琥珀に眠る記憶

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第3章 波乱

3、舜平の女難

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 一方、舜平は比較的落ち着いて講義を受けられるようになってきた。昨日珠生と話をしてから、ようやく自分のペースが戻ってきたらしい。

 それに昨日の様子を思うと、千珠としての記憶を取り戻し始めたことで、訳も分からず不安がっていた珠生も、前よりは落ち着きつつあるように見えた。
 昨日の帰り際に見た珠生の表情は穏やかだった。帰宅した健介も、珠生と舜平の間に起こった出来事について何も気づいていないようだった。

 久しぶりに落ち着いた気分で授業を終えた舜平であったが、隣に座る拓によって脇腹をいきなり攻撃され、舜平はくぐもった悲鳴をあげた。

「うごっ……! な、何すんねんドアホ!」
「どうもうこうもないわ」
 拓はじろりと舜平を睨みながら、昨日舜平が帰った後のことを話し始める。

 呼び出したお目当ての女子生徒は、いきなり拓と二人きりになることを警戒したのか、もう一人女子学生を連れてきた。その出来事自体は拓にとっては喜ばしいことであったが、話をしているうちに、どうも二人共が舜平のことを詳しく知りたがっているということに気が付いてしまったのだという。

「聞いてりゃお前、二人共……というか俺の狙ってたほうの子は、完全にお前に興味津々や。どうしてくれんねん」
「どうしてって言われても……」
 舜平は口ごもりながらも、少し勝ち誇ったように拓の肩を叩いた。
「すまんなぁ、梨香子と別れてから、俺にもようやくモテ期が到来したんかもしれへんなぁ」
「やかましいわ。ちゃんと別れきってへんくせに」
「うっ」
 舜平は痛い問題を突かれて詰まる。あれから、相変わらず梨香子からの電話には出ていない。もっとも、今の舜平には珠生のことが最優先事項であるため、梨香子のことを考えている余裕はなかったのだが。
 それでも、今週中には話をつけなければいけない……それは本人も痛いほどに感じている。

「……うう。モテ期到来にも浮かれきれへんな」
「そらそうやろ。ああいう女は絶対しつこいぞ。舜平、刺されんちゃうか」
「怖いこと言うなや! あーあ。昨日バイト休んだから、今週は毎日入らなあかんし、俺は何かと忙しいねんけどなぁ」
「そんなことは知らん。あーあ、俺の青春返してくれよ」
「知らんわい」
 二人はそんなことを言い合いながら、次の授業へと向かって歩き出す。次の授業は健介のゼミだ。

 人気の多いキャンパス。その日は雨で、漂う空気はどんよりとして重い。
 ぶつくさと文句を言う拓と連れ立って歩きながら、雨を避けて、屋根のある通路を進む。
 陰鬱な天気ながら、ひんやりとした石造りの校舎は、若者の活気にあふれて生き生きとして見える。舜平はそうして、無機物に宿る“気”のようなものすら感じ取れてしまうようになっていた。今までとはがらりと違って見えるこの世界を、舜平は徐々に受け入れつつある。

「あ、舜平、舜平!」
「なんや」
「あれ……」
 突然脇腹をつつかれ、舜平は拓を睨んだ。拓はこわばった顔で、前方を指さす。
 なんとそこには、梨香子が鬼のような形相で立っているではないか。舜平の足はぴたりと止まった。

「……梨香子」
 梨香子はつかつかと舜平のもとに歩み寄ってきた。
「舜平、何で電話に出ないのよ」
 開口一番、梨香子は刺々しい口調でそう言った。舜平も眉を寄せて剣呑な表情になると、低い声で言い返す。
「……俺だって色々忙しいねん」
「土日まるまる? バイトはなかったはずでしょ」
 そう言えば、別れることにならなければ、週末は梨香子と過ごしているはずだったのだ。舜平はため息をついた。
「俺の予定なんか、もうお前に関係ないやろ。別れてんから」
「あたしは認めてない」
 ゼミ室の並ぶ一角で、これからゼミに出席する学生たちが、ちらほらと二人を見ながら通り過ぎていく。舜平は、穴があったら入りたいと本気で思った。

