琥珀に眠る記憶

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第5幕 ——夜顔の記憶、祓い人の足跡——

72、その二週間後

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 相田舜平と屋代拓は、スーツ姿で大学内のベンチに座っていた。

 たった今大学院入試の面接が終了したところであり、二人はぼんやりと緩んだ顔で、キャンパス内をうろうろと歩き回っている学生を眺めていた。

 感触は良かった。卒業論文の審査とペーパーテストの結果は良好だったし、健介からも太鼓判をもらっていた。それでも、やはり深い関わりがあるわけではない他の教授陣に取り囲まれての面接は、かなりの緊張を強いられた。

 まるで予想違いのところから飛んでくる質問にたじろいだり、圧迫的な質問に詰まったりしながらも、二人は何とか無事に面接室を出てきたというわけである。

「……寒いな」
 拓がぶるっと震えてそう言った。そういえば、二人は上着を各務研究室に置きっぱなしにしていたことに気づく。立ち上がって、上着を取りに行く事にした。
「……まぁしかし、これでしばらくは全てから解放されるな。あーあ」
 拓は大きく伸びをして、肩をぐるぐると回した。舜平も笑って、頷く。
「ほんまやで。後は単位落とさん程度に授業出て……卒業やな」
「早いな、俺らも卒業か……」
「うまくいけば、あと二年学生やけどな」
「せやな。でも何か、気持ちが違うよな」

 上着を取り、二人はカフェテラスへと向かう。なにか暖かいものを飲もうということになったのだ。
 拓は、隣を歩く舜平のどことなく覇気のない表情を見て、肩を叩いた。

「元気ないやん! もうこれで自由の身なんやで! もう少し嬉しそうにせぇよ」
「あ……あぁ、せやな」

 取り繕うように舜平は笑ったが、その笑顔はどこか曇りがちだ。拓は心配そうに首を傾げた。

「どうしたん? なんかあったんか? 試験ごときでお前、そんなならへんやろ」
「……や、別に……。試験で疲れただけやって」
「でもここんとこずっと、なんやしんどそうや」
「……そう、かな」
「そうやろ。話くらいなら聞いたんで」

 拓の優しさが沁みる。

 しかし、どうして言えるだろうか。
 自分は、敵に一方的にやられた上に霊力をすべて奪われ、前線から外された挙句、珠生に手酷いことを言ってしまった——などということを、どう説明すればいい。



 病室を出ていく間際の珠生の台詞と表情が、忘れられない。
  


 痛々しい、悲しげなあの目。舜平を怒鳴りつけたときの、珠生の苦しげな声。



 そして、未だ妖気と霊気がアンバランスな状態を呈している珠生を、彰や敦に任せねばならないというこの状況に、一番苦悶しているのは自分であるということ……。

 こんなこと、拓には言うことができない。四年間大学生活の大半を共に過ごした拓は、舜平の表情の変化には敏感だ。そんな良き友にも、言えない苦しみだった。

「ちょっとな、落ち着いたら聞いてくれ」
 舜平はそれだけ言って、拓に微笑んだ。
「……分かった。まぁ、今後も長い付き合いなんや。気が向いたらいつでも言え」
「ありがとう」
 心の底から、そう思った。こんな時こそ、友人の存在をかけがえの無いものであると感じる。

「なぁ、試験も終わったし合コン行こうや」
 拓は、深刻な表情の一瞬後にそんな事を言い出した。舜平は肩透かしを食らった気分を味わいつつ、その切り替えの速さに感心してしまう。

「合コンねぇ」
「お前もあれから彼女いいひんやろ? ええやん、打ち上げみたいなもんや」
と、拓はにこにこしながら舜平の肩に手を回す。
「経済学部の米田が女の子集めるって言ってんねん。理系の子ら以外とももっと喋っときたいやん。卒業までにさ」
「……あぁ、せやなぁ……」
「ちょっとは気分転換になるかもしれんで」
「うーん……」
「ほな、行くな! よし!」

 舜平の最終的な返事を聞く前に、拓は携帯を取り出してメールを打ち始めた。行動が早い。

 それをいちいち咎める気にもならず、舜平は晴れ渡った空を見上げた。ふわふわとした綿毛のような白い雪が、空からちらほらと降っていた。


 ——珠生……。どうしてんねやろう……。


 白い雪に、珠生の顔を思う。


 何も役に立つことのできない歯がゆさが、忘れていた痛みを身体にもたらす。

 抉られた腹の傷も、珠生に浴びせた言葉も、珠生から食らった言葉も、全てが痛い。

 会いたいが、会ってはいけない気がしていた。

 きっと今会えば、弱って卑屈になった自分の気持ちのまま、またいらぬことを言って珠生を傷つけてしまいそうだからだ。


 珠生……。千珠……。
 笑顔でいるのか、お前は。


 ——俺は当分、笑えそうにない。
 




  +
 


 朝マンションを出ると、いつものように墨田敦がエントランスの壁に寄りかかって立っていた。珠生を見ると、唇だけで笑って見せる。

「おはようございます」
 ちょっとふざけたように丁寧な挨拶をしてくる敦を、珠生はマフラーで半分隠れた顔で見上げる。

「……おはようございます」
「調子はどうじゃ?」
 松ヶ崎の駅まで並んで歩きながら、敦は毎朝のようにそう尋ねてくる。珠生はここ一週間のこの監視と護衛に、そろそろ辟易してきているところである。

