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第2章 記憶
8、夢に見る前世
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広い広い草原に、黒い鎧を身に付けた数百の男たちの群れが立ち塞がっている。騎乗した数人の男たちがその群を率いるように先頭に立つ。
赤い布でできた幟が風にはためく。自軍を鼓舞する雄叫びが響き渡ると同時に、ずずず……という地鳴りと共に大地が揺れて、黒い鎧の群れがみるみる目前に迫ってきた。
目を見開いて地を蹴ると、身体は羽のように軽く舞い、空を切るかまいたちのように素早く動く。瞬く間に鎧武者たちと間合いを詰め、その指から禍々しく生えた鉤爪で、確実に相手の首を斬り落としてゆく。
がしゃん、どしゃり。兜頭が地面に落ち、じわじわと、赤い血の池を作り出す。鉤爪を振り上げ、奪ってきた数多の命、浴びてきた生暖かい血飛沫。敵を斬り裂き血を浴びることに本能は歓喜し、口元には自然と笑みが浮かぶ。
しかし、その心は冷えていた。
ひらりと空中に跳び上がり、死体の山を超えて総大将の目の前に降り立つ。一際立派な黒鉄の鎧の男の首を、引きちぎる。
恐怖に歪んだ顔、恨みのこもった視線。
血の臭い、真っ赤に染まった白い狩衣。
この身を押しつぶすほどの、罪悪感。しかし抑えることもままならない、この血の疼きと、猛り。
奥歯を噛みしめて、目を閉じる。
——千珠。
振り返ると、そこには華々しい緋色の鎧に身を包んだ若い男の姿。その背後には、味方の兵士たちの群れが見える。
動揺を隠せ……。
俺は鬼だ。
人間を殺すために、ここに存在している鬼なのだ。
決して、人間どもに隙など見せてはならない。
ここに存在する理由を、見失わないためにも。
❀ ❀
珠生は目を開いた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、微かに雀の声が聞こえてくる。
たった今まで、血の匂いのむせ返る猛々しい世界にいたはずだった。この爽やかな朝日は一体何なんだろう。
——どっちが現実なんだろう。
重たい身体をゆっくりと起こす。
掌を見つめ、手をひっくり返して指を見た。白くて頼りない指先には、鉤爪など見当たらない。ただの、生っちょろくて細っこい、自分の手でしかない。
しかし、この手で何百人もの人間たちを斬り殺した……その感触すら、生々しく身に蘇るように、リアルな夢……。
珠生は少し吐き気を感じて、口を押さえた。
——気持ち悪い……。もう、頭がおかしくなりそうだ。それにあの、激しい感情。
淡々と穏やかに生きてきた珠生にとって、あんなにも強烈な憎しみや罪悪感は背負いきれないものだった。頭のねじが外れてしまいそうなほどの苛烈な感情体験に、脳がついていかない。
珠生はよろりと立ち上がると、部屋を出た。
「あ、珠生、おはよう」
そこには、珠生と負けず劣らず真っ青な顔をした父が、ダイニングに座って水を飲んでいた。父親の存在を見て、珠生はそこが現実であると、はっとする。
「昨日はごめんよ……あんまり、記憶が無いんだけど……」
「いい大人なんだから、記憶がなくなるまで飲むなよ」
珠生はため息混じりにそう言うと、冷蔵庫を開けて自分も水を飲んだ。健介は頭を押さえて、うーんと唸っている。
「お前の入学式に出れたのが嬉しくってな、学生たちにいっぱい喋っちゃったよ。それでピッチが上がっちゃったんだろうなぁ……」
「全くもう。じゃあ朝ごはんはいらない?」
「うん……いい」
「そう」
珠生もそう食欲はなかったが、何か胃に入れておきたい気もして、食パンをトースターに入れた。タイマーをセットする。
「父さん、どうやって帰ってきた?」
「舜平さんが担いで帰ってきたよ」
「ああ……そう。悪い事したなぁ、いい成績つけてあげなきゃ……」
「ちょっと上がってもらったけど。その後また飲みに行ったよ」
「いやぁ、若いってタフだなぁ……」
珠生は昨夜の舜平の行動ですら、まるで夢の中の出来事であったかのように感じていた。
しかし舜平の唇の感触を思い出すにつけ、どくんと胸が切なくなった。こんな感情にも、振り回されっぱなしだ。
「もう少し寝たら? 今日は大学行くの?」
「いや……行かない」
「そう。俺、また夜出かけるから」
「え、どこ行くの?」
「……友達と約束があるんだ」
珠生は一瞬どう言おうかと迷ったが、無難にそう言っておくことにした。健介は嬉しそうに笑うと、
「そうか、友達できたんだな。そうかそうか、良かったなぁ」としみじみ呟いている。
「夕飯、作っておくから」
「ごめんね、いつも」
「いいよ、向こうでも家事はずっとやってたしね」
珠生はトーストにマーガリンを塗りながら、事も無げにそう言った。美味しそうなトーストの匂いに、健介は少し気持ち悪そうな顔をした。完全なる二日酔いだろう。
「すまん、寝るよ……」
「はいはい」
健介はよろよろとダイニングを出て、自室に引きこもった。
