琥珀に眠る記憶

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第7幕ー断つべきもの、守るべきものー

四十二、温泉に浸かって

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 深春は目を開いた。

 とてもとても、居心地のいい夢を見ていたような、すっきりとした、気持ちのいい目覚めだ。心のなかがほっこりと暖かく、妙に満たされた気分だった。

 起き上がってみると、身体も軽い。
 今朝の朝食はなんだろう、柚さんももう起きてんのかな……などと思いながら、裸足の足をベッドから下ろす。

 いつもならフローリングの床がひんやりとその足を迎えてくれるはずだが、今日の感触は畳だった。深春は足元を見下ろし、そして周囲を見渡した。

 見慣れない和室に、二台置かれたベッド。その一台に、深春は寝かされていた。ぼりぼりと頭を掻いて隣のベッドを見ると、湊が物音ひとつ立てずに眠っているのが見える。

「……湊くん?」
 仕切りの襖を開くと、雑多に敷かれた布団に数人の男たちがごろごろと眠り込んでいるのが見えた。浴衣を着込んでいるもの、ワイシャツにスラックスという格好のままのもの……深春ははっとして、自分の首を押さえる。

「あれ……」


 ——鎖がない。それに、どこも痛くない。何が……起こったんだっけ、あれはただの、悪夢だったのか……?


 困惑する深春が佇んでいると、ぽんと肩を叩かれた。


「うわぁあああ!!」
 なんの気配もなく触れられたことに仰天した深春は、大声を上げてその場にへたり込んだ。
「み、湊くん……」
「よぉ、おはよ」
「お、おはよ……」
「大声出すなって、みんな起きてしまうやん。なぁ、温泉行かへん?」
「え……うん、行く……」
 
 
 +


 宿の外に設置された温泉は、絶景を眺めながら露天風呂に浸かれるという、なんとも素晴らしいロケーションにある。深春は着た覚えのない浴衣を脱ぎながら、傷だらけの自分の身体を見下ろして、動きを止めた。

「これ……は」
「ほら、行くで」

 何かを考える暇もなく、湊に背中を押されて温泉へ入る。もうもうと白い湯気の上がる岩風呂には、誰もいなかった。

 かけ湯をすると、びりびりと身体の擦り傷が痛んだ。深春は小さく呻いて、ごしごしと汗ばんだ肌を流す。こびりついた血や、爪の間に入り込んだ泥、軽く鈍痛のする肩の傷や胸の切傷に、深春は徐々に記憶を取り戻していく。

「湊くん、俺さ……」
「俺は見てへんかったからな。話に聞いただけや」
「……じゃあ。やっぱり現実だったんだ」
「せやな。深春は実際、楓に操られて陰陽師衆のみんなを襲った。でも、首に巻きついてた鎖は珠生が食いちぎって、お前は解放された」
「夢……じゃなかったんだな」
「覚えてへんの?」
「……なんだか、断片的というか。最後に見た夢は、きれいな田舎の景色の中で、雷燕と……」

 深春は透明な湯の下で揺らめいている自分の両手を見下ろした。雷燕の最後の言葉、笑顔、あの風景の中で感じた風の感覚を思い出す。

「珠生が言ってた。雷燕は消えたって」
「……そっか、やっぱり」
「これでよかったと思うで。次生まれ変わる時は、きっとこんな面倒事には巻き込まれへんはずや」
「うん……そうだな」
「話せてよかったか?」
「うん……なんだかんだいってさ、あいつは本当に俺に……夜顔に似てた。あいつが、ほんとうの意味で俺のルーツなんだなって感じて、何だか分かんないけどちょっとホッとしたんだ」
「……そっか」
「昔、何で俺は転生したんだろうって、藤原さんや珠生くん問い詰めたことがあったけど……、あぁ、そういうことかって。なんかあっさり腑に落ちた感じがしたな。あの景色をあいつと一緒に見て、話をして、俺の目の前で雷燕は消えて……ああ、この時のために、俺は生きてたんだろうなって」
「そうか」
「でも……みんなにいっぱい迷惑かけちゃった。珠生くんにも……大怪我させた。京都に戻ったら、俺はやっぱり柚子さんとこも出て行ったほうがいいんだろうな」
「いやぁ、それはどうやろうな」

 ただ淡々と話を聞いていた湊が、のんびりとした口調でそう言った。岩風呂の縁にふんぞり返って空を見上げている湊の素顔を物珍しく眺めながら、深春は次の言葉を待った。

「お前は、ずっとここにいたらいいと思うで」
「……でもさ」
「元をたどれば、お前は祓い人と雷燕との間にできた諍いが産んだ子どもやった。いわば被害者やな。それでも、夜顔は医者として人を助けて生きてきた。現世に蘇ったお前も、生まれは決して幸せな環境とは言えへんかったと思う。けど、それでも今回なんやかんやいうて、お前が祓い人制圧の契機になったわけやし」
「……」
「深春がここから去っていく理由なんて、どこにもないと思うけどな。俺は」
「……でも」
「珠生も誰も、お前のこと怒ってなんかないし、早う顔を見たがってたよ。柚子さんも天道も、お前の帰りを心配して待ってるんやで」
「……亜樹ちゃん、も」
「せっかくあいつにも家族ができたんや。また寂しい思いさせたくなんかないやろ」
「……うん」
「柚子さんは、なんにも分かってやれんかったって自分を責めてた。そんなことないって、お前は自分で言いたいんちゃうんか?」
「うん……」
「ほんなら、よそへ行こうなんて考えながらあの家に戻るんじゃなくて、あそこを自分の家と思って、ちゃんと帰り。昔のことなんてもういいやん、お前はこれからを生きたらいいんや」
「湊くんてさ……何でそんなに、いろんな事が分かるんだ」
 ぽんぽん自分の気持を代弁されて、深春は不思議そうに湊の横顔を見た。湊はにやりと笑って、「俺は元忍やからな」とだけ言う。

