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第3章 ー結糸ー

3、支えたい

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「傷、痛むか?」
「いえ……ちゃんと手当てしてもらえたんで、平気です。それより……あの」

 結糸の狭くて質素な部屋に、葵がいる。
 きらびやかな葵には、あまりに不似合いな小さなベッドに腰掛けて、ゆったりとした楽なシャツに着替えた結糸の背中を、優しく支えてくれている。


 ——何もないい部屋なのに、葵さまがいると全然雰囲気変わってゴージャス……って、いや、そんなことはどうでもよくてだな……。


「すみません。俺……あんなこと言って」
「あんなことって?」
「オメガになんてなりたくなかったみたいなこと、言っちゃって……」
「あぁ……うん」

 葵はちょっと戸惑ったように表情を曇らせ、言葉を選ぶように口をつぐんだ。結糸はどきどきしながら、葵の次の言葉を待つ。

「俺はお前と番いたい。……つまりそれは、結糸に俺の子どもを産んでほしい、ってことにもなる。でももし、そんなことをしたくないっていうんなら、俺はそれでも構わないよ」
「え……!? でも、蓮さまが望んでおられるのは、国城家の血を継いでいくことでしょう? もし俺と番ったら、葵さまは他のオメガを抱けません、子ども、できないじゃないですか」
「俺はもう、他のオメガを抱く気なんてないよ。結糸がいてくれたら、それで、」
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺……葵さまに出会うまではあんなふうに思ってたけど、でも……」
「でも?」

 ほんのりと不安げな色を浮かべた葵の瞳が、心細げに揺れている。いつになく可憐な表情を見せられて、結糸の胸はきゅんと跳ね上がった。

「俺は……葵さまの子どもなら、孕んでもいいって思ってます」
「結糸。無理しなくていいんだ。俺は、」
「無理なんてしてません! 俺……葵さまに出会うまで、ほんとに自分の身体が嫌でした。毎日毎日薬飲まなきゃやってられなくて、いつ発情しちゃうか分かんなくてヒヤヒヤして……そんな毎日が、本当に苦痛で、どうして自分はオメガなんだろうって、すごく不満で」
「……」
「でも、葵さまのそばにいると、そういうこと忘れられたんです。葵さまと過ごす時間が楽しくて、そんなことどうでもいいかなって思えたんです。それに、葵さまに頼ってもらえることが何よりも幸せで、あなたの力になれることが嬉しくて、嬉しくて……」

 葵をひたと見つめながらそう訴えると、葵の身体がふわりと結糸を包み込んだ。ぎゅっと強く抱きしめられ、葵の体温と鼓動を感じた。

「俺にとって葵さまは、唯一無二の存在です。葵さまの子どもなら、俺……産みたいって思うんです。今までそんなこと、思ったことなかったのに」
「……結糸」
「ただ……俺みたいのが生んだ子が、国城家の跡取りとして相応しい、有能な人物に育つかってのがすごく不安っていうか……。お、俺、全然勉強得意じゃなかったし、顔とか、須能さんや綾世先生と比べても全然地味っていうか、その……」
「何言ってるんだ。そんな心配、しなくていいよ」

 葵は優しい声でそう言うと、少し身体を離して結糸を見つめた。ついさっきは不安げに潤んでいた紺碧色の瞳は、今はどことなく嬉しそうにキラキラしている。澄んだ色彩があまりにも美しく、結糸は陶然と葵を見上げていた。すると不意に唇が重なり、結糸はハッとして目を瞬く。

「結糸の顔、俺はすごく好きだよ。すごく可愛いし……可愛いなんて言われても嬉しくないかもしれないけど……」
「え、あ、いえ、そんなことはないですけど、」
「特にお前の笑った顔、すごく可愛くて、きれいだ。ずっとずっと見てみたかった。こうして間近で結糸の笑顔を見られることが、俺にとっては奇跡みたいなものなんだぞ」
「えっ……」
「それに……お前が俺の子を孕んでもいいと思っててくれることも、すごく嬉しい」
「あっ、はい……すみません。さっきは不安にさせちゃって……」
「ほんとだな。振られるんじゃないかって思ったよ」
「ま、まさか! ふりませんよ! ありえませんってそんなこと!!」

 葵の言葉をムキになって否定していると、葵はにっこりと愛らしい笑顔を浮かべた。目が見えなかった頃のように結糸の顔を指先で辿りながら、柔らかく目を細めて、白い歯を覗かせて。


 ——ふぁ……なんて綺麗なんだろう……。


 ちょっと笑いかけられただけでぽーっとなっていると、葵が結糸の唇を親指で撫でた。そしてもう一度、葵の唇が結糸のそれに重なった。

「……ぁ……」
「好きだよ、結糸。……本当に……」
「ちょ……だ、だめですよ、ここじゃ……っ……ン」
「ちょっとだけだ」
「ん……ふっぅ……」

 葵は結糸の唇の弾力を味わうように、下唇を食んだ。葵の唇はしっとりと濡れていて、その柔らかな心地よさは素晴らしく、目眩がするほどの甘いキスだ。

 そしてキスの隙間に、葵は結糸を熱く見つめる。金色にきらめく長いまつ毛を上下して、優しく微笑む葵の美しさ、そして葵の唇の甘さに、結糸はすっかり心を奪われていた。

「は……っ……」
「どうしたんだ。とろんとした顔になってきた」
「……だって、葵さまのキス……」
「そんな顔を見せられたら、こっちも収まりつかなくなるんだけどな」
「んっ……ぁっ」

