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第5幕 ——夜顔の記憶、祓い人の足跡——
37、珠生の母親
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珠生よりも早く帰宅した健介は、舜平を招き入れてからもそわそわしていた。
ごそごそソファ周りを片づけたり、積んであった洗濯物を畳んでみたり、しかしすぐに違うものが目につくのか、立ち上がってキッチンまわりを片付けてみたり……とせわしない。それに普段から珠生がきれいにしている様子であり、大してどこを片付ける必要も無さそうに見える。
「先生、落ち着いてくださいよ。とりあえずコーヒーでも淹れてみはったらどうです?」
「あ、ああ、そうだね。何か出せないといけないしね」
とりあえずやることが見つかったからか、健介はコーヒーメーカーに豆や水をセットし始める。舜平はため息をつき、ここへついてきたことを後悔し始めていた。
がちゃ、と玄関のドアが開く音がした。珠生が帰ってきたらしい。
「父さん、今日は早いんだね……ってあれ、舜平さん?」
「おう、珠生くん。久しぶりやな」
珠生が目を丸くして、ダイニングに座っている舜平を見た。
久しぶりに見る珠生の顔を見るや、舜平の心臓が軽やかに跳ねた。
一瞬何か物言いだけにした珠生だが、ふと健介の存在に目をやったあと、小さく咳払いをして口を開いた。
「あ……えと、久しぶりですね」
「せやな」
「なんかちょっと痩せたんじゃないですか?」
「そうかぁ?」
そんな淡々としたやり取りでさえ、嬉しいと思う自分が恥ずかしい。珠生はキッチンでそわそわとしている父親を見て、首を傾げている。
「なにやってんの? 夕飯、作れないじゃん」
「珠生……あのな、父さん、お前に言わなきゃいけないことが……」
「なに?」
「今日、あの……あのさ……あの」
「何だよ、気持ち悪いな」
気持ち悪いと言われて傷ついている健介を見かねて、舜平は口を挟んだ。これ以上もじもじしている時間も無さそうだったからだ。
「今日、珠生くんのお母さんがこっちに来はんねんて」
「えっ? そうなの?」
珠生がびっくりしている。健介は眉を下げて困った顔をしながら、昼間舜平たちに話した内容を珠生にも伝えた。
黙って話を聞いていた珠生が、これまた健介と同じような顔をして困った顔をしている。
「だからってわざわざ来なくてもいいのに……」
「きっとお前がどういう生活をしているか見たいだけだとも思うんだけど……」
「ふうん。俺、何の問題もなく元気なのに」
「あと……一年間お前をほっぽってアメリカに行ってたことが、最近母さんの耳に入ったらしくってさ……それでまた……」
「千秋が口滑らしたんだろ」
「そうらしい」
「もう、面倒だな」
珠生がむくれながら健介とキッチンで話をしているのを眺めていたが、そろそろ帰ったほうがいいのではないかと思い、舜平は腰を浮かしかけていた。その時、インターホンが高らかに鳴り響いた。
健介が目に見えて明らかに動揺している。驚愕の表情を浮かべ、持っていたティスプーンを取り落とした。
「き、きた……」
まるでホラー映画さながらである。
「おばけじゃないんだから。そんなにびくびくしなくてもいいじゃん」
珠生が玄関へ行き、ガチャリと鍵を開ける音が響く。そしてすぐに、低めの女の声が玄関先から聞こえてきた。
「珠生ぃ!! 久しぶり!」
健介は、穴があったら入りたいといった様相で、キッチンの中を大きな身体でうろついている。舜平は首を振って、「もう諦めはったらどうです」と言ってやった。
しかし健介が決意を固める前に、珠生の母親、沖野すみれが姿を現した。
