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第5幕 ——夜顔の記憶、祓い人の足跡——
28、深春の苦しみ
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その日、深春は外へ出る気にもならず、柚子と二人で夕食を取った後はソファでごろごろと過ごしていた。
テレビを付けたままファッション誌をめくる深春を咎めるでもなく、柚子はそばでアイロンがけをしている。めいめいに集中した時間で、心地よい時間が流れていた。
バラエティ番組が終わり、短いニュースが流れた。液晶画面の中で、花火大会の模様が中継されている。花火の音をきき、ふと雑誌から顔を上げた深春は、大きく伸びをして起き上がる。
「亜樹ちゃん、これ行ってんだよな」
「うん、そうやね。宇治川花火。深春ちゃんの学校の近くやろ?」
「らしいね。あんまり興味ないけどさ」
「そう」
柚子はちょっと微笑んで、深春の制服のシャツを畳んだ。ふんわりと畳まれた洗濯物を見ていると、唐突に、幼い頃の記憶が蘇った。
頑張って家事をしようとしていた頃の父親の姿。
母親が出ていってからしばらくは、父は自分一人でも深春を育てようと頑張っていた。
しかし、それはなかなかうまくはいかず、生活の苦しさと孤独感に苛まれていた父親は、しばしば酒を飲んで深春に暴力を振るい、後から泣いて謝るということを繰り返すようになっていた。
意志の弱い男だ。
それでも、優しかった時もあった。
父の顔……。
自分を捨てた、父親の顔……。
「深春ちゃん、これ上に持って上がって……どうしたん?」
深春が強張った顔で洗濯物を睨みつけているのを見て、柚子は不審げな顔をした。
柚子は最近の深春の不調を感じ取ってはいたものの、深春が必死にそれを隠そうとしている様子を感じ取っていたため、声をかけられずにいたのだ。
「……深春ちゃん?」
「あ、ああ……。分かった」
「……あんた、最近夢の話せぇへんな」
「……別に、何も見てねぇから」
「そう? ……でも、最近気が乱れてる。なにか不安なことがあるんとちがうん?」
「別に、ねぇよ……」
どきりとした。柚子のいつになく真剣な目つきに、深春はたじろぐ。
「俺、もう寝る。京都は暑くて寝苦しーんだよな」
「……そう、わかった。クーラーかけ過ぎたらあかんで」
「分かってるって」
「おやすみ」
柚子の心配そうな顔を見ていることができず、深春は黙って二階へと上がっていった。バタン、と自室のドアを閉じると、はぁと大きくため息をつく。
もやもやして、苦しい。正体の分からないどす黒い感情に、心が揺れる。
「藤之助……」
深春は小さく呟いて、身体を丸めて座り込んだ。
「藤之助……会いたい……藤之助……藤之助……っ」
そのまま胎児にまで戻って、前世に戻りたいと思った。藤之助に会いたい。藤之助に名前を呼ばれたい、頭を撫でてもらいたい。
——何でこんなに不安になる。こんなにも平和な世界に、俺は生きてるのに。
——何でこんなに、孤独なんだ。
深春はドアの前にうずくまって丸くなったまま、静かに静かに涙を流した。
+ +
京都駅で湊達と別れ、珠生は亜樹を宮尾邸まで送ることにした。
時刻はすでに二十二時が近く、柚子は怒りはしないだろうが、女子高生を一人で歩かせられる時間でもない。
「家まで送るよ」
「え? ええよ、駅から近いもん」
「だってもう暗いし」
「あ、うん……」
なんだかんだと言って、家まで送ってくれることは嬉しい。しかし珠生がこんなにも自分に優しいという現実が、亜樹にとっては信じがたいことだった。
「ついでに深春と会って帰ろうかな、最近会ってないし」
「ああ、うん、そうしたって」
少なからず落胆しながら、亜樹はそう言った。
涼しい地下鉄の中、ドアのそばに立っていると、近くに立っている女子中学生と思しき集団が、きらきらとした目で珠生を見上げては、ひそひそとなにか言い合っている。そんな視線に気づくでもなく、涼しい顔で車内広告を見上げている珠生を見て、亜樹は内心ため息をついた。
「……深春、最近元気ないねんな」
「え?」
