琥珀に眠る記憶

餡玉

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第3章 波乱

22、行方

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 水曜の午後、舜平と拓はいつものように各務研究室で実験データの整理をしていた。
 珠生と肉体関係を結んでしまってから、どことなく健介の目を真っ直ぐに見れないでいる舜平は、いつになくそわそわしながらパソコンに向かっている。

「そうだ、相田くん」
「は、はい!」
 舜平はびくっとして、健介を振り返った。
「先月までのアミノ酸培養のデータ、どこにいったっけ?」
「ああ、あれは……」
 舜平は立ち上がって、ごそごそと棚にしまってあるファイルを探しだし、健介に渡した。健介は微笑んで受け取る。
「ありがとう。あ、それから……」
「はい何でしょう!!」
「……どうしたの? なんか緊張してない?」
「えっ? し、してませんけど……」
「そう? あのさ、今夜また僕、帰り遅くなっちゃうからさ、ちょっとだけでいいから珠生の様子見に寄ってやってくれないか?」
「へっ?」
 当の珠生の名前が出て、舜平の声が裏返る。

「最近、どうもぼんやりしててさ。学校でなんかあったのかと思って……。僕が聞いても、まぁまぁだの普通だのしか言わないし。こういうの、女親ならうまく相手するのかなぁと思うとへこんじゃってさ」
「はあ……」
「先生、高校生の男の子なんてそんなもんですよ。キモイうざい死ねって言わないだけ、珠生くんは偉いですって」
と、拓がパソコンから顔を上げ、伸びをしながらそう言った。
「え、キモイうざい死ね? そんな事言われたら本当に死ぬよ、僕は」
と、健介は青い顔でそう言った。
「怖いなぁ、思春期……」
「ほっといたほうがええんちゃいます? あんまり干渉すると、うざいって言われますよ」
「そうかなぁ……」
 拓のアドバイスに首をひねっている健介を見て、舜平は、「あ、でも……いいですよ。ちょっと、様子だけ聞いてみましょうか」と持ちかけた。

「そう? いいかい? あ、別に何を言ってたとか、僕に報告しなくてもいいからね。僕が鬱陶しいとか言われても困るし……」
「はい、まぁ、大丈夫やと思いますけどね……」
と、舜平は引きつった笑みを浮かべながら健介を慰める。

 向かいに座った舜平を、屋代拓は頬杖をついて眺めている。
「お前がそんな世話好きとは知らんかったわ。不倫相手の人妻はええんか?」
「だから人妻ちゃうし」
「ふうん……」
 拓は梨香子とどうなったのかということを聞きたそうな顔をしていたが、健介の手前、黙って作業に戻った。

 あれから梨香子は本当に姿を消してしまった。しかし大学組織は、学生一人大学に来なくなったからといって、取り立てて騒ぎ立てたりはしない場所である。
 本当に親しい友達などもほとんどいなかったようで、梨香子を熱心に探すような人間もいなかった。

 藤原が動いてくれている、と葉山は言っていたが、梨香子の行方不明という現実は、いつも舜平の心の片隅に黒い不安を残している。



  +  +


 二十時頃、舜平は珠生のマンションを訪れた。
 結局迷って、訪問の予告はしないままであったため、インターホンを押すときは指が震えた。

『はい。どうぞ』
 あっさりと自動ドアが開き、舜平は少し戸惑いつつも、各務家のドアの前に立っていた。がちゃりと鍵が開いて、珠生がひょいと顔を出す。
「父さんから聞いてたよ」
「あ、そか……。お、お邪魔します」
 珠生はいつもと変わらない様子で、先に立ってキッチンに入り、お茶を入れてくれた。

「なにか食べますか?」
「いや、ええよ。学食で拓と食ってきた」
「拓? ああ。あの人ですね。研究室の」
「そうやで」
 舜平は、イーゼルに置いてある絵が変わっていることに気づき、絵を覗きこんだ。そこには、新緑のようなものが描かれている途中である。

「俺、美術部入ったんです。人数少なくて、静かに絵がかけるから最高です」
 珠生はマグカップを舜平に渡しながら、そう言った。
 数日ぶりに会う珠生だ。なんだかドキドキしてしまう。赤い唇や、細い首に、つい目線が吸い寄せられる。

「そ、そっか。そういうの、先生には話すんか?」
「ああ……。まだ言ってないっけ。だって最近、帰ってきてもすぐ書斎にこもったりするから、話す暇ないよ」
「そうなんや。まったく、先生にも非があるんやな」
「寂しがってました?」
「うん、最近珠生がぼうっとしてるって。学校でなんかあったのかってさ」
「学校は至って平和ですよ。斎木先輩と湊、二人して学年トップの成績を収めるくらいの天才だっていうことを知った意外は」
「なんや、あいつらそんなに賢いんか?」
 舜平は驚いていた。珠生は肩をすくめる。
「斎木先輩は学年一位で、湊は二位です。俺は四九位」
「ははは、何や、えらい差ぁつけられてしもてるやん」
 珠生の口調に舜平が笑うと、珠生は少しふくれっ面をして舜平を見上げた。そんな表情にも、舜平は心臓を揺さぶられる。