すっきりとしたグレーのスーツ姿の、きつそうな美人だ。きりっとした目元や口元、姿勢の良さからは、社会の中でばりばりと仕事をこなしてきたであろう引き締まったオーラが感じられる。やや彫りの深いエキゾチックな顔立ちで、きっちりと施したメイクにも隙がない。パーマをかけた茶色い髪を後ろで一つに束ね、形のいい額をすっきりと出している。
舜平がいることに少し驚いた様子のすみれであったが、すぐに微笑みを浮かべて軽く会釈した。
「あら、お客様?」
「あ、どうも……。俺、各務先生のゼミ生で、相田といいます」
舜平がすぐに立ち上がって挨拶をすると、すみれは舜平を見上げてまた微笑んだ。
「それはそれは、元主人が大変お世話になっているでしょう?」
「いいえ……」
「珠生の母です。沖野すみれと申します。千秋がいつぞやはお世話になったとかで……ご挨拶が遅れてごめんなさいね」
赤めのルージュを引いた唇でにこやかに笑うすみれは、どちらかというと千秋によく似ていた。
「千秋に聞きました。あなたには珠生も大変お世話になっているとか」
「あ、いいえ……とんでもないです。珠生くんも千秋ちゃんも、賢くてええ子ですね」
「あら、そう言っていただけると嬉しいですわ」
愛想よくすみれとしゃべっている舜平を見て、そして珠生は父親の方を見遣った。健介は固い顔でコーヒーをカップに注いでいるところである。
「……さて、あなた。今日はちゃんと帰ってきてたようね」
すみれはスーツの上着を脱いでダイニングの椅子に引っ掛けながら、キッチンに立つ健介を見た。健介がぎょっとして肩を揺らす。
「あ、ああ。そうだね」
「ふうん……素敵なマンションじゃない」
すみれはうろうろとリビングを眺め回したり、襖の開け放してある和室を覗きこんだりしている。居心地の悪くなってきた舜平は、今度こそ帰ろうと、床においていた荷物に手を伸ばした。
「母さん、父さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「あら、ありがとう。相田さんも飲んでいってくださいな」
振り返ったすみれにそう言われ、舜平はぴくりと手を止めた。珠生を見遣ると、物言いたげな目線でじっと舜平を見ているので、荷物から手を離す。
「あ、はぁ。じゃあ……」
かくして、珠生の両親とともにコーヒーを飲むことになった舜平は、どういう顔をしていたらいいのかも分からず、苦笑いを浮かべながらカップに口をつけた。舜平の隣に座っている制服姿の珠生も、言葉少なにコーヒーを口にしている。
「珠生はもう大学も決まっているのね?」
と、すみれが尋ねると、珠生は無言で頷いた。
「ってことは、もう四年間は京都で過ごすってことか……」
「そうなるね」
「東京の大学、受けようとか思わなかったの? 母さん、てっきり高校卒業したら帰ってくると思ってたのに」
「大学受験のないエスカレーター校選んだんだから、当然大学までこっちだろ」
いつになく、珠生の口調は冷たい。久しぶりの母親を前に照れているのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
「高校のことも、あんた勝手に決めちゃって。びっくりしたんだから」
「父さんには相談してたよ」
「私にも一言言ってくれても良かったでしょ」
「もう三年も前の話じゃないか。今更何言ってんだよ」
と、やや苛立った口調で珠生はそう言って母親を見た。
真っ向から自分を見つめてくる珠生の姿が珍しく、すみれは長い睫毛を瞬かせて目を見張った。こうして見ると、千秋の影に隠れるように生きていた珠生が、しっかりと自分の意志を持つようになっていることに気付かされる。
それは嬉しいことであったが、同時に、それを近くで見守ることができなかったことが、少しばかり寂しい。
「そりゃ、そうね」
すみれはあっさりと引いた。
「相田さん、この人、大学ではちゃんとやってるのかしら?」
「えっ? ええ、もちろんです」
突然すみれのベクトルが自分に向いたことに驚きつつも、舜平は努めて笑顔でそう言った。健介は汗をかきながらコーヒーをちびりちびりとすすっている。
