琥珀に眠る記憶

餡玉

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第4章 境界

1、ざわめく

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 木曜日。
 沖野千秋は、バッグに着替えやガイドブックをいそいそと詰め込んで、旅の支度をしていた。
 出発は日曜だというのに、楽しげに準備をしている千秋を見て、パジャマ姿の母親は呆れている。

「ちょっと気が早いんじゃないの?」
 母、すみれは千秋の部屋のドアにもたれてそう言った。
「そんなことないよ。だって、金・土と部活があるから、ちゃんと準備できないかもしれないじゃん」
「はいはい、そうね」
 すみれは部屋に入ってくると、千秋の机の上にぽん、と封筒を置いた。千秋がすみれを見上げて、その中身を覗きこむ。そして目を見開いた。
「こんなに!?」
「……珠生には、私、なーんにもしてやってないからさ。せめてあんたが行った時くらい、おいしいものでも一緒に食べてやって。お父さんには絶対にお金、出させないで」
「そんな意地はっちゃって。いいの? あたし、もらったからには全額使っちゃうかもよ?」
「いいわよ、あんたと珠生へのお小遣いなんだから。どうせあの子、服なんかも新しいの買ってないだろうし、一緒に買物でも行ってやってよ」
「そうだね、珠生はあたしがいなきゃいつまででもおんなじもん、着てるもんね」
 千秋はうきうきとした顔で笑った。久しぶりにはしゃいだ顔をしている娘を見て、すみれは微笑んだ。

「あんたら、本当に仲いいわね。双子ってどこもそうなのかしら」
「さぁどうだろう。ってかさ、珠生はあたしといて卑屈になってたみたいだけどね」
「あら、そうなの? 知らなかった」
「お母さんと珠生、あんまり喋んないもんね。てかあたしも引越しの前日に知ったわけだけど」
「だから京都に行っちゃったのか……」
「そうかもね。まぁ卑屈な男に育つよりは、そっちのほうがいいよ」
「そりゃそうだわ」
 すみれはすっぴんで前髪を大きなクリップで留め、まるで色気のない格好で腕を組んで立っていた。そんな格好をしていても、すみれは娘の目から見ても美人だと思う。

「あんたまで、お父さんのところがいいなんて、言わないでよね」
 すみれは少し拗ねたような顔をして、そう言った。何だかんだ言って、珠生があっさり健介と同居して、なんの不満も言ってこないことが寂しいのだ。
 千秋は苦笑した。
「何言ってんだか。大丈夫だって。お父さんなんて、私のことずっと放ったらかしで……。せいぜい我儘言って困らせてくるわよ」
「はは、そっかそっか」
 すみれはちょっと安心したように笑ってみせると、スリッパをぺたぺたと言わせて姿を消した。そして「おやすみぃ」と声だけが聞こえてくる。
「おやすみー」
 千秋もそう返事を返すと、また旅支度にとりかかった。


 ——早く会いたいなぁ、珠生。


 唇に自然と笑みが浮かび、鼻歌が漏れる。  
 明日の予習などすっかり忘れている千秋の頭の中は、春の京都一色である。

 


 +  +



 金曜日。
 明日から連休ということで、学校の雰囲気もどこか浮き足立っているように感じられた。
 ホームルームでは、「連休だからといって気を抜かずに学習するように」と釘を刺されたが、もはや誰も聞いてはいなかった。

 正也はいそいそと帰り支度をして、珍しくさっさと椅子から立ち上がった。
「俺、今日から埼玉帰るんだ。といっても、部活もあるし二、三日でまたこっち帰ってくるんだけどね」
「里帰りかぁ、気ぃつけて帰りや」
と、湊がのんびりと声をかける。
「おう! 珠生はかえんないの?」
「うん。俺の双子の片割れが京都に遊びに来るんだ」
「へぇ~そうなんだ。見てみてぇなぁ」
「時間があえば会ってみる? 結構長い間こっちにいると思うから」
「おう、京都戻ったらメールする。ほんじゃ、新幹線の時間あるし、急ぐわ! じゃね」
 正也は手を上げて、ダッシュで帰っていった。さすが陸上部なだけあって、その速さは教師の注意も間に合わないほどだ。
 珠生も立ち上がると、鞄を肩にかける。

「部活か?」
と、湊も立ち上がりながらそう言った。
「うん。といっても、今日は俺だけかもしれないけどね。まぁ、ちょっと描いたら帰ろうかな」
「ほんなら、そのあと弓道部覗きにきぃや。な! そうし!」
「う、うん……」
 湊は未だに珠生を弓道部に誘いこむことを諦めてはないのだった。珠生は苦笑して、曖昧に笑ってみせた。

 弓道場に行く湊と、昇降口の前で別れると、珠生は一人で美術室へと向かった。
 ばたばたと珠生とは反対方向に歩いて行く生徒が多く、今日は皆早めに帰宅するようだった。県外から来ている生徒も多いため、実家に帰省する生徒も多いのである。
 職員室で鍵を借りて、珠生は廊下の突き当りの美術室へ入った。
 電気を点けて、倉庫から描きかけのキャンパスとイーゼルを取り出してくると、窓際にそれを置いて椅子に座る。

 画材の入ったケースを開くと、ぷんと絵の具の匂いが鼻につく。その香りが、珠生の心をそわそわさせた。
 今回は水彩で色を付けており、淡い色彩が白いキャンバスに載っている。珠生は目を閉じて、イメージをふくらませる。

 静かな美術室に、グラウンドやテニスコートから、活気ある声が聞こえてくる。まるで別の世界の事のように、その音を聞く。

 自分にとっての日常とは、どこのことだろうか。と、珠生は考えた。

 四月に入ってからの、信じられない生活の変化を、日常といっていいのだろうか。

 自分は、変わったのだろうか。千珠のように、強くなっているのだろうか……。

 目を閉じていると、いろいろなことが頭をめぐった。いつもは誰か美術部員がいて、そんなことを考えずに済んでいた。
 しかし、一人で静かなこの空間にいると、どうしようもなくいろいろなことを考えてしまう。

 舜平のことも。

 あの日のことは、珠生にとって、まるで白昼夢のような体験だった。妖魔を斬り、負傷したのに舜平に抱かれることで傷が治った……なんていうこと、数カ月前の自分が聞いても信じないだろう。

 しかし、舜平の熱い声は今でも耳に蘇る。彼の言葉のひとつひとつに、身体が昂ってしまったことが恥ずかしい。


 ——これからもまた、そんなことが起こるのかな。あの人と性行為をする、なんてこと……。


 千珠と舜海は、自分たちは違う。
 そう思ってはいる。
 しかしまた、舜平に抱きしめられ、唇を重ねれば、きっと同じ事を繰り返すという確信もあった。
 珠生は頭を振った。集中できない。

「……はぁ」
 ため息をつき、もう今日は帰ろうか……と筆を置くと、がらりとドアが開く音がした。誰か美術部員が来たのかと思い、珠生はくるりと後ろを振り返る。
「……え?」
 珠生は少しひやりとした。そこには真壁美一が、いつもの取り巻き二人をつれて立っていたのだ。

 真壁は歪んだ笑みを浮かべて、一人窓際に座っている珠生を見ると、ずかずかと教室の中を進んで近寄ってくる。取り巻きの一人が、がらりとドアを締めて鍵をかけた。

「……何か用ですか」
 珠生は立ち上がって、険しい顔で真壁を見た。真壁は怯えた様子の珠生を見て楽しげに笑い声を立てた。

「ああ、大事な大事な用事や。……千珠殿」
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