琥珀に眠る記憶

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第3幕 ——天孫降臨の地——

3、悠一郎の懸念ごと

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 湊に言われてみると、確かに彰は元気が無いように見えた。
 先に珠生の家にやってきていた彰は、ダイニングに参考書などを並べながらもいつになく言葉少なだった。
「……先輩、元気ないね」
 うまい言葉が思いつかず、珠生はストレートにそう言った。彰ははっとしたように顔を上げて、キッチンでコーヒーを淹れている珠生を見る。

「そんなことないよ」
 彰が微笑む。
「事件が減って、張り合いがないだけだ」
「そうですか。……藤原さんも葉山さんも、東京に帰っちゃったしね」
 葉山の名を聞いて、彰の心臓が跳ねる。彰はそっと、自分の胸に手を当てた。

「……そうだね、まぁ僕がいれば、大概の事は片がつくから」
「そうですね。最近、妖も静かなもんですし」
「ああ。……珠生は、舜平がいなくて平気かい?」
 不意に出てきた舜平の名に珠生の手がぴたりと止まるが、「先輩が色々と仕事をさせてくれるから、気が紛れてますよ」と、珠生は素直にそう言った。

「意固地にならなくなったね。結構結構」
「お陰様で。でも、本当に今は平気です」
 以前のように意地を張って舜平に強がってみせることをやめたクリスマスの前後から、珠生の気持ちは楽になっていた。それに、もうほんの数カ月で舜平は帰国するのだ。

「……あんなに意固地だったのに、なんでそんなに変わったわけ?」
 彰は頬杖をついて、カップにコーヒーを注ぐ珠生を見あげた。珠生はちょっと考えるように黙ると、
「去年は、寂しいとか言えなかったけど……年末に会った時、それをちゃんと言えたから……かな」
「ふうん、そうなのか」
「多分ね」
「なるほどね……」
 彰は何事か納得したような顔になって、白い指先で顎を撫でている。

「やっぱりなんかあったんですか? 先輩」
「……いや、そういう訳じゃないんだけど……」
「今度は先輩がすっきりしない顔だよ?」
 珠生はマグカップを彰の前に置きながら、そう言った。
「試験が終わって、珠生が二十番以内だったら、教えてあげるよ」
 彰はにっこり笑って、参考書を開いた。珠生は笑顔をひきつらせる。

「ノルマがまた引き上がってる? ……気のせいかな」
「夏休みに九州へ行くんだ。補習になんとしても引っかからないためにも、少し目標は上げておくべきかと判断した」
「……はぁ」
「さ、勉強勉強。ノートを開きたまえ」
「……はい」
 珠生はため息混じりに返事をして、のろのろとノートを開いた。


 +  +


 北崎悠一郎は、教授室に呼ばれていた。大学三回生になった悠一郎にとって、この時期の呼び出しは就職に関わることである可能性が高い。
 緊張しながら、研究室のドアをノックすると、気の抜けた指導教官の声がした。
「失礼します」
 入ってすぐ、来客があることに気づく。きついパーマを掛けて色の抜けた髪をひとつくくりにした後ろ姿が目に入ってくる。
「あ。すみません」
「いいのいいの、こっちへいらっしゃい」
 慌てて出て行こうとした悠一郎を、指導教官は呼び止める。来客の女が振り返った。

 その顔には見覚えがある。
 クリスマス展示の際、悠一郎の作品を気に入ったと感想を述べにきてくれた、三十代後半くらいに見える女性だ。
「あ、どうも。こんにちは……」
「北崎くん、お久しぶりです」
 と、その女は立ち上がって握手を求めてきた。茶色く日焼けし、乾いた皮膚をしてごつごつとした手をした女だった。悠一郎は握手をかわして、女を見た。

「あの……用事というのは?」
「こちらは、NAPOLIフォトスタジオの代表、飛鳥美智さんだ。面識があるそうだね」
と、教授が言った。
「はい、クリスマス展の時に……」
「北崎くんの、その後の活動にも注目させてもらっていました。あの後春に出品した作品も、美しかった」
「あ、ありがとうございます!」
 プロに褒めてもらったことが嬉しく、悠一郎は顔を輝かせて頭を下げた。
 その写真にも、珠生の協力を得ていた。昨年は撮れなかった海での写真が撮りたくて、珠生を連れて海へ行ったのだ。春先の海には人がおらず、ゆっくりと撮影ができたが、どうも光量が足りず少し苦労した作品でもあった。

「君の人物の撮り方が、とても私は好きなんですよ。よかったら、卒業後うちで働いてみませんか?」
「え!? 本当ですか?」
「ええ、あなたさえよければ。うちはね、主に結婚式なんかの撮影を請け負う小さな事務所だけど、あなたみたいに人物を丁寧に、そして美しく撮ってくれる人が欲しかったの」
「結婚式ですか!?」
「もしあなたが、もっと華やかな場面での活躍を望んでいるなら、それはなかなか難しいかもしれないけど……」
「いいえ、そんな。人生の一番いい日の写真じゃないですか。そんな大切な日の写真を撮らせていただけるなんて、最高です!」
「そっか。それなら一度、アルバイトでうちに来てみて。返事はそれからでもいいわ」
「はい!」
 飛鳥から名刺を受け取って、悠一郎はまた頭を下げた。

「また連絡するわ。今日は忙しいのでこれで失礼します」
「はい、よろしくお願いします!」
「では先生、また今度」
 飛鳥は座ったままの指導教官にも一礼すると、静かに部屋を出ていった。悠一郎は嬉しくて、しばらくそこに佇んでいた。

「まぁ、座んなさい」
「はい」
 整然と片付き、棚という棚にカメラやレンズが飾ってある部屋で、今まで飛鳥が座っていた椅子に悠一郎は座った。
 指導教官は小柄な翁で、名を東上兵治という。
 パッと見はまったくカメラマンには見えないが、若いころは戦場を駆けたこともある著名なカメラマンだった。