「はー? 意味わかんねぇ」
「俺はみんなが思っている以上に、みんなのこと観察してるってことや」
「うわ、怖」
「癖やな、昔からの。職業病や」
「嘘だろ、ただの趣味だろ」
「そんなことないって、失礼な」

 憮然とする湊がじろりと深春を睨んでいると、がらりと露天風呂の戸が開いて誰かが入ってくる気配があった。湯煙の向こうに、三人分のシルエットが見える。

「おお、若者は早起きだな」
と、高遠の声。
「更科さんも起こしてきたほうが良かったですかね」
と、芹那総司の声。
「いや、相当霊力使ってたから、ありゃ当分起きないだろう」
と、藍沢の声がした。

 深春が緊張するのが、湊には分かった。しかしのんびりと雑談をしながら身体を洗っている男三人の背中は、深春に警戒しているようには見えない。

「良かったねぇ、すぐに怪我が治って」
と、湯に入ってきた高遠がにこにこしながらそう言った。
「あ、はい……ありがとうございました」
「いやいや、僕は何もしてないから。主に更科くんが君の怪我を治療したんだよ、あとこの藍沢が」
「本当に、すいませんでした」
「もういいって、そこの湊くんも言ってたろ。もういいんだよ、この件は片がついたんだから」
と、藍沢も気持ちが良さそうに息を吐きながらそう言った。

「……聞いとったんですか」
と、湊。
「聞いてたんじゃないよ、聞こえてきただけ」
と、藍沢がにやりと笑う。
「あぁー、気持ちいいっすねぇ」
と、芹那の間延びした声が響く。

 どこか夜の香りを残していた空が、徐々に朝の色を見せ始めた。灰色の海にきらきらと朝日が当たり、本来の青い海の色が顔を覗かせ始める。

「ええ眺めやなぁ」と湊が言うと、深春も海を眺めて溜息をついた。
「……ほんとだ」
「まさに絶景」と藍沢が言うと、芹那が「いやぁ、疲れが消えますねぇ」と言う。

「この土地にも光が差すようになった、色んな意味でね。これで今までの陰鬱とした能登支部のイメージも払拭されるな」
と、高遠は満足気である。
「それはどうでしょうね。あの事務所、いかにも陰鬱としてるし。まぁ俺はそっちの方がいいですけど」
と、藍沢。
「あぁ、それはありますね。俺もそろそろ京都に戻りたいですもん。田舎だし、なんもないし」
と、若い芹那は不満たらたらだ。
「おいおい、しっかりしてくれよ。誰かがこっちの妖を見張ってないといけないだろ? まったく、これだから最近の若いものは辛抱が足りない」
と、高遠は困り声でそんなことを言いつつ、タオルをたたんで頭の上に置く。湊と深春は顔を見合わせて、少し笑った。

「佐為が宮内庁に入らずに医師になるからなぁ。珠生くんを代わりに置いて行くって言ってたけど、あれ本当かな」
と、高遠。
「えっ、そうなんですか?」
と、初耳の深春は普通に驚いている。
「うん、まだ打診はしてないけど。彼はもともと地方公務員志望だろ? 頭もいいみたいだし、力も人格も申し分ないし」
「まぁ、確かに適役ですね」
と、あっさり湊は頷いた。転勤とか嫌がりそうやなと思いつつ。

「舜平くんも欲しいところだけどねぇ。霊力も戻ったし、彼ならどこの土地でもやっていけそうだし」
「舜平はもう就活してますけど」
と、湊が言うと、高遠は残念そうに頷いて腕組みをした。
「そうなんだよね。まぁ、彼は大学院生でかなり専門分野も絞っているから、今更こっちにひっぱるのは気の毒だよなぁ」
「珠生くんがいるなら、ついてくるんじゃないんですか」
 ざぶざぶと顔に湯をかけながら、藍沢がそんなことを言う。もっともな指摘に、湊は藍沢のいつになく顔色のいい横顔を見た。

「あの二人は、昔からセットでしょう」
「まぁ、そうだけどさ。一応彼にも打診はするよ? でも無理強いはできないからね」
と、高遠は微笑む。
「珠生くんも、黒服を着るのかぁ……」
と、深春がつぶやく。
「……かっこいいな」
「そうだね、彼ならよく似合いそうだ」
と、高遠。
「千珠さまは忍装束もよう似合おうてはりましたしね。普段は白っぽい服が好きみたいやったけど」
と、湊。
「彼を連れて合コンに行けば、間違いないな……」と芹那がそんなことをぼそりと呟くので、藍沢は珍しくははっと声を立てて笑った。
「やめとけやめとけ、全員彼に取られておしまいだろ。君に勝ち目はないから」
「ひでぇなぁ」

 寛いだ空気が、湯気とともに空に昇っていく。重苦しかった気持ちも湯気といっしょに、ふわりととけて消えて行くような気がした。


 深春は笑顔を浮かべながら、壮大な海の風景を、ゆったりと眺めた。

 
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