珠生はトーストをかじりながら、穏やかな現実がちゃんとそこにあることを確認するように、拳を握り締めた。
——しっかりしなきゃ。ここが現実だ、夢になんか、囚われるな。
珠生はTVをつけると、のどかな旅番組を眺め始めた。
赤い布でできた幟が風にはためく。自軍を鼓舞する雄叫びが響き渡ると同時に、ずずず……という地鳴りと共に大地が揺れて、黒い鎧の群れがみるみる目前に迫ってきた。
目を見開いて地を蹴ると、身体は羽のように軽く舞い、空を切るかまいたちのように素早く動く。瞬く間に鎧武者たちと間合いを詰め、その指から禍々しく生えた鉤爪で、確実に相手の首を斬り落としてゆく。
がしゃん、どしゃり。兜頭が地面に落ち、じわじわと、赤い血の池を作り出す。鉤爪を振り上げ、奪ってきた数多の命、浴びてきた生暖かい血飛沫。敵を斬り裂き血を浴びることに本能は歓喜し、口元には自然と笑みが浮かぶ。
しかし、その心は冷えていた。
ひらりと空中に跳び上がり、死体の山を超えて総大将の目の前に降り立つ。一際立派な黒鉄の鎧の男の首を、引きちぎる。
恐怖に歪んだ顔、恨みのこもった視線。
血の臭い、真っ赤に染まった白い狩衣。
この身を押しつぶすほどの、罪悪感。しかし抑えることもままならない、この血の疼きと、猛り。
奥歯を噛みしめて、目を閉じる。
——千珠。
振り返ると、そこには華々しい緋色の鎧に身を包んだ若い男の姿。その背後には、味方の兵士たちの群れが見える。
動揺を隠せ……。
俺は鬼だ。
人間を殺すために、ここに存在している鬼なのだ。
決して、人間どもに隙など見せてはならない。
ここに存在する理由を、見失わないためにも。
❀ ❀
珠生は目を開いた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、微かに雀の声が聞こえてくる。
たった今まで、血の匂いのむせ返る猛々しい世界にいたはずだった。この爽やかな朝日は一体何なんだろう。
——どっちが現実なんだろう。
重たい身体をゆっくりと起こす。
掌を見つめ、手をひっくり返して指を見た。白くて頼りない指先には、鉤爪など見当たらない。ただの、生っちょろくて細っこい、自分の手でしかない。
しかし、この手で何百人もの人間たちを斬り殺した……その感触すら、生々しく身に蘇るように、リアルな夢……。
珠生は少し吐き気を感じて、口を押さえた。
——気持ち悪い……。もう、頭がおかしくなりそうだ。それにあの、激しい感情。
淡々と穏やかに生きてきた珠生にとって、あんなにも強烈な憎しみや罪悪感は背負いきれないものだった。頭のねじが外れてしまいそうなほどの苛烈な感情体験に、脳がついていかない。
珠生はよろりと立ち上がると、部屋を出た。
「あ、珠生、おはよう」
そこには、珠生と負けず劣らず真っ青な顔をした父が、ダイニングに座って水を飲んでいた。父親の存在を見て、珠生はそこが現実であると、はっとする。
「昨日はごめんよ……あんまり、記憶が無いんだけど……」
「いい大人なんだから、記憶がなくなるまで飲むなよ」
珠生はため息混じりにそう言うと、冷蔵庫を開けて自分も水を飲んだ。健介は頭を押さえて、うーんと唸っている。
「お前の入学式に出れたのが嬉しくってな、学生たちにいっぱい喋っちゃったよ。それでピッチが上がっちゃったんだろうなぁ……」
「全くもう。じゃあ朝ごはんはいらない?」
「うん……いい」
「そう」
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「父さん、どうやって帰ってきた?」
「舜平さんが担いで帰ってきたよ」
「ああ……そう。悪い事したなぁ、いい成績つけてあげなきゃ……」
「ちょっと上がってもらったけど。その後また飲みに行ったよ」
「いやぁ、若いってタフだなぁ……」
珠生は昨夜の舜平の行動ですら、まるで夢の中の出来事であったかのように感じていた。
しかし舜平の唇の感触を思い出すにつけ、どくんと胸が切なくなった。こんな感情にも、振り回されっぱなしだ。
「もう少し寝たら? 今日は大学行くの?」
「いや……行かない」
「そう。俺、また夜出かけるから」
「え、どこ行くの?」
「……友達と約束があるんだ」
珠生は一瞬どう言おうかと迷ったが、無難にそう言っておくことにした。健介は嬉しそうに笑うと、
「そうか、友達できたんだな。そうかそうか、良かったなぁ」としみじみ呟いている。
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珠生はトーストにマーガリンを塗りながら、事も無げにそう言った。美味しそうなトーストの匂いに、健介は少し気持ち悪そうな顔をした。完全なる二日酔いだろう。
「すまん、寝るよ……」
「はいはい」
健介はよろよろとダイニングを出て、自室に引きこもった。
珠生はトーストをかじりながら、穏やかな現実がちゃんとそこにあることを確認するように、拳を握り締めた。
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