「きっと遅くまで研究室に引きこもって、皆さんに迷惑かけてるんじゃないかしら」
あながち間違いではないため、舜平は苦笑した。きっと昔からそうだったのだろう。
「いえ……まぁ。俺はあと二年、大学院で先生の元で研究を続けるつもりです。先生には色々と感謝してますし、これからもついて行こうと思っています」
「まぁ」
舜平の言葉に、健介が初めて顔を上げた。すみれは意外そうな顔で健介を見上げ、微笑んだ。
「それなりに頑張ってるみたいじゃないの」
「……まぁ、彼は良い学生だから……」
もごもごとそんな事をいい、健介は舜平に微笑んでみせた。
珠生は尚も不機嫌な顔のままだ。舜平はちらりと、珠生を見た。
「珠生も元気そうだし、ちょっと安心したわ」
すみれは珠生を見つめて、微笑む。笑うと、目尻の皺がすみれの表情を優しく見せるようだった。
「でも珠生、たまにはうちにも帰ってきなさいよ。あなた全然帰ってこないから、寂しいわ」
「……正月は帰ってるだろ?」
「育ち盛りの息子の顔を、もっと見たいのよ」
「じゃあ、母さんがこっち来ればいいじゃないか」
「そりゃ、そうしたいけど……今は仕事が忙しいから」
「仕事が忙しいのはずっとだろ。いつもそればっかりだ」
ぴしりとした口調で言い捨てる珠生に驚き、舜平は思わずその横顔を見た。
「……俺だってこっちで色々忙しいんだから、仕方ないじゃん」
すみれの強張った顔や舜平の動きに、珠生ははっとしてすぐにそう付け加えた。健介も、驚いた顔をしている。
しんとした沈黙にいたたまれなくなった舜平は、こらえきれずに立ち上がった。
「あの……俺、そろそろ帰りますね。せっかくの親子水入らずなのに、部外者はおらへんほうがいいでしょ」
「え、待ってよ」
珠生がすがるような目で舜平を見上げる。
「珠生くんも、久々にお母さんに会うんやろ? ゆっくり喋りたいこともあるんちゃう」
「……俺も行く」
「え?」
「今日は舜平さんちに泊めてよ」
「えっ?」
「おい、珠生……」
今度は健介がすがるような目で珠生を見ている。すみれと二人にされることを、何よりも恐れているような表情である。
「二人の空気、俺正直しんどいよ。千秋がいればましだろうけど、ここにはいないし」
珠生も椅子を引いて立ち上がった。
「二人でゆっくり喧嘩でも話し合いでもしたらいいじゃん。俺はそういうの、聞きたくない」
珠生の冷えた目付きに、すみれと健介は表情を強ばらせた。珠生のそんな顔は初めてで、舜平もその場から動けず、凄みのある美しい顔をただ見つめていた。
「……ちょっと待ってて」
珠生は舜平にぼそりとそう言うと、自室に入って行った。舜平は珠生の両親を見る。
「あの……どうしましょう」
「悪いけど……そうしてやってくれるかな? 小さい頃、さんざん夫婦喧嘩聞かせたから、嫌なんだと思うんだ」
健介がそう言うのを、すみれが見上げている。
「前もって母さんが来ること伝えていなかったから、心の準備も出来てなかったと思うし。それは僕が悪かった。君のご家族にご迷惑でなければ……」
「ああ、うちは全然。むしろ歓迎されると思いますよ」
健介は安心したように笑って、ぺこりと頭を下げる。
「ごめん、君にはいつもいつも、こんなことばかりさせて」
「いいえ。珠生くんはええ子やから、全然大丈夫ですって」
そんな話をしていると、珠生は制服姿のまま部屋から出てきた。
「明日はそのまま学校へ行くから」
「ああ。分かった。ご迷惑にならないようにな」
「……わかってる」
珠生はさっさと玄関の方へ歩いて行ってしまうので、舜平は慌ててその後を追った。健介とすみれもついてくる。
すみれは申し訳なさそうに珠生を見つめていたが、何も言わなかった。ただ、舜平にぺこりと頭を下げる。珠生の態度に驚き、戸惑っている様子がありありと伝わってきた。
