琥珀に眠る記憶

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第4章 境界

6、客観的な変化

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 土曜日。
 今日から、世間はゴールデンウィークである。

 舜平は午前中のアルバイトを終えた後、伏見にあるフットサルコートに来ていた。高校時代のサッカー部の友人たちから、フットサルの誘いを受けていたのである。

 人工芝とは言え、久々に踏みしめるコートの感触は、舜平のテンションを引き上げた。気のおけない仲間たちとボールを蹴り合い、気持よくシュートを放つ。 
 活発に身体を動かしていると難しいことを考えずに済むため、久々に頭の中を空っぽにして楽しむことができたような気がした。

 審判をしていた元マネージャーがホイッスルを吹く。休憩の時間だ。
 入れ替わりに違うメンバーが走り回っている様子を、ベンチで汗を拭いながら眺めていると、隣に元チームメイトの北崎悠一郎きたざきゆういちろうが腰を下ろした。

「舜平、まだまだ全然走れるやん。大学でも何かやってんの?」
 悠一郎は、京都市立芸大の学生だ。高校時代は地味な見た目をしていたけれど、芸大でデザインと写真を学んでいる今の悠一郎は、いかにも芸大生という小洒落た出で立ちに変わっていた。
 髪を長く伸ばして、後ろでおだんご頭を作り、長く伸ばした前髪を真ん中で分けて流している。そして、耳には大きめのピアスが揺れる。節くれだった長い指にえらくごつい指輪をはめていて、それも嫌味なく様になっていた。

「いや、なーんもやってへんな。一応フットサルサークルに入ったけど、単なる飲み会サークルやったから行ってへんし」
 舜平はぐびぐびと水を飲みながら、そう言った。悠一郎もスポーツドリンクを飲みながら頷く。
「俺も、そんな感じやな。なぁ、たまにはまたここで試合やろうや。なんやかんやで結局みんな関西圏内の大学に進学したわけやしさ」
「せやな。……動いてたら、何も考えんでええから楽やしな」
「え、舜平なんか悩んでんの?」
「いや、別に……」
「何や何や、悩みなら聞いたるで。気楽に言うてみぃ」
「なんもないって」
 舜平はそっけなくそう言って、また水を飲んだ。だいたい、ここ最近の舜平の悩みなど、常人に話せるような内容ではないのである。

「なんや、つれないなぁ。今夜、このまま皆で飲み行くやろ? そんときでも聞いたるで?」
「何もないて。なんでそんなに聞きたがんねん」
 しつこく食い下がってくる悠一郎に、舜平はぶすっとした顔を向けてそう尋ねた。悠一郎はじっと舜平の顔を覗きこみながら、こんなことを言った。
「だってお前、なんか年末会うた時と比べてさ、なんやめっちゃ顔つき変わってんねんもん。なんかよっぽどのことがあったんやろうなと思ってさ」
 舜平は驚いた。自分の中の大きな変化を感じ取る、悠一郎の嗅覚に驚いたのだ。

「……間違いではない、かな」
「ほらな」
 悠一郎は得意げに笑うと、もう一度コートの方へ目をやった。ちょうどシュートが決まって、皆が歓声を上げているところだった。舜平も拍手をする。
「俺、昔から写真取るからかな、一度見た人の表情や風景は、くっきり記憶に残るみたいやねん。お前、なんか急にどっしりしたというか、深みが出てきたというか……なんやえらい、ええ男になったな」
「……はぁ? 気色悪いこと言うな。ま、気が向いたら話したるわ」
「あっそ」

 再び、ホイッスルが鳴った。二人はベンチから立ち上がると、フットサルコートに入った。




 * * *



 珠生は目を覚ました。時計を見てぎょっとする。
 もう十二時半である。

 むくりと身体を起こすと、下半身にずっしりとした痛みを感じた。否応なく、昨日のことを思い出す。
 舜平との、甘い甘い、あの時間のことを。舜平のおかげで、真壁のことはあまり思い出さずに済んでいた。

 部屋から出てみると、父親がリビングで新聞を読んでいた。なんとなくどぎまぎしてしまって、珠生は無言でキッチンへ入る。

「おはよう珠生。今日はずいぶんゆっくりだね」
「あ、うん……おはよう」
 珠生は重たい体を引きずって、水を飲みながらパンを焼く。ソファの背もたれ越しに、珠生の様子を見ていた健介が声をかけてきた。
「調子悪そうだね、どうしたんだ?」
「え? いや……別に」
 また別にって言われた……とショックを受けている健介を見て、珠生はため息をつく。
 こんなことでショックを受けてしまうような気の弱い父親だ。昨日の出来事や、今珠生が置かれている状況などを知ったら、発狂してしまうだろう。
 どんよりと影を背負った父の背中を見ながら、珠生は苦笑した。

「俺、美術部に入ったんだよ」
 突然、学校生活について話し始めた珠生の声に、健介は振り返った。
 珠生はこの一週間で起きたことを、淡々と報告していった。湊と潤也、彰のこと、出会った美術部員のことや、担任のこと、そして試験のことなど。健介はそれを嬉しそうに聞いては、もっと詳しく知りたがった。
 ゆっくり健介と話をするのは久しぶりで、穏やかな気持ちになる。

「そっか、父さん安心したよ。久々に一緒に暮らすだろう? いまいち自信がなかったからさ」
「自信?何いってんだよ。家族なんだから、気を遣わなくていいのに」
と、珠生はパンを齧りながらそう言った。
「いいや、家族だからこそ……ね。僕は、一度はお前たちを捨てたんだ。だからもっと……今はちゃんとした父親でいたいって、思うんだけど」
「……捨てられた、なんて思ってないよ」
 しゅんとなった健介に、珠生はそう言った。健介が顔を上げる。

「千秋はどう思ってるか知らないし、世間一般の人はどう考えるか分からないけど。父さんの人生は父さんのもんだ。俺は、父さんのやりたいことを諦める必要はないと思う」
 珠生の言葉に、健介は目を丸くした。
「お前……」
「人生は一回きりなんだ。今、父さんは幸せなんでしょ? だったらそれでいいじゃないか。やりたくもないことをやって腐っていく人生を送るなんて、無意味だよ」

 健介は、しばし呆然としたように珠生を見つめて、黙り込んだ。そしてやや戸惑ったような口調で、こんなことをつぶやく。

「珠生……お前、そんなことを考えてたのか?」
 珠生ははっとして口をつぐんだ。健介は、とても複雑な表情を浮かべている。
「あ……俺、冷たいかな」
「いや、そんなことはないよ。ただ、ちょっと驚いただけで」
と、健介は微笑む。
「子どもってのは、しばらく会わないうちに、すごいことを言うようになるんだな……と思ってね」
「そんなこと……ないよ。俺は、昔から……こんなだし」
「……そっか。そうだったんだな。父さんが知らなかっただけなんだな。……本当にごめん、珠生」
「ううん……」

 健介は寂しげに微笑むと、立ち上がって珠生に歩み寄り、そっと珠生の頭を撫でた。その手つきには贖罪を望むかのような重みがあり、珠生は気まずくなってふいと顔を俯ける。


 ——昔の俺なら、こんなことは言わなかったかもしれない。前世の記憶を思い出す前の俺なら、きっと……。


 自分自身の変化に一番ついていけていないのは、俺なのかもしれないな……と、珠生は思った。


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