「北崎くん、最近調子がいいいみたいやな。一時期のスランプは抜けたんか?」
「はい、なんとか」
「君がモデルに使うてる子、あれはプロのモデルなんか?」
「いいえ、友人です。高校生の」
「ほう……そうか。そうか」
 東上は机に両手をついて、その上に顎を乗せ、少し言いにくそうに言葉を発した。
「実はなぁ、飛鳥さんはお前の腕を見込んでスカウトに来てくれたんやけど……これまでな、かなりの数の問い合わせがあったんや」
「問い合わせ?」
「お前についてと言うよりも、あのモデルの子は誰やいうてな」
「はぁ……なるほど」
「あの美少年をスカウトしたいっちゅう話しやな」
「……そうですか。まぁ、予想はしてましたけどねー……。先生は、それにはなんて答えてはったんですか?」
「うちはモデル事務所ちゃう、カメラマンを育てとるだけやて言うてやったわ」
 東上はニンマリ笑って、そう言った。悠一郎はそんな東上のしたり顔を見て、思わず吹き出した。 

「さっすが、先生」
「まぁ、あの子を題材に写真を撮っていくなら、これからなんぼでも言われることやろう。実際どうなんや? あの子はそう言う仕事にも興味があるんか? お前以外のモデルになるような」
「いいえ、彼はとてもおとなしい子で、そんなつもりはないと言っています。俺も何度か尋ねたことがあるんです、そうなったらどうするって」
「そっか。そらならええけど」
「彼は本当に綺麗な子やから。他のカメラマンに取られんように気をつけますわ」
「ああ、そうせぇ。しかしよう見つけたな」
「そうでしょ? 運命ですよ」

 悠一郎は笑ったが、心のなかでは少し、複雑な思いでいた。



 + +



 とある週末、悠一郎は珠生をいつもの喫茶店に呼び出していた。
 休日なのに、珠生は制服姿で現れた。
 六月も下旬に近づき、季節はすっかり夏だ。半袖の白シャツにネクタイ、淡いグレーのズボン姿の珠生は強い日差しに溶けてしまいそうに白く見える。

「暑いですね」
 午後三時、マスターにもにこやかに挨拶した珠生は、悠一郎の前に座るなり水を飲み干した。元気そうな珠生を見て、悠一郎は微笑む。
「もう制服も半袖か」
「うん。あ、今日はちょっと学校で用があったもので」
「そっか、忙しくなかった? 悪いね」
「いいえ、ちょっとした雑用ですよ」
「そっか」
 マスターがアイスコーヒーを運んできた。透明な背の高いグラスの周りが曇っているのを、珠生は指で撫でた。つう、と水滴が伝う。
「俺、就職先が決まりそうやねん」
「へぇ、すごいじゃないですか。おめでとうございます」
 珠生は純粋に嬉しそうだ。素直な笑顔に、悠一郎は微笑み返す。

「ありがとう」
「でもなんで……ちょっと浮かない顔なんです?」
「え、分かる?」
「はぁ、何となく」
「……ずっと前、純粋なモデルの仕事なんかに興味ないかて聞いたことあったやんか?」
「はい」
「あれから一年くらい経つけど……今はどうなんかなと思って。珠生くん、カメラの前でもどんどん表情が良うなってきてるし、撮られることにもう抵抗ないやろ? ひょっとして、もっとそういう仕事とかしてみたいんちゃうかなと思ってさ」
「え? ないですよ」
 あっさりと即答する珠生を見ると、珠生はストローでアイスコーヒーを美味しそうに飲み干していた。よほどのどが渇いていたらしい。

「ほんま? 俺よりも、もっと珠生くんのこと、ええ感じに撮ってくれるやつもおるかもしれへんねんで?」
「俺は別に、自分の映り具合とかは気にしてませんよ。悠さんの作品として、自分がちゃんと馴染めているかを気にしているだけであって」
「そうなん?」
「俺、悠さん以外のカメラマンには、撮られませんよ」
 にっこりと笑ってそう言う珠生を、悠一郎は思わず抱きしめたくなった。嬉しくて、涙が溢れそうになる。

「そっか……そう言ってくれんねんなぁ。ありがとう」
「いいえ。何でそんなこと気にするんです?」
「俺の作品を見て、あのモデルは誰やっていってくる問い合わせが結構あんねんて。予想はしてたからそれはいいけど、珠生くんはどうしたいんかなと思って」
「そんな、俺目立つのは嫌ですから」
「あははは、そういうとは思ってたけど。実際ちゃんと言うてもらえると嬉しいもんやな。なんかプロポーズが成功したような気分や」
「なんだそれ」
 珠生はソファの背に寄りかかって楽しげに笑った。明るい日の差し込む店内で、珠生の周りだけきらきらと明るく輝いて見えた。

「ええ子やなぁ、珠生くんは」
「いいえ、そんなこと」
「俺、働き出してからも珠生くんのこと、撮っていくからな」
「うん、楽しみにしてますよ」
「はぁ、なんか安心したら腹減ってきた。ねぇマスター、なんかある?」
「今日はカツサンドや」
「お、いいねぇ。食わしてよ」
「はいよ。珠生くんはどうする?」
と、カウンターの向こうからマスターが尋ねた。
「あ、俺も食べたいです」
「お、珍しいやん。珠生くんが肉系を食べるとは」
と、悠一郎が楽しげにそう言ってから、まじまじと珠生を見た。

「そうかなぁ。俺、好き嫌いないですよ」
「ええこっちゃ」
 その後も次の撮影場所について話をしながら、二人はのんびりカツサンドを食べた。
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