舜平はそんな二人に会釈すると、先に階段を降りていってしまった珠生を追った。その白い背中が、一瞬小さな子どもの背中に見えた。
ごそごそソファ周りを片づけたり、積んであった洗濯物を畳んでみたり、しかしすぐに違うものが目につくのか、立ち上がってキッチンまわりを片付けてみたり……とせわしない。それに普段から珠生がきれいにしている様子であり、大してどこを片付ける必要も無さそうに見える。
「先生、落ち着いてくださいよ。とりあえずコーヒーでも淹れてみはったらどうです?」
「あ、ああ、そうだね。何か出せないといけないしね」
とりあえずやることが見つかったからか、健介はコーヒーメーカーに豆や水をセットし始める。舜平はため息をつき、ここへついてきたことを後悔し始めていた。
がちゃ、と玄関のドアが開く音がした。珠生が帰ってきたらしい。
「父さん、今日は早いんだね……ってあれ、舜平さん?」
「おう、珠生くん。久しぶりやな」
珠生が目を丸くして、ダイニングに座っている舜平を見た。
久しぶりに見る珠生の顔を見るや、舜平の心臓が軽やかに跳ねた。
一瞬何か物言いだけにした珠生だが、ふと健介の存在に目をやったあと、小さく咳払いをして口を開いた。
「あ……えと、久しぶりですね」
「せやな」
「なんかちょっと痩せたんじゃないですか?」
「そうかぁ?」
そんな淡々としたやり取りでさえ、嬉しいと思う自分が恥ずかしい。珠生はキッチンでそわそわとしている父親を見て、首を傾げている。
「なにやってんの? 夕飯、作れないじゃん」
「珠生……あのな、父さん、お前に言わなきゃいけないことが……」
「なに?」
「今日、あの……あのさ……あの」
「何だよ、気持ち悪いな」
気持ち悪いと言われて傷ついている健介を見かねて、舜平は口を挟んだ。これ以上もじもじしている時間も無さそうだったからだ。
「今日、珠生くんのお母さんがこっちに来はんねんて」
「えっ? そうなの?」
珠生がびっくりしている。健介は眉を下げて困った顔をしながら、昼間舜平たちに話した内容を珠生にも伝えた。
黙って話を聞いていた珠生が、これまた健介と同じような顔をして困った顔をしている。
「だからってわざわざ来なくてもいいのに……」
「きっとお前がどういう生活をしているか見たいだけだとも思うんだけど……」
「ふうん。俺、何の問題もなく元気なのに」
「あと……一年間お前をほっぽってアメリカに行ってたことが、最近母さんの耳に入ったらしくってさ……それでまた……」
「千秋が口滑らしたんだろ」
「そうらしい」
「もう、面倒だな」
珠生がむくれながら健介とキッチンで話をしているのを眺めていたが、そろそろ帰ったほうがいいのではないかと思い、舜平は腰を浮かしかけていた。その時、インターホンが高らかに鳴り響いた。
健介が目に見えて明らかに動揺している。驚愕の表情を浮かべ、持っていたティスプーンを取り落とした。
「き、きた……」
まるでホラー映画さながらである。
「おばけじゃないんだから。そんなにびくびくしなくてもいいじゃん」
珠生が玄関へ行き、ガチャリと鍵を開ける音が響く。そしてすぐに、低めの女の声が玄関先から聞こえてきた。
「珠生ぃ!! 久しぶり!」
健介は、穴があったら入りたいといった様相で、キッチンの中を大きな身体でうろついている。舜平は首を振って、「もう諦めはったらどうです」と言ってやった。
しかし健介が決意を固める前に、珠生の母親、沖野すみれが姿を現した。
すっきりとしたグレーのスーツ姿の、きつそうな美人だ。きりっとした目元や口元、姿勢の良さからは、社会の中でばりばりと仕事をこなしてきたであろう引き締まったオーラが感じられる。やや彫りの深いエキゾチックな顔立ちで、きっちりと施したメイクにも隙がない。パーマをかけた茶色い髪を後ろで一つに束ね、形のいい額をすっきりと出している。
