琥珀に眠る記憶

餡玉

文字の大きさ
上 下
106 / 534
第9章 護られた空

5、戻ってきた日常

しおりを挟む
 
 各務健介は、はっと目を覚ました。
 外が明るい。

「あいたたたたた」
 研究室の机に突っ伏して眠っていたため強ばっていた筋肉と関節が、急に身を起こしたことによって悲鳴を上げた。 

 咄嗟に腕時計を見て、目を丸くする。
 時計の針は、午後一時を指していたのだ。

「な、なんてことだ!!」
 子どもたちをほったらかして、研究室で寝入ってしまうとは、一体何ということだ。健介はバタバタと白衣を脱ぎ捨てて、鞄を掴んだ。
 千秋と珠生の怒り顔が目に浮かぶ。
 健介は重たい体に鞭打って、駐輪場まで走った。


 自宅に駆け戻った健介が、恐る恐るドアを開けると、家の中はしんとしていた。

「あれ? ……出かけちゃったのかな」
 しかし玄関には、珠生のスニーカーも千秋のサンダルも置いてある。怪訝に思った健介は、そろりそろりと家の中に入った。
 廊下からリビングに通じるドアを開けると、カーテンを閉めたままの室内は暗かった。
 健介は鞄を置いて、千秋の寝泊まりしている和室の方を覗く。襖は開いていて、千秋が布団に入って丸くなっているのが見えた。

「え? まだ寝てるのか?」
 健介は仰天して、再び時計を見る。間違いない、もう午後二時が近い。
 首をひねって、今度は珠生の部屋を覗いてみる。

「珠生まで?」
 珠生もまた、ベッドに入って静かな寝息を立てていた。最近、眠っている珠生しか見ていないような気がした。
 さすがに起こしたほうがいいと思い、健介は珠生の身体を軽く揺すった。
「……珠生、珠生」
 珠生は反応せず、ピクリとも動かない。随分と深く眠り込んでいるようだった。
「起きなさい、珠生。もう昼だよ」
「う……」
 珠生は微かに呻いて、寝返りを打った。しかし全く起きる気配がない。
 健介はため息をついて、部屋のカーテンを開いた。今日は天気がよく、外はとても明るい。
 一瞬で珠生の部屋が光に満ちる。

「……うーん……」
「珠生、起きろってば」
「……あ、父さん……」
 眩しげに、眉間にしわを寄せながら珠生が健介に気づいた。健介は苦笑した。
「どうした? 珍しいじゃないか、こんな時間まで寝てるなんて。夜更かししたのか?」

 そう言って、はっとする。
 この二人が、自分の帰宅を待っていて夜更かしをしたのではないかと思ったからだ。だとすると、健介がそれを注意する権利はない。

「……あの、その、もう……二時だから……さ」
 健介は急に遠慮がちにそう言って、珠生の部屋を出た。
 リビングのカーテンを開くと、開けっ放しの和室で寝ていた千秋が、珠生と同じ表情で不機嫌そうに健介を見た。
「千秋も、もう起きたほうがいいよ」
 千秋はぼんやりと健介を見上げていたが、その目にじわじわと光が戻ってくる。同時に、千秋は布団を蹴って起き上がり、健介に抱きついた。
「わっ……! 千秋、どうした?」
 無言で自分にしがみつく千秋の背に手を置いて、健介は戸惑った。そんなに寂しい思いをさせてしまったのかと、自分を責める。

「……お父さん……ただいま」
「え? あ、ああ……おかえり。ごめんね、昨日は帰れなくて」
「ううん……いい。あたし、ちゃんとここにいるから……」
「ああ、そうだな。ちゃんとここにいるな」
 千秋の言葉の意味が分からなかったが、健介は千秋が寝ぼけているのだろうと思い込み、優しく優しくその頭を撫でた。

 懐かしい父親の匂いに包まれて、千秋はようやく現実に戻ったということを実感していた。
 たった二日そこから離れていただけなのに、もう何年も向こう側の世界に迷い込んだような気分だった。


 ——こんな想いを、珠生はずっと一人で……。


 千秋は顔を上げ、父親から少し身を離して顔を見上げた。
 にっこり笑う、優しい父の顔。こうして見ると、健介と珠生の笑顔が殊の外似ていることに気づく。

 珠生の部屋を振り返ると、ドアの前に立って二人を見ている珠生がいた。黒いだぼっとしたパーカーのポケットに手を突っ込んで、穏やかな笑みで二人を見守っている珠生の表情は、とても同じ年の少年とは思えなかった。

 それでももう、千秋は戸惑わない。珠生のことを、ちゃんと理解したから。
 千秋は珠生に駆け寄って、珠生にも抱きついた。
 少し、自分よりも背が高くなった珠生の華奢な身体が、その勢いに負けてドアにぶつかる。

「痛いなぁもう、何やってんの」
と、呆れたように珠生が言った。
「何でもないよ」
と、千秋は答えた。
 健介は、何故千秋が珠生にまで抱きつくのかということを不思議に思いつつも、兄弟は仲がいいに越したことはないと微笑んだ。最後に双子が揃っているところを見たとき、二人は舜平のことで喧嘩をしていたからだ。
 その時とは打って変わって、穏やかに微笑みながら千秋の背をぽんぽん叩いている珠生の顔は、ひどく大人びて見えた。

「……さて、父さん、今日はどこへ食べに行く?」
と、千秋を宥めながら、珠生が健介を見てにっこり笑う。
「今夜は三人で美味しいものなんだろ?」
「おお、そうだそうだ。どこでもいいぞ、何が食べたい?」
「え、そうなの?」
と、千秋が目を輝かせた。
 ばたばたと和室に戻って旅行バッグからガイドブックを取り出した千秋は、立ち上がってにっこりと笑った。

「行きたいとこ、いっぱいあるんだ。ちょっとくらい高そうでもいいよね?」
「ああ、もちろんだ。どこでも予約していいぞ」
「やったぁ」
 千秋ははしゃいだ声を出して、嬉しそうに笑った。
 健介もそんな千秋の笑顔を見て、また目尻を下げている。

 戻ってきた平和な風景に、珠生はほっと安堵した。
 鼻歌を歌いながらソファに座って店を選んでいる千秋の隣に座り、珠生もガイドブックに目をやった。
しおりを挟む
感想 47

あなたにおすすめの小説

ヤンデレBL作品集

みるきぃ
BL
主にヤンデレ攻めを中心としたBL作品集となっています。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

選択的ぼっちの俺たちは丁度いい距離を模索中!

きよひ
BL
ぼっち無愛想エリート×ぼっちファッションヤンキー 蓮は会話が苦手すぎて、不良のような格好で周りを牽制している高校生だ。 下校中におじいさんを助けたことをきっかけに、その孫でエリート高校生の大和と出会う。 蓮に負けず劣らず無表情で無愛想な大和とはもう関わることはないと思っていたが、一度認識してしまうと下校中に妙に目に入ってくるようになってしまう。 少しずつ接する内に、大和も蓮と同じく意図的に他人と距離をとっているんだと気づいていく。 ひょんなことから大和の服を着る羽目になったり、一緒にバイトすることになったり、大和の部屋で寝ることになったり。 一進一退を繰り返して、二人が少しずつ落ち着く距離を模索していく。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

明智さんちの旦那さんたちR

明智 颯茄
恋愛
 あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。  奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。  ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。  *BL描写あり  毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。

処理中です...