琥珀に眠る記憶

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第3幕 ——天孫降臨の地——

10、お宿にて

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 藤原が借りきったと行っていた宿は、温泉郷の山の端にある、情緒あふれる旅館だった。
 たくさんのホテルが立ち並ぶ界隈を通り過ぎ、いかにも『秘湯を抱えています』といった印象の、高級感漂う宿を前にして、珠生は改めて藤原の権力や人脈について謎を感じた。

「あらまぁ、いらっしゃいませ。遠いところ、疲れたでしょう。さぁ」
 きっちりと着物を着込んだふくよかな女将が、いそいそと一行を中へ招き入れる。
 門をくぐり、飛び石を踏みながら、柔らかな暖色の明かりが灯った宿の中へと進んでいく。一体ここへ何しにきたのかと目的を忘れそうになるくらい、快適で落ち着いた空気だ。戸惑う。

「藤原様にはいつもお世話になっております。どうぞ、ここは全て皆様のお好きに使って下さいませ。なにかご用がありましたら、何でもおっしゃって下さいな」
 一行を宴会場のような広間に通した女将は、恭しく頭を下げてその場から消えた。そしてすぐに、揃いの着物に身を包んだ仲居たちが、皆に茶と菓子を配り始める。あまりにも緊張感のないこの空気に戸惑っているのは皆同じであるらしいが、彰と敦は淡々と茶をすすっている。

「さてと……みんな、長旅お疲れ様。今日はここでゆっくり休みましょう」
 葉山が湯のみを手に抱えて、皆をねぎらう。
「今……十八時か。食事は十九時よ。それまではとりあえず自由時間です。ただ、珠生くんと彰くんはひとっ走り山中を見回ってきて」
「はい……」
 相変わらず人使いが荒いな……と思いながら、珠生はうなずいた。
「君は特に、この地の濃い神気に慣れておく必要があるからね」
「はぁ……」
「まぁ食後にゆっくり温泉でも入ろうじゃないか」
 少し疲れた顔の珠生の頭を撫で、彰はにこやかにそう言った。
「そうだね」
「湊くんと墨田は亜樹ちゃんのそばに居てね。身辺警護は怠らないように」
「はい」
「え……」
 直ぐに返事をした敦と、げっそりした顔をした湊を見て、亜樹は鼻を鳴らす。
「何やねん、その顔」
「まだお前とおらなあかんのか……」
「何も一緒に過ごさなくてもいいけど、気を感じられる程度にそばにはいてね」
と、葉山が湊を宥めるようにそう言った。
「はい……」
 湊は渋々といった様子で返事をした。

 しかし、亜樹はどことなく元気が無いように見える。珠生は口数の少ない亜樹を見て、尋ねた。
「疲れたの?」
「え? あ、うん……ちょっとね。うち、こんな大勢でこんな遠くまで来るん初めてやから肩こったわ」
「そっか、じゃあ亜樹ちゃんは温泉入っていらっしゃい。少しは楽になるわ」
「うん、そうしよっと。……って、柏木、お前は入ってくんなよ」
「入るかボケ」
 湊がこめかみに青筋を立てている。敦はにやりと笑うと、
「ほんなら俺が一緒に入っちゃろか?」と言い出した。
 亜樹はじろりと敦を睨みつけ、
「あんた国家公務員やろ? セクハラで訴えたろか?」と凄んでいる。
 それを聞いていた彰が、楽しげに笑った。言い返せない敦の顔を見て、また更に笑っている。

「ま、二人は男湯で親睦でも深めておくといいさ」
と、彰。
「覗くなよ」
と、亜樹。
「誰がお前の裸なんか見るか」
と、湊。
 珠生も彰につられて笑い出す。

 そんな珠生の笑顔を、敦はじっと見つめていた。
 


 +  +


 言いつけ通り、湊と敦は亜樹と同じタイミングで温泉にやってきた。
 露天風呂は見事な岩風呂で、豊かに溢れ出す湯がもうもうと湯気を生み出している。
 服を脱いだ敦の身体は、予想通り見事な筋肉に覆われた頑強なものだった。まだ高校生の湊からすると、自分の華奢な身体つきが少し恥ずかしくなるくらいだ。
 メガネを外して服の上に置くと、腰にタオルを巻いて露天風呂へ出る。先に身体を洗っている敦からは離れた場所で湊も汗を流した。

「亜樹ちゃーん、おるかー?」
 温泉に浸かり始めた敦が、大声で女湯に向けて声をかけた。
「墨田、私もいるわよ」
 葉山の呆れたような声が返ってきて、敦はざばっと姿勢を正した。
「あ、失礼しました……!」
「あんたって、見張ってないとほんとチャラいわね」
「すみません」
 どうも葉山には頭が上がらないらしい。湊はそんなやり取りを聞きながら、ゆっくり自分も温泉に入った。 

「ぁあー、ええ気持ちや」
 思わず湊がそんなことを言うと、敦が笑い出した。
「なんや、オッサンみたいやな君。メガネ取ったら、結構イケメンやのに」
「俺はそういうキャラちゃうんですよ」
「ふうん。千珠さまのお目付け役、か?」
「ま、そんなとこです。昔からね」
「なあ、昔の記憶があるって、どんな感じなん?」
と、敦は半ば泳ぐようにして湊のそばへやって来た。