舜平がいることに少し驚いた様子のすみれであったが、すぐに微笑みを浮かべて軽く会釈した。
「あら、お客様?」
「あ、どうも……。俺、各務先生のゼミ生で、相田といいます」
舜平がすぐに立ち上がって挨拶をすると、すみれは舜平を見上げてまた微笑んだ。
「それはそれは、元主人が大変お世話になっているでしょう?」
「いいえ……」
「珠生の母です。沖野すみれと申します。千秋がいつぞやはお世話になったとかで……ご挨拶が遅れてごめんなさいね」
赤めのルージュを引いた唇でにこやかに笑うすみれは、どちらかというと千秋によく似ていた。
「千秋に聞きました。あなたには珠生も大変お世話になっているとか」
「あ、いいえ……とんでもないです。珠生くんも千秋ちゃんも、賢くてええ子ですね」
「あら、そう言っていただけると嬉しいですわ」
愛想よくすみれとしゃべっている舜平を見て、そして珠生は父親の方を見遣った。健介は固い顔でコーヒーをカップに注いでいるところである。
「……さて、あなた。今日はちゃんと帰ってきてたようね」
すみれはスーツの上着を脱いでダイニングの椅子に引っ掛けながら、キッチンに立つ健介を見た。健介がぎょっとして肩を揺らす。
「あ、ああ。そうだね」
「ふうん……素敵なマンションじゃない」
すみれはうろうろとリビングを眺め回したり、襖の開け放してある和室を覗きこんだりしている。居心地の悪くなってきた舜平は、今度こそ帰ろうと、床においていた荷物に手を伸ばした。
「母さん、父さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「あら、ありがとう。相田さんも飲んでいってくださいな」
振り返ったすみれにそう言われ、舜平はぴくりと手を止めた。珠生を見遣ると、物言いたげな目線でじっと舜平を見ているので、荷物から手を離す。
「あ、はぁ。じゃあ……」
かくして、珠生の両親とともにコーヒーを飲むことになった舜平は、どういう顔をしていたらいいのかも分からず、苦笑いを浮かべながらカップに口をつけた。舜平の隣に座っている制服姿の珠生も、言葉少なにコーヒーを口にしている。
「珠生はもう大学も決まっているのね?」
と、すみれが尋ねると、珠生は無言で頷いた。
「ってことは、もう四年間は京都で過ごすってことか……」
「そうなるね」
「東京の大学、受けようとか思わなかったの? 母さん、てっきり高校卒業したら帰ってくると思ってたのに」
「大学受験のないエスカレーター校選んだんだから、当然大学までこっちだろ」
いつになく、珠生の口調は冷たい。久しぶりの母親を前に照れているのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
「高校のことも、あんた勝手に決めちゃって。びっくりしたんだから」
「父さんには相談してたよ」
「私にも一言言ってくれても良かったでしょ」
「もう三年も前の話じゃないか。今更何言ってんだよ」
と、やや苛立った口調で珠生はそう言って母親を見た。
真っ向から自分を見つめてくる珠生の姿が珍しく、すみれは長い睫毛を瞬かせて目を見張った。こうして見ると、千秋の影に隠れるように生きていた珠生が、しっかりと自分の意志を持つようになっていることに気付かされる。
それは嬉しいことであったが、同時に、それを近くで見守ることができなかったことが、少しばかり寂しい。
「そりゃ、そうね」
すみれはあっさりと引いた。
「相田さん、この人、大学ではちゃんとやってるのかしら?」
「えっ? ええ、もちろんです」
突然すみれのベクトルが自分に向いたことに驚きつつも、舜平は努めて笑顔でそう言った。健介は汗をかきながらコーヒーをちびりちびりとすすっている。
「きっと遅くまで研究室に引きこもって、皆さんに迷惑かけてるんじゃないかしら」
あながち間違いではないため、舜平は苦笑した。きっと昔からそうだったのだろう。