「最近、えらいうちらに遠慮してる気がすんねん。無理にいい子にしてるっていうか……」
「あの深春が?」
「深春は、うちらを大切にしようとしてる。うちらに心配させまいって、気を遣い始めてんねんな。でもそれが逆に、変な距離になってしもてて……」
「そうなんだ」
「……ほんまの家族やったら、こんなことないんかもしれんけどさ。なんて言ってあげていいか、うちにはようわからへん」
亜樹はもどかしげな表情で、暗い窓の外を見つめている。
亜樹がこんなにも深春のことを心配してくれていることは珠生にとって嬉しくもあったが、確かに深春の状態は心配だ。自分たちがそうだったように、きっと過去の記憶にとらわれているのだろう。
しかも深春は、実父からの暴力を受けているという、今世での過酷な記憶もある。彼にとって、この平和の中で暮らすことが、ただの安寧にはなりえないのかもしれない。
深春は常に、記憶と戦っているのだろう。
「天道さんって、意外と優しいんだな」
「……意外とは余計やろ」
「深春を、本当の弟みたいに思ってるんだね」
「そらな。なんとなく、他人とは思えへんから」
「そっか」
珠生が微笑むと、女子中学生たちが色めき立つ。珠生は素知らぬ顔で、ただ亜樹を見つめていた。
「……あんたとおると、うちまで見られて嫌やな」
ぼそぼそとそんな事を言う亜樹に、珠生は苦笑した。
「何で?」
「……まぁええけど。学校で慣れたし」
「?」
尚も何のことか分かっていない珠生の鈍さに呆れつつ、亜樹はぷいと目を逸らす。その時、いいタイミングで地下鉄が丸太町駅に到着した。
地上に出てすぐ、亜樹は携帯電話が震えていることに気がついた。柚子からの着信だ。
「柚さんや」
「あっ……遅くなりすぎたかな」
「ちょう待って。……もしもし。今ね、駅に……え?」
亜樹の表情が、じわじわと険しいものになってゆく。それを見ていた珠生の胸にも、嫌な予感が広がった。
「沖野もおるから……、すぐ帰る、ちょっと待ってて」
亜樹はそう言って珠生に向き直ると、こわばった表情でこう言った。
「深春が……いいひんくなってんて。全く連絡がつかへんって、柚さんが心配してる」
「……とりあえず、柚さんちに行こう。いなくなる前の様子を聞きたい」
「うん……」
二人はうなずき合い、すぐさま宮尾邸に向かって小走りに駆け出した。
テレビを付けたままファッション誌をめくる深春を咎めるでもなく、柚子はそばでアイロンがけをしている。めいめいに集中した時間で、心地よい時間が流れていた。
バラエティ番組が終わり、短いニュースが流れた。液晶画面の中で、花火大会の模様が中継されている。花火の音をきき、ふと雑誌から顔を上げた深春は、大きく伸びをして起き上がる。
「亜樹ちゃん、これ行ってんだよな」
「うん、そうやね。宇治川花火。深春ちゃんの学校の近くやろ?」
「らしいね。あんまり興味ないけどさ」
「そう」
柚子はちょっと微笑んで、深春の制服のシャツを畳んだ。ふんわりと畳まれた洗濯物を見ていると、唐突に、幼い頃の記憶が蘇った。
頑張って家事をしようとしていた頃の父親の姿。
母親が出ていってからしばらくは、父は自分一人でも深春を育てようと頑張っていた。
しかし、それはなかなかうまくはいかず、生活の苦しさと孤独感に苛まれていた父親は、しばしば酒を飲んで深春に暴力を振るい、後から泣いて謝るということを繰り返すようになっていた。
意志の弱い男だ。
それでも、優しかった時もあった。
父の顔……。
自分を捨てた、父親の顔……。
「深春ちゃん、これ上に持って上がって……どうしたん?」
深春が強張った顔で洗濯物を睨みつけているのを見て、柚子は不審げな顔をした。
柚子は最近の深春の不調を感じ取ってはいたものの、深春が必死にそれを隠そうとしている様子を感じ取っていたため、声をかけられずにいたのだ。
「……深春ちゃん?」
「あ、ああ……。分かった」
「……あんた、最近夢の話せぇへんな」
「……別に、何も見てねぇから」
「そう? ……でも、最近気が乱れてる。なにか不安なことがあるんとちがうん?」
「別に、ねぇよ……」
どきりとした。柚子のいつになく真剣な目つきに、深春はたじろぐ。
「俺、もう寝る。京都は暑くて寝苦しーんだよな」