 ゆったりとしたシャツの中に、するりと葵の手が滑り込んできた。脇腹から背中を撫で上げられ、結糸はびくんと背筋をしならせて身悶えた。その間も、葵はゆったりと結糸の口内を愛撫して、時折、身震いするほどに色っぽい吐息を漏らす。徐々に熱っぽくなってゆく葵の吐息に、結糸の性感は素直に反応してしまう。

「ぁ……あおいさまぁ……っ……」

 いよいよベッドに押し倒されるか……というところで、コンコンコンコンコン!! とせわしなくドアがノックされた。そしていつものように、返事も聞かずに勢田がドアを開け放つ。

「結糸! 怪我の具合どう…………あっ」
「せ、せたさん……!? だからノックの直後ドア開けないでっていつも言ってんのに!」

 半ば押し倒しにかかっている葵の体勢や、とろんと惚けた結糸の表情で、勢田は全てを悟ったらしい。一瞬だけきょとんとした後、すぐに怒ったような顔をしながらずかずかと部屋に入ってくる。

「コラァ! こんなとこでイチャイチャしてんじゃねーぞ!! ……ですよ!」

 怒りつつも、葵への敬語をとっさに付け加えつつ、勢田はごほごほんと咳払いをした。二人は慌てて身体を離し、並んでベッドに腰を下ろす。

「あのですね、葵さま。そういうことしたいなら、ご自身のお部屋でなさってください。こいつはどこ連れて行ってもらって構わないんで」
「……すまん」
「使用人部屋は人の出入りが多いです。今はまだ、オープンにはできない時期でしょうが。油断するなとご忠告申し上げたばかりですが?」
「……ごもっとも」
「ったく……。で、結糸の怪我は?」
「あ、はい、全然平気です」
「ほんとかよ。……須能さまにやられたってことは……どうなったんだ? ご理解はいただけたのか?」
「や……。理解してもらえたのかまでは分からないけど、俺たちのことは見守るって……」
「ふうん、そうか。……」

 勢田はどことなく痛ましげな表情をしつつ、結糸の傷と、傍で結糸を気遣う葵のことを見ている。そしてはぁと一つため息をつき、きゅっとアスコットタイを締め直した。

「……そうそう、連絡があって来たんだった」
「え? なんですか?」
「蓮さまが、もうすぐお着きになる。そろそろ、葵さまのパーティの日も近いからな、ここでお休みになられることも増えるだろう」
「兄さんが……そうか」

 蓮の名を聞くと、結糸の身体は一瞬にして強張ってしまう。
 葵はいつ、蓮にこのことを話すのだろう。そして、葵と結糸の関係を知った蓮が見せる反応とは、どのようなものだろう……。そんなことを考えてしまえば、結糸の手足からは血の気が引き、指先が小さく震えてしまう。

 そんな結糸の反応に気づいたのか、葵はぎゅっと結糸の手を握りしめた。ほんの少し節くれだった長い指が、結糸を励ますようにぬくもりをくれる。結糸はそっと葵を見上げて、力なく笑みを返した。

「うまくやれよ……って俺が言っていいのか分からないですけど、ここんとこ、蓮さまは体調があまりよくないようだから、ちょっとは労って差し上げてくださいよ」
「兄さん……そうなのか? 結糸も前、兄さんに覇気がないとかって言ってたよな」
「あっ……それ、あんまり言わないでほしいです……」
と、結糸が小さな声でそう言うと、ジロリと勢田が結糸を睨んだ。結糸は思わず縮こまる。

「それに、葵さまは何年振りかの蓮さまとのご対面だろ? 蓮さまも、葵さまの回復を何よりも心待ちにしておいでだ。パートナーがどうとか子どもがどうとか、そういう話も大事だろうが、まずはちゃんと、蓮さまと向き合うことです」
「……うん、そうだな。ありがとう、勢田」
「いえ……って、なんか、申しわけございません。結糸のせいで、葵さまへの口調まで雑になってきてしまって……」
「ちょ、俺のせいにしないでくださいよ!」
「ふふっ、いいよ。それくらいの方が心地いい。結糸と同じ扱いで構わないさ」
「いやいや……それはさすがにちょっと」
「俺への扱いを丁寧にしたらちょうどいいんじゃないすかね」
と、結糸は勢田にそんなことを進言してみた。すると勢田はまたジロリと結糸を睨みつけ、わしわしと結糸の髪の毛をぐしゃぐしゃにした。

「わっ、何すんですか!」
「生意気言ってんじゃねーぞ! ったく心配かけさせやがってこのガキは!」
「すみませんって! もう……ほんっと雑」
「何か言ったか」
「いいえ、何も」

 むくれながら勢田を見上げると、ふっと葵が小さく吹き出す声が聞こえてきた。

「親子みたいだな、勢田と結糸」
「えー、やですよ。こんな口うるさいの」
「こっちこそお断りだよ! てか、俺、そんな歳じゃないですから」
と、勢田が渋い顔をするのを見て、葵はまた声を立てて笑った。

 そうは言ったが、勢田の荒っぽい励ましや助言に、結糸はとても励まされた。
 それは葵も同様なのかもしれない。二人の時に見せた表情とはどこか違い、明るく軽やかな、寛いだ笑みを見せている。


 ——葵さまだって、きっと不安なんだ。俺ももっとしっかりして、葵さまを支えられるようにならないと……。


 結糸は葵の手をそっと握り返し、強くあろうと心に誓った。

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