 湊は岩でごつごつとした風呂の縁にふんぞり返って、空を見上げる。ぼんやりと見えるのは、まだ橙色の夕空を残した藍色の空だ。まだ陽があるうちから温泉に入るなんて、なんと贅沢なことかと、湊は思った。

「……別に、どうってことないけど。俺はただの忍やったから、珠生や舜平みたいに変な力が出てくることもないし。まぁ、昔よりは身体の使い方がよう分かるから、かなり動けるようにはなったけど」
「珠生、舜平……。千珠さまと、舜海?」
「そうです。……ところで、陰陽師の人らが読んではる古文書ってのは、一体どんなことが書いてあるんです?」
「まぁ、歴史書みたいなもんや。淡々と出来事が連なって書かれとるんやけど、陰陽師衆の活躍のそばに、いつも千珠さまと舜海、青葉の忍衆という記述があるんじゃ」
「そっか。色々あったもんな……」
 湊は過去に思いを馳せるように、尚も湯気が漂う空を見上ていた。徐々に群青色が濃くなってくる。

「千珠さまってのは、ほんまに鬼やったんか。単なる比喩じゃなくて?」
「はい、実際すごい力持ってはりましたよ。戦の時なんか、思い出すとほんまぞっとするくらい」
「へぇ……人と鬼が、一緒に暮らしてたんか」
「今考えると、不思議な世界ですよね。当たり前のように千珠さまは俺らの国で暮らしてはったんやから。現代でそんな話ありませんもんね」
「……そうじゃな」
 敦は熱くなったのか、湯船から出て温泉の縁に座り、腰にタオルを巻きつける。

「どこみても千珠さまは美しいって書いてあんねんけど、ほんまにそうなん? まぁ、あの子もかなりイケメンじゃけど」
「そらぁもう。珠生はどっちか言うたら可愛い感じかもしれへんけど、千珠さまはほんまに何しててもきれいやったな。戦ってる時なんか、凄みすら感じるような美しさやった」
「へぇ」
「まぁでも、こどもっぽいとこはいっぱいあったし、可愛らしいお人やったな。人間的にもとても魅力的な人やった」
「べた褒めやな」
「文句をいうなら、集団行動ができず、何かにつけ人の揚げ足を取ってみたり文句を言ったり、若いのに高慢ちきなところもあったし女にも一時期だらしなくて、俺はさんざん苦労させられたけど」
「はははっ、そう言うのを聞くと親しみが沸くわ」
「でもまぁ、そういうところを引っ括めても、ええ人やった。俺は好きやったな、頼もしい仲間や。今もな」
「ふーん……。舜海っていう坊主は?」
「あいつと俺は幼馴染やってんけど、明るくて気持ちのいい男やった。だいぶ阿呆やったけど」
「その生まれ変わりは来とらんのか?」
「今、アメリカへ留学中なんです。何を間違ったんか、今は国立大学に進学して研究職まっしぐら……今でも信じられへん。スポーツ選手とかのほうがお似合いなんやけど……」
「へぇ。……舜海、ね」
「舜海は千珠さまの良き理解者やった。まぁよう喧嘩もしとったけど、千珠さまは一番舜海のことを信頼してた」
「ふーん……。でもそいつ、僧侶だったんじゃろ? なんでまた、陰陽師衆と修行なんかしとったんじゃ」
「業平様に見込まれたというか、呆れられたというか……。舜海は力の使い方を知らなすぎやいうて、期間限定で鍛えてもらってん。それが千珠さまと青葉のためになるからいうてな」
「そうじゃったんか。業平様が……ふーん……」
「……調子に乗って喋りすぎたかな。俺、もう上がりますわ」

 湊はふと我に返って咳払いをすると、ざばっと湯船から出た。長湯が好きな湊だったが、さすがにのぼせてきてしまったのである。

「いや、色々聞けてよかったわ。不思議な話じゃな」
「……俺もそう思います」
 ぺたぺたと軽い足音を立てて、湊は脱衣所へと戻っていった。

 一人になった敦は、ざぶんと湯船の中に潜ると、湯をかいて露天風呂の反対側に浮き上がる。
 仰向けにぷかぷかと浮きながら、空を見上た。すっかりと暗くなった空に、星が見え始めている。ここは山深い場所であるため、星も外界より遙かによく見えるのだ。

「千珠さまと、舜海……か。面白いのぉ」

 敦は呟いた。
 夜空に、珠生の端正な顔が浮かんで見える。


 ——あのガキが、千珠さま……か。ぱっと見たところ、なんてことのないただの草食系のガキに見えたが、あれが当世最強の男……? ほんまなんか?確かに妖気は感じたが……。


「しかし、おもろいな、ほんまに……」

 小さい頃から書物で親しんできた伝説の人物たちが、今眼の前で動き回っているなんて。
 そして歴史的な神事に関わることができるという事実が、敦を興奮させていた。 

 きっと何かが起こる。そういう確信があった。
 これだけの面子がここに揃い、天孫降臨の地であるこの場所に集っているのだ、絶対に何か起こる……。

 ここは、自分の修業の成果を見せる場でもあり、静かに受け継いできたこの能力を発揮する数少ない舞台なのだ。

 霊力を持ちながらも、その力を華やいだ場で使うことなく、語り継がれることもなく亡くなっていった祖先のことや、何の力も持たない両親の顔を思い出す。


 ——俺は、やっちゃる。


 敦は再び湯船に潜ると、ゆらゆらと揺れる水面を、露天風呂の底から見上げた。
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