 しかし、そうされるには理由があった。
 あの日、水無瀬菊江の霊体が撃破されてから、弟の水無瀬文哉の様子が変わったのである。菊江の霊気が消えたことを察知した文哉は、突然肩の荷が降りたかのような表情になり、ぺらぺらと情報を吐き出し始めた。

 しかし実際のところ、菊江の霊体は消えただけで、本体はまだどこかで生きている可能性が高いということは、文哉には伝えていない。まだはっきりと確証があるわけでもないからだ。

 文哉は幼い頃から、姉には逆らえない事情があるというのだ。自身を抑圧する姉の存在が消えたことで、彼は今までの呪縛から開放されたような気分だと語った。

 明桜学園での事件の時、文哉は姉の幻術を陽動に、学園内に潜り込んだ。そして術式の準備のために学校中に気を巡らせつつ、姉の指示を仰いでいた。そこで、珠生・湊・亜樹についての生活状況、友人関係などの情報を仕入れていたというのだ。

 そして、彰が学校に張っていた結界を裏返したのには、隠された理由もあったという。

 菊江は、学内に取り残された者たちを一番に助けにやってくるのは、珠生と舜平であろうと踏んでいた。そして、珠生が力ずくで結界を破るであろうということも。

 結界を破る際に流し込まれる珠生の妖気、霊気、そして神気のサンプルを、そこで得るのが目的の一つだったらしいのだ。

 それをどう利用するのかということは、文哉も知らされてはいない。しかし、なにかしら珠生をピンポイントで狙ってくるような事態も想定される情報に、藤原は危機感を強めた。

 舜平の気を奪われ、精神的にも不安定になっている珠生に対して、菊江がどのような行動に出てくるのか……と。
 なんだかんだといって、宮内庁としても珠生の力に頼っている部分は大きい。ここで珠生にまで侵略が及ぶのは避けたい事態なのだ。


 そして更に事態を複雑にしているのが、珠生の中に潜む妖力の急激な高まりだった。

 雷燕事件において、千珠は精神的にも肉体的にもかなりの揺さぶりを受けていた。

 夜顔は、千珠自ら救い上げた子どもだ。その父親であり、国を騒がせた大妖怪・雷燕を封印したあの事件にも、千珠自身多くの影響を受けたものだった。

 千珠にとって雷燕・夜顔とのつながりは、切っても切れないほどに濃いものだ。

 あの事件の発端に強く関わっている祓い人という存在が現世にも現れたことで、落ち着きを見せていた珠生の気は、再び強く動揺を見せている。

 あまりに妖気が高まりすぎると、千珠の人格が現れる可能性がある上に、人間である珠生の肉体を傷つける。それを抑えるためにも、時折霊気を補わねばならないのだが、それができていたのは舜平ただ一人であった。

 だが、その舜平が今はいない。
 念のために、人一倍霊力量の豊富な墨田敦を珠生の護衛に当てているという訳なのだ。

 同時に藤原は、霊気を高めるための修行を珠生に課した。それはつまり、相田将太とともに比叡山の僧侶に指導を受けること。人間としての精神力を高め、ふらつきやすいその心に軸をもたせるための修行だ。かつて千珠が柊の祖父・志峰と修行を行ったときのように。


 ——いい機会だ。しばらく水無瀬菊江も攻めてははこれないだろうから、今のうちにやっておこう。


 藤原はそう言って優しく微笑み、珠生の肩に手を置いた。


 珠生はこくりと頷いて、それを了承した。
 

 +


「……別に何もないです」
「今夜は比叡山やろ? 俺が迎えに来ちゃるけぇ、夕飯しっかり食っとけよ」
「……はいはい」
 珠生の気のない返事に、敦はため息をつく。
「元気ないのぉ! ほれ、今日は金曜日じゃ、明日から楽しい土日じゃろ!?」

 いつも元気いっぱいの敦を、珠生はうつろな目でちらりと見あげた。そして、ちょっとだけ笑ったように表情を歪める。

「……そうですね。毎日大変ですね、敦さんも」
「なんでや。俺にとっては嫌な仕事でもないけどな」
「ならいいんですけど。俺の見張りなんて、面倒でしょ。もういいのに」
「いいや。もし学校で千珠さまが現れてみぃ、お前の友人関係終わってしまう。それを阻止するのも大切なことじゃしな」
「あぁ……ほんとだ。それが一番怖いかもなぁ」
「そうじゃろ? ええからほれ、も少し明るい顔して学校行ってこんかい! それじゃモテんよ!」
「俺、これ以上モテなくていいし」

 珠生は少し笑い、手を軽く上げて階段を降りていく。後ろ姿にも生気のない珠生が、地下鉄の駅へと降りていくのを見送りながら、敦は腕組みをして首を振った。


 ——舜平のやつ……あんなこと言わんかったらよかったんじゃ。阿呆な男め。


「あんな顔させて……見てるこっちがつらくなるわ」


 敦はぽつりと呟いて、そばに停めていた黒いセダンの方へと歩き出した。
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