 ——か、かわいい……。


「顔、赤いですけど……」
 珠生にそう言われて、舜平ははっとした。咳払いをしてソファに座る。
「そんなことはない」
「……」
 珠生もソファの端っこに腰掛けて、コーヒーを一口飲んだ。どことなく距離感を掴みかねている様子がひしひしと伝わってきて、いたたまれない……。

「た……体調、よさそうやな」
「あ、はい。お陰様で……」
 自分で尋ねておいて、珠生の返事に舜平はまた赤くなった。珠生がとなりで、小さく噴き出した。
「あの……そんなに照れないでくださいよ」
「てっ、照れてへんし」
「この間は、あんなにいやらしいことたくさん言ってたのに……」
「っ……そ、それはその……」

 行為の最中、乱れる珠生が可愛くて、色々と淫らな言葉を囁いてしまったという記憶はある。冷静な今となっては逆に自分のおこないが恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい気分だった。
 舜平は目を閉じて、長い長い息を吐いた。
「あれは……えーと、治療の一環や」
「治療の、一環……」
 訳の分からないことを言ってしまった。舜平はごくごくとコーヒーを一気に飲み干し、さっと勢いよく立ち上がった。
「さぁて、帰ろかな。特に思春期の悩みもなさそうやし」
「えっ、もう帰るんですか?」
「ちょっと、寄っただけやから……」
「そうですか……」
 珠生は淋しげに舜平を見上げ、カップを置いて自分も立ち上がった。そんな態度の珠生を見るにつけ、舜平は胸の高なりを抑えるのに必死になる。気を抜けば、また何をしてしまうか分からない。
 廊下を過ぎて玄関口に来ると、珠生はスニーカーを履く舜平を後ろから見ていた。広い背中だった。

「ほなな、週末は片割れが来るんやろ? 楽しみやな」
と、振り返った舜平は笑顔でそんなことを言った。
「はい。紹介しますね」
「おう。別に旅行行ったりする予定はないから、適当に連絡してくれ」
「はい」
 珠生は微笑んだ。そして、何かに気付いたような顔をすると、ふと背を向けて自室に入っていった。ぱたぱたと戻ってきた珠生の手には、紙袋が握られている。
「これ、ありがとうございました。返します」
「え? ああ……」
 舜平が貸していた服だった。きれいに洗われ、きちんと畳まれて袋に収まっている黒いパーカーを、舜平は見下ろした。
「ええのに、いつでも。部屋着にしてもいいんやで」
「ちょっと、俺には大きいから」
 その服を着て助手席に収まっていた時の珠生の姿が目に浮かぶ。事の後で少し疲れ、目元を赤く腫らした珠生の姿が……。

 無意識のうちに手が伸びて、舜平は珠生を抱き寄せていた。
 どさ、と紙袋が床に落ちて乾いた音を立てる。

 少し強引な舜平の腕に抱きすくめられて、珠生は驚いた様子だったが、愛おしげに背を撫でる舜平の手のぬくもりをを感じて安堵し、そっとその身体にもたれかかった。
 背中に触れる大きな掌はとてもあたたかく、少し早い舜平の心臓の音が心地良い。珠生は目を閉じて、深呼吸した。

「……すまん」
 後悔の滲む声とともに、舜平は珠生から手を離した。じっと自分を見つめる大きな目は、途方もなく愛らしい。このままキスしたいと思ったが、そうしてしまうときっと最後まで止められないと分かっているので、舜平はぐっと歯を食いしばって珠生から身体を離す。

「ほんじゃ、な」
「はい、気をつけて……」
 舜平は何とか笑ってみせると、ドアを開けて外へ出た。エレベーターの前で、はぁぁあ、と大きくため息をつく。


 ——あかんあかん、これ以上、深みにハマるのはあかん……!!


 俺は普通の人生を歩みたい、昔の自分とは違うんや。
 いくら綺麗なガキやいうても、あの子は普通の子や。千珠とは違うんや。鬼ちゃうねんから、俺の気を喰らわんでも大丈夫なわけやし……。


 舜平は自分にそう言い聞かせながら、早足にマンションを出た。
 それでも、珠生の淋しげな目がこびりついて離れない。


 ——こんな気持ちで珠生のそばにいて、俺、ほんまに大丈夫なんやろか……。


 
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