「ほな、どうすれば別れてくれんねん?」
 ため息混じりに、舜平はそう尋ねた。その台詞を受けた梨香子は、きっと舜平を睨みつける。
「……ふざけないでよ。別れないったら別れないんだから」
「何でや」
「何でって……舜平が好きだからに決まってるじゃない」
「ほんまにそう思ってんのか?」
「思ってるよ!」
 早くこの場から去りたい……皆の好奇の目線も耐え難く、人目の多い場所で喧嘩をふっかけてくる梨香子にも腹が立っていた。

 舜平はふと、傍にある非常用ドアの存在に気がついた。梨香子の腕を掴むと、半ば無理矢理非常階段の方へと引っ張っていく。ここなら人は来ない。

「お前、腹立ってムキになってるだけやろ? ……俺はなぁ、もうお前に疲れたんや」
「疲れたって……何よ……何よそれ!?」
「お前のワガママに振り回されることに、疲れた」
「……」
 梨香子は目に涙をためて、舜平を見上げている。しかしその目にあるのは反省や後悔の色ではなく、怒りの色でしかない。
 すると梨香子はふと思い出したように、こんなことを言ってきた。

「……ねぇ、こないだ助手席に乗ってた子、誰?」
「……え?」
「高校生くらいの男の子と、一緒にいたでしょ」
「お、お前、どこで見てた」
 舜平は、必要以上にうろたえた。珠生は男なのだから、ここまで狼狽する必要などないのだが。

 そんな舜平の反応に気付いているのかいないのか、梨香子は不機嫌な顔のまま続けた。
「金曜の夜、飲みに出た帰りに、見ちゃったんだ」
「……そんなん、お前に関係ないやろ。友達や、友達」
「友達? それにしては仲よさそうに見えたけど? 可愛い子だったよね」
「べっ、別にあいつは……可愛いけど、そんなんちゃうし」
 言わなくていいことまで言っているのである。梨香子の顔が、より一層いかめしくなった。
「……ふーん。舜平って、そういう趣味だったんだ」
「はぁ?」

 論点がずれ込んだことに、舜平は呆気にとられた。しかし、何もかも面倒になっていた舜平は、腕を組んで少し考えてみる。
 美少年が好き……自分がそう言う趣味であると言えば、梨香子も諦めがつくのではないか。しばらくはおかしな噂が立つだろうが、梨香子と別れられるのならばそんなことはどうでもいい。

「そうやったら、どうする」
「……そうなの?」
 梨香子は心底驚いたような顔をして、舜平を見た。舜平は反応を伺おうと、何も言わずに次の言葉を待っていた。
「あたし……男に負けたってこと?」
「……」

 ——あれ、「見損なったわ、変態!! ホモ野郎!!」とか、俺を罵りながら去っていくんちゃうんか……?

と、舜平は更なる怒りに身を震わせる梨香子を、呆然と見つめていた。梨香子は唇を噛み、くるりと背を向けて非常階段を降りていこうとする。
「お、おい!」
「あたし、負けないから!! あんなガキに彼氏取られるなんて恥ずかしすぎる!!」
「恥ずかしいって……ほれ見ぃ。お前は見栄ばっかりやん」
「うるさい! どうだっていいじゃん! あたし、絶対別れないから!」
 呆れたような舜平の口調に激昂し、梨香子はヒールの音もけたたましく、階段を降りていった。舜平はがっくりと座り込むと、苛立ちをこめた吐息を吐き出す。
「くそっ……!!」
「……おつかれ」

 非常階段の扉の後ろに隠れていた拓が、階段の方へと出てきた。
「そろそろ授業やで」
「ああ……。聞いてたんか?」
「ん? 待ってたら聞こえてきただけや。あんなデタラメ言って、余計に火ぃついてたやん」
「くっそ、めんどい……」
「……ほんまやな。俺、当分彼女とかいらんって気になったわ」
 拓はぽんぽんと慰めるように舜平の肩を叩いた。舜平は立ち上がると、ゼミ室へと向かう。
「めっちゃ人に見られたなぁ、ああ、面倒や」
「大丈夫、大丈夫。学内での修羅場なんか珍しいことじゃないねんから、みんな気にせぇへんって」
「ならいいねんけど……」

 舜平はがっくり肩を落としながら、ゼミ室のドアを開けた。すると部屋にい十人のゼミ生全員が、明らかな好奇の目を舜平に向けてくる。
 めっちゃ注目されてるやん……と、拓を睨むも、拓はそんな舜平の目線を受け流すようにあさっての方向を向く。 

「こら、何やってんの。先生入れないだろ?」
と、背後から何も知らない健介が現れ、授業が淡々と始まった。
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