「いえ……まぁ。俺はあと二年、大学院で先生の元で研究を続けるつもりです。先生には色々と感謝してますし、これからもついて行こうと思っています」
「まぁ」
舜平の言葉に、健介が初めて顔を上げた。すみれは意外そうな顔で健介を見上げ、微笑んだ。
「それなりに頑張ってるみたいじゃないの」
「……まぁ、彼は良い学生だから……」
もごもごとそんな事をいい、健介は舜平に微笑んでみせた。
珠生は尚も不機嫌な顔のままだ。舜平はちらりと、珠生を見た。
「珠生も元気そうだし、ちょっと安心したわ」
すみれは珠生を見つめて、微笑む。笑うと、目尻の皺がすみれの表情を優しく見せるようだった。
「でも珠生、たまにはうちにも帰ってきなさいよ。あなた全然帰ってこないから、寂しいわ」
「……正月は帰ってるだろ?」
「育ち盛りの息子の顔を、もっと見たいのよ」
「じゃあ、母さんがこっち来ればいいじゃないか」
「そりゃ、そうしたいけど……今は仕事が忙しいから」
「仕事が忙しいのはずっとだろ。いつもそればっかりだ」
ぴしりとした口調で言い捨てる珠生に驚き、舜平は思わずその横顔を見た。
「……俺だってこっちで色々忙しいんだから、仕方ないじゃん」
すみれの強張った顔や舜平の動きに、珠生ははっとしてすぐにそう付け加えた。健介も、驚いた顔をしている。
しんとした沈黙にいたたまれなくなった舜平は、こらえきれずに立ち上がった。
「あの……俺、そろそろ帰りますね。せっかくの親子水入らずなのに、部外者はおらへんほうがいいでしょ」
「え、待ってよ」
珠生がすがるような目で舜平を見上げる。
「珠生くんも、久々にお母さんに会うんやろ? ゆっくり喋りたいこともあるんちゃう」
「……俺も行く」
「え?」
「今日は舜平さんちに泊めてよ」
「えっ?」
「おい、珠生……」
今度は健介がすがるような目で珠生を見ている。すみれと二人にされることを、何よりも恐れているような表情である。
「二人の空気、俺正直しんどいよ。千秋がいればましだろうけど、ここにはいないし」
珠生も椅子を引いて立ち上がった。
「二人でゆっくり喧嘩でも話し合いでもしたらいいじゃん。俺はそういうの、聞きたくない」
珠生の冷えた目付きに、すみれと健介は表情を強ばらせた。珠生のそんな顔は初めてで、舜平もその場から動けず、凄みのある美しい顔をただ見つめていた。
「……ちょっと待ってて」
珠生は舜平にぼそりとそう言うと、自室に入って行った。舜平は珠生の両親を見る。
「あの……どうしましょう」
「悪いけど……そうしてやってくれるかな? 小さい頃、さんざん夫婦喧嘩聞かせたから、嫌なんだと思うんだ」
健介がそう言うのを、すみれが見上げている。
「前もって母さんが来ること伝えていなかったから、心の準備も出来てなかったと思うし。それは僕が悪かった。君のご家族にご迷惑でなければ……」
「ああ、うちは全然。むしろ歓迎されると思いますよ」
健介は安心したように笑って、ぺこりと頭を下げる。
「ごめん、君にはいつもいつも、こんなことばかりさせて」
「いいえ。珠生くんはええ子やから、全然大丈夫ですって」
そんな話をしていると、珠生は制服姿のまま部屋から出てきた。
「明日はそのまま学校へ行くから」
「ああ。分かった。ご迷惑にならないようにな」
「……わかってる」
珠生はさっさと玄関の方へ歩いて行ってしまうので、舜平は慌ててその後を追った。健介とすみれもついてくる。
すみれは申し訳なさそうに珠生を見つめていたが、何も言わなかった。ただ、舜平にぺこりと頭を下げる。珠生の態度に驚き、戸惑っている様子がありありと伝わってきた。
舜平はそんな二人に会釈すると、先に階段を降りていってしまった珠生を追った。その白い背中が、一瞬小さな子どもの背中に見えた。
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