琥珀に眠る記憶

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第3章 波乱

15、宝刀を握る者

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「……さぁ、外へ出そう」
 藤原の指示を受け、法衣の男たちは懐から札を取り出し、三方に貼り付けて印を結んだ。執り行われる結界術を、珠生はじっと見つめている。
「防魔結界、急急如律令」
 ピシッとガラスにヒビが入るような音がして、何かがそのケースを包み込んだ。まるでシャボン玉の膜でもそこに貼りついたかのように、それは一瞬玉虫色に光って見えた。
 男はそれぞれに持ち手を掴み、立ち上がって足取りを揃え、ゆっくりと歩を進める。
 外には、葉山が手配した黒いセダンが停まっており、トランクが開かれている。そして運転席にはすでに葉山が座って、こちらを見ていた。
「さて、ではこれから比叡山へ移送する」
 藤原がそう言うと、男たちは辺りを警戒しながら、陽の下に出た。

 珠生は、ふと嫌な匂いを嗅いだ気がして、あたりをきょろきょろと見回した。そしてすぐに、異様なものの気配を、嗅ぎとった。

 すうっと、細く、紫色の煙が漂っている。まるで煙草の煙のような、微かなものだ。
 その煙は、見る間に先頭を歩く丸眼鏡をかけた法衣の男の鼻の中に吸い込まれ、ふっと消えた。

「……いけない!」
 珠生が声を上げるのと同時に、丸眼鏡の男が倒れた。持ち手を突如失った草薙の入ったケースが、がしゃんと落ちて砂利の上につんのめる。
 その油断を狙うかのように、倒れたはずの丸眼鏡の男の手が、目にも留まらぬ素早さでケースに伸びた。思いもよらぬ怪力に、残りの二人の男たちは引きずられて倒れこむ。

「縛!!」
 咄嗟に藤原が印を結んで、ケースを奪おうとしていた男を術で縛った。
「オオオオオ!!」
 丸眼鏡の男は、先ほどまでの穏やかな表情の欠片も見えないおぞましい形相で咆哮を上げた。ケースを抱えた腕はそのままにぎっと藤原を睨みつけると、まるで獣のように歯を剥いた。

「渡さぬ……渡さぬぞぉ……!!」
 丸眼鏡の男の口が大きく開く。するとそこから、何かが黒い固まりのようなものが飛び出した。
「危ない!」
 咄嗟に湊は藤原を突き飛ばして一緒に地面に転がった。湊が元いた場所を振り返ると、そこには紫色のどろどろした物体が、煙を沸き立たせながら地面を溶かしている。湊は青くなった。

 藤原が印を解いたことで自由になった丸眼鏡の男は、重たい鉄のケースを抱えたまま、壁をひらりと乗り越えて御所の外へと逃げ出そうとした。
 珠生は思わずその後を追う。すぐ横を彰が走っていることを察知した珠生は、無意識に叫んでいた。

「佐為! 縛れ!!」
「よし!」
 彰が片手で印を結ぶと、丸眼鏡の男の両足に金色に光る鎖が雁字搦めになる。砂利の上に倒れ伏した男の手から、黒ケースが飛び出して砂利の上を滑った。
「おおおお!!」
 丸眼鏡の男は再び二人の方を振り返ると、白目をむいて唾液を撒き散らしながら、再び口から紫色の溶解液を吐き出した。咄嗟に身をかわして避けた二人の間の白い砂利が溶けて、嫌な匂いを吐き出す。


 どくん、と珠生の心臓が跳ねた。
 ふつふつと、身体の中を巡る血が、熱く熱くなっていくのを感じた。


 腹の底から、沸き上がってくる涼風のような力を感じる。


 目を閉じると、美しい直刃の剣が見えた。


 カッと珠生は目を見開いた。
 その目は血のように赤く染まり、瞳孔は細く縦に裂けている。


「……珠生!」
 彰は咄嗟に身構えて、珠生の中から湧き上がる竜巻のような突風に耐えた。彰に縛られている丸眼鏡の男も、珠生との圧倒的な力の差に戦意を喪失したのか、だらりと舌を垂れ流して呆然としている。

 珠生が胸の前で合掌すると眩い光が迸り、その左手から、青白く真珠のように輝く直刃の宝刀が、ゆっくりと姿を現した。
 珠生はその柄を握り締め、直刃の宝刀をブンッとひと振りする。すると、かまいたちのような風が巻き起こり、丸眼鏡の男の法衣がスパッと裂けた。

 珠生は敵に狙いを定めるかのように、すっと目を細めた。赤い瞳の瞳孔が更に細くなる。
 丸眼鏡の男は、自分が殺されることを察したのか、再び口を大きく開いた。するとそこから、ずるずると粘着質な音を立てながら、おぞましい生物が這い出してきたではないか。

