琥珀に眠る記憶

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第1章 再会

1、父との暮らし

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 四月一日、京都。

 父親の家への引越しを終えて、あとは新学期を待つのみだ。久し振りに我が子と暮らせることに浮き足立っている父親も、今は春休みでのんびりしている。

 父親の名は各務健介かがみけんすけ。母親の姓を名乗っている珠生とは別姓だ。京都大学生物科学部の准教授から教授へと昇格して、二年目の春らしい。


「たーまき。ご飯、何にする?」
 珠生の部屋を満面の笑みで覗きこんでくる父親に、珠生はため息をついた。忙しい母親の代わりに、千秋と珠生は家事全般がこなせる。結局京都へ来ても、その生活は変わらないようだ。

「何にする? って、作るのは俺なんだけど」
「いやさ、お前の料理があんまりにも美味いから、父さんびっくりしちゃってさぁ。今夜はハンバーグがいいな」
「……分かった」

 健介と暮らし始めてまだ三日しか経っていないけれど、両親が離婚した理由は早々に推察できた。
 バリバリとなんでもこなす強い母親に対して、父・健介はあまりにも夢想的で、まるで無邪気な子どものよう。対照的な二人が若い頃に惹かれ合ったのは理解できるけれど、いざ子どもを育て、家庭を成立させていくにはいささか頼りない男だと珠生は思う。

 父が暮らすのは、京都市北区にあるマンションの一室だ。五階建てのこのマンションの周りは、戸建ての住宅地とささやかな畑が道路脇に並ぶような、京都らしさなど見当たらない住宅街の中にある。山が近く、のんびりとした空気が漂っている地域だ。夜なんかはえらくしんとしていて、騒がしかった関東の家に比べると少し寂しい。

 市街地からは離れているためかマンションはそこそこの広さがある。築五年の3LDK、珠生一人を新たに受け入れるくらいは余裕だ。与えられたのは、リビングの奥にある七畳の洋室。窓も大きくて部屋の中は明るく、かなり快適だった。しかも既にぴかぴかのベッドや机が据えてあり、父からの歓待ムードがひしひしと伝わってきて、ちょっと嬉しかった。

 その日も、ぶらぶらと父とスーパーへ歩く。物心ついてから、そんなことは一度たりともしたことがないから、高校一年生にして初体験だ。
 健介はひょろりと細長く、羨ましいことに180㎝以上の背丈がある。珠生はあまり運動をしてこなかったせいか、小柄な母の遺伝子を受け継いでしまったせいか、身長は165㎝ほどしかない。

 贔屓目に見ても、健介は若々しい。好きなことを仕事にしているからなのか、一人暮らしの気ままな生活のせいなのか、実年齢は四十五歳だが三十代前半にしか見えない。女子大生にもさぞかし人気があるのでは、と再会した時は推測したものだが、父の生活と性格を改めて間近で見ると、それはありえないだろうなという結果に落ち着いた。

 健介と自分はよく似ていると思う。二人とも人にあまり興味がなく、淡々と我が道を突き進むタイプだ。数年ぶりの同居だが、意外とすんなり馴染みつつあるのはそのためだろう。
 結局あまり口をきかないまま、スーパーからの帰路につく。そんな沈黙も苦痛にならないというのも、相性が良い証拠なのかもしれない。

「京都観光、しないのか?」
「……あんまり興味ない」
「そっか。まぁ、高校大学とこっちで過ごすなら、そのうちあちこち行くようになるだろ」
「どうかな。俺、あんまり人付き合い好きじゃないから」
「ははは、僕もだ」
 健介は笑った。珠生はじっとそんな父の横顔を見上げてみる。

「何で全然向こうにに帰って来なかったの? 別に、俺は怒ってないけど。母さんと千秋は怒ってたよ」
 健介は珠生を見下ろすと、苦笑した。
「だよな。まぁ……みんなには会いたかったけど、なかなか脚が向かなくて。駄目な父親だということは、百も千も理解してるんだ」
「だろうね」
「家族ってのは、きれいなだけのものじゃないだろ? 僕はそこに巻き込まれていくのが怖いんだよ」
「……ちょっと、分かる気もするかな」

——俺も、千秋の眩しさに負けたんだ。

 もちろん、千秋のことは大切だったし、自分が一番理解していると思っている。しかし、この世は二人きりで回っていくものではなく、二人を取り巻く多くの人間が、様々な影響を生み出しながら動いている。
 元気ハツラツな千秋と比較され、自分のリズムを乱されることは、珠生にとってはとてつもなく苦痛だったのだ。

 お前は男のくせに駄目だなとか、何でそんなに暗いの? 千秋はあんなに元気なのに、だとか。
 本当はお前も女なんじゃねーの? 確かめてやろうぜ、だとか。パンツを脱がされかけたことも一度や二度ではない。

 そこへ流星の如く颯爽と千秋が現れるものだから、珠生の立場などあったものではない。そしてまた、女に助けられる情けない奴なんていう評価がついて、さらに卑屈になる日々だった。

 そんな場所に、留まり続けたいと思う奴がどこにいる。珠生は一人で、県外を受験することを決めた。

「お前がこっちに来たい、って電話くれた時、父さん嬉しかったな」
「家族が嫌なんじゃなかったの?」
「怖いだけで、嫌なんかじゃないよ。それにお前は、小さい頃から僕と似ていると思っていたしね。多分、うまくやれると思った」
「まあ、意外と楽だな。あっちにいる時よりも」
「だろ?」

 健介はぽん、と珠生の頭に手を置いた。大きな、暖かい手だった。
 そんなことをされたのは、何年ぶりだろう。常に忙しく、母性の欠片も持ち合わせていないような母親には、こんな風に触れられた記憶がない。こんな些細なことなのに、泣きたくなるほどそれが嬉しい。珠生は涙がこぼれないようにぎゅっと目を閉じて、うつむいて歩いた。

 健介はそんなことに気づく様子もなく、珠生の頭をぽんぽんと撫でている。

 暮れなずむ帰り道を、親子並んでゆっくりと歩いた。
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