「……そう、わかった。クーラーかけ過ぎたらあかんで」
「分かってるって」
「おやすみ」
柚子の心配そうな顔を見ていることができず、深春は黙って二階へと上がっていった。バタン、と自室のドアを閉じると、はぁと大きくため息をつく。
もやもやして、苦しい。正体の分からないどす黒い感情に、心が揺れる。
「藤之助……」
深春は小さく呟いて、身体を丸めて座り込んだ。
「藤之助……会いたい……藤之助……藤之助……っ」
そのまま胎児にまで戻って、前世に戻りたいと思った。藤之助に会いたい。藤之助に名前を呼ばれたい、頭を撫でてもらいたい。
——何でこんなに不安になる。こんなにも平和な世界に、俺は生きてるのに。
——何でこんなに、孤独なんだ。
深春はドアの前にうずくまって丸くなったまま、静かに静かに涙を流した。
+ +
京都駅で湊達と別れ、珠生は亜樹を宮尾邸まで送ることにした。
時刻はすでに二十二時が近く、柚子は怒りはしないだろうが、女子高生を一人で歩かせられる時間でもない。
「家まで送るよ」
「え? ええよ、駅から近いもん」
「だってもう暗いし」
「あ、うん……」
なんだかんだと言って、家まで送ってくれることは嬉しい。しかし珠生がこんなにも自分に優しいという現実が、亜樹にとっては信じがたいことだった。
「ついでに深春と会って帰ろうかな、最近会ってないし」
「ああ、うん、そうしたって」
少なからず落胆しながら、亜樹はそう言った。
涼しい地下鉄の中、ドアのそばに立っていると、近くに立っている女子中学生と思しき集団が、きらきらとした目で珠生を見上げては、ひそひそとなにか言い合っている。そんな視線に気づくでもなく、涼しい顔で車内広告を見上げている珠生を見て、亜樹は内心ため息をついた。
「……深春、最近元気ないねんな」
「え?」
「最近、えらいうちらに遠慮してる気がすんねん。無理にいい子にしてるっていうか……」
「あの深春が?」
「深春は、うちらを大切にしようとしてる。うちらに心配させまいって、気を遣い始めてんねんな。でもそれが逆に、変な距離になってしもてて……」
「そうなんだ」
「……ほんまの家族やったら、こんなことないんかもしれんけどさ。なんて言ってあげていいか、うちにはようわからへん」
亜樹はもどかしげな表情で、暗い窓の外を見つめている。
亜樹がこんなにも深春のことを心配してくれていることは珠生にとって嬉しくもあったが、確かに深春の状態は心配だ。自分たちがそうだったように、きっと過去の記憶にとらわれているのだろう。
しかも深春は、実父からの暴力を受けているという、今世での過酷な記憶もある。彼にとって、この平和の中で暮らすことが、ただの安寧にはなりえないのかもしれない。
深春は常に、記憶と戦っているのだろう。
「天道さんって、意外と優しいんだな」
「……意外とは余計やろ」
「深春を、本当の弟みたいに思ってるんだね」
「そらな。なんとなく、他人とは思えへんから」
「そっか」
珠生が微笑むと、女子中学生たちが色めき立つ。珠生は素知らぬ顔で、ただ亜樹を見つめていた。
「……あんたとおると、うちまで見られて嫌やな」
ぼそぼそとそんな事を言う亜樹に、珠生は苦笑した。
「何で?」
「……まぁええけど。学校で慣れたし」
「?」
尚も何のことか分かっていない珠生の鈍さに呆れつつ、亜樹はぷいと目を逸らす。その時、いいタイミングで地下鉄が丸太町駅に到着した。
地上に出てすぐ、亜樹は携帯電話が震えていることに気がついた。柚子からの着信だ。
「柚さんや」
「あっ……遅くなりすぎたかな」
「ちょう待って。……もしもし。今ね、駅に……え?」
亜樹の表情が、じわじわと険しいものになってゆく。それを見ていた珠生の胸にも、嫌な予感が広がった。
「沖野もおるから……、すぐ帰る、ちょっと待ってて」
亜樹はそう言って珠生に向き直ると、こわばった表情でこう言った。
「深春が……いいひんくなってんて。全く連絡がつかへんって、柚さんが心配してる」
「……とりあえず、柚さんちに行こう。いなくなる前の様子を聞きたい」
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