬にして燃え上がり、炭化してぼろぼろと消えていく。


「……!」


 珠生のその姿を見て、青年の表情がガラリと変わった。冷静に獲物の力量を測る猛禽類のような目つきで、じっと珠生を見据えている。


「……俺にこんなことをして、ただで済むと思うなよ」


 とん、と地面に足を着くと、珠生の足元に広がっていた呪印が燃え上がり、消えた。青年は真剣な眼差しでじっと珠生を見つめたまま、「素晴らしい」と呟いた。


「……なるほど、この力。千珠様の生まれ変わり……か」
「大人しくしていろ。お前はもう、ここから逃れることはできない」


 再び宝刀を手にした珠生の全身から、妖気が陽炎のように燃え上がる。


 その時、珠生の背後から、凛とした男の声が響いた。
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