 紫色にてらてらと光る身体に、黄色い目が二つ。大きく裂けた口には牙が並び、そこから流れる涎が地面を溶かす。身体全てを陽の下に晒したその妖魔が、吠えた。


 ——渡さぬ……渡さ……ぬ……。


 珠生の脳に、直接その妖魔の声が響いた。珠生は妖魔に向かって、まっすぐに剣を向けた。

「お前に渡す義理はない」
 珠生はそう言うと、一足飛びで妖魔に斬り込んだ。珠生は一瞬にして妖魔の懐に入り込み、低く身構えて刃を構えた。
「……散れ」
 妖魔の黄色い目と、珠生の赤い目が一瞬出会う。
 次の瞬間、宝刀が妖魔の腹から胸を裂いた。ぶしゅう……とどす黒い血が吹き上がり、断末魔に恐ろしい咆哮が辺りに響く。その血を避けるように、珠生は後ろに飛び退り、膝をついた。

「佐為! 草薙を取れ!」
「応!」
 彰はかけ出して、倒れた眼鏡の男の横に転がったケースを抱え上げた。駆け寄ってきた湊とともに、それを急いで車に積み込むと、バン! とトランクを閉めた。
 藤原は彰をそのまま助手席に押し込むと、葉山に指示を飛ばした。
「予定通りのルートで延暦寺まで行け! 早く!」
「了解です!」
「佐為! すぐに後を追う、それまで草薙を頼む!」
「はい!」
 後部座席に法衣の男を二人乗せ、黒いセダンはタイヤ音もけたたましく走りだした。砂利を蹴散らしながら、一直線に道路へと出ていく。


 倒れた妖魔の方へ、珠生は静かに歩み寄った。じゃり、じゃり、とスニーカーの裏に響く砂利の感覚が、どこか遠い。

 見たこともない美しい刀を握り締め、自分が何をしたかも分からないうちに、珠生は妖魔を倒していた。

 藤原は珠生に駆け寄り、勢いよくその肩を掴む。
 振り返ったその瞳は、まだ血のように赤いままで、その表情は研ぎ澄まされた刃のように冷たい。

「……千珠さま」
「あ……」
 珠生は何も言わず、手に握った宝刀を見下ろした。

「う、うわっ……!!」
 珠生はぱっと、宝刀から手を離す。どす、と地面に突き立った宝刀は、珠生の手を離れると同時に霧散して、溶けるように宙に消えた。
 珠生は、じっと自分の手を見下ろした。
 顔を上げ藤原の方を向いたその瞳は、いつもの珠生の、淡い胡桃色の瞳だった。

「俺……」
「ありがとう、珠生くん。おかげで草薙は守られた」
 珠生の言葉を遮って、藤原はそう言って労をねぎらう。珠生は尚も呆然としたまま、こっくりと頷いた。

 藤原は倒れた妖魔と一瞥してから、その憑坐よりましとされていた丸眼鏡の男のもとに駆け寄った。そして、呼吸と脈を確認し、携帯で誰かに指示を飛ばしている様子である。
 藤原の行動をぼんやりと眺めながら、珠生はふらりとよろめいた。
「大丈夫か?」
 湊がいつの間にか背後に立っていて、ふらついた珠生の肩を支えている。黒縁メガネの奥にある、湊の静かな表情を見上げて、珠生はこくりと頷いた。
「うん……」
「千珠さまと、まるで同じ動きやった。お前も……力戻ったんやな」
「……そう、なのかな」
「違うんか?」
「いいや……きっと……俺がやったんだと思う……けど、よく、分からなくて……」
「そうか。……怪我、してないか?」
「うん……」

 藤原は立ち上がって、もう一度妖魔を見下ろしている。ぷすぷすと溶けるように消えていくその紫色の身体を、険しい顔で見つめながら。
「猿之助の式か……危うく村尾さんまで死ぬところだ」
 藤原は珠生と湊の肩を叩き、「猿之助はなりふり構わずやって来たな。まさかしくじるとは思っていなかったろうが」と言った。その表情には、いつもの爽やかな笑みはなく、眉間には深い皺が刻まれている。

「俺らも延暦寺まで行きますか?」
「ああ、そうだな。珠生くん……顔色が悪いが、大丈夫?」
「はい……行けます」
「救援を呼んであるから、直ぐに人が来る。この人は大丈夫だから、我々は急ごう」

 三人は、眼鏡の男に背を向けて早足に歩を進めた。


 だから気づかなかった。


 ゆっくりとその男の口から這い出した、小さな百足のような虫が、まっすぐに珠生の背を狙っていることを。


 その虫は、珠生の背に向かってまっすぐに飛んだ。
 まるで弾丸のように。
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