Blindness

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第1章 ー結糸ー

1、盲目のアルファ

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 パリッと糊の効いた白いシャツに黒いベスト、ほっそりとした脚に黒いスラックスを履いた小柄な少年が、大きな窓を覆うカーテンをさっと引いた。薄暗かった部屋には光が溢れ、その眩しさのあまり少年は思わず目を細める。

あおいさま、おはようございます」

 はっきりとした目鼻立ちをした、快活そうな少年である。栗色の髪はさっぱりと短く切られ、前髪はなだらかな上がり眉の上でさらりと斜めに流している。名家の使用人らしく、こざっぱりとした清潔感を漂わせる少年だ。

「んー……」
「今日は帝王学の先生が来る日ですよ。あの人は時間にうるさいんだから、早く着替えないと」
「……はいはい。わかってる……」
「今日はいい天気です。雲ひとつなくて、青空が高くて、太陽が眩しいですよ」
「ああ、明るいな。それはなんとなく分かる。それにしても、もう少し文学的な表現はできないのか?」
「ぶ、文学的……ですか? ええと」
「ふふ、ごめんごめん、冗談だよ。……ところで結糸ゆいと、俺の服は?」
「あ、すみません。すぐにお召替えしましょう」

 ベッドの上にもぞりと起き上がったのは、一人の青年である。突然部屋を満たした明るい朝の光にも、まるで眩しそうな素振りを見せない。

 白に近い金色の髪の毛をくしゃくしゃに乱した寝起き姿とはいえ、その青年の容姿端麗さがそこなわれることはない。西洋の血が混じっているであろう彫りの深い顔立ちは、まるで精巧に作り込まれたビスクドールのようだ。白磁のような白い肌には若々しい艶があり、伏せ目がちの目元を覆う長い睫毛が、頬に影を落としている。

 結糸と呼ばれた少年は葵のそばに寄ると、綺麗に畳まれたシャツとズボンを手渡した。葵はそれを傍に置き、するすると無造作に寝間着のTシャツを脱いでいく。露わになった葵の上半身から、結糸はすっと視線を外した。


 ——別に目をそらす必要もないのに……。


 と、結糸は気恥ずかしさを堪えつつ、葵の身体をそっと見つめた。こうして葵の着替えを手伝うようになって一年あまりが経つのに、この男の艶かしい美しさにはまだ慣れない。

 引き締まった肉体にはバランスよく筋肉がついていて、若々しい青年特有の瑞々しさがある。しかしその肌の色は、痛々しいほどの白さだ。陽の光に溶けてしまいそうなほどの危うさを感じさせる、儚げな美貌。結糸にとって、葵は何よりも美しい存在だった。

 葵がシャツを手に取って羽織ろうとしたところで、結糸はあっと声をあげ、葵の腕にそっと触れた。

「葵さま、シャツが裏表逆ですよ」
「え? ほんとか?」
「俺がやりますよ。これ、襟が高くてボタンも小さいから、留めにくいと思うし」
「ああ、頼む」

 結糸にシャツを手渡す葵の目線が、ふと結糸の方へと持ち上がる。しかしその瞳は、全く光を映してはいなかった。
 形良く配置された二重まぶたの中に嵌った双眸は、薄っすらと白く濁っている。まるで、瞳の裏に霜でも付着しているかのように、葵の瞳を曇らせているのだ。

 葵は三歳の頃に患った脳炎の後遺症で、視力を失った。外が明るいか暗いか、判別出来るのはその程度だ。

 三歳以前の記憶をもとにイメージできるものは多少あるものの、葵が頼りにできるのはもっぱら視覚以外の情報だ。視覚を失ってから十六年と月日が経っていることもあり、葵はたいていの身の回りのことは自分で片付けることができる。だが、人の手を借りなくては不便なことも多いのだ。  


「はい、できました」
「うん、ありがとう」
「さぁ、朝食を食べにいきましょうか。どうぞ、手を」
「ん」

 結糸が葵の手を取ると、導かれるように葵は立ち上がり、結糸の肩にすっと手を置いた。
 身長一六五センチの結糸に対し、葵は一七九センチという長身である。生まれ持った遺伝子の優秀さのなせる技だろうと、葵を見あげるたびに結糸は思う。

 幼い頃の葵は、金色味のかかった深い色の瞳をしていた。
 日本人離れした華々しい容姿と、不思議な瞳の色は、国城くにしろ家の血を持つ者の特徴なのだ。

 国城家は古くから続く財閥のひとつであり、主に貿易業界にて権勢を振るう、クニシロ・ホールディングスの母体である。

 国城家は現在、葵の兄であるレンが家督を継いでいる。蓮は今年二十五歳、葵はもうすぐ二十歳だ。

 そして結糸は、今年十七歳。
 本来ならば学校に通っている年齢だが、結糸は諸々の事情があって、国城家で働いている。


 + 


 祖父が病に倒れ、深谷結糸ふかやゆいとには金が必要になった。
 結糸が十六歳の、夏の頃だった。

 結糸の祖父は高齢であったが、両親を早くに亡くした孫を引き取り、色々なことを教えた。豪快な優さと深い愛情をもって、結糸の生活を守っていた。結糸は、たった一人の肉親を守るためにも、入院費や生活費等の多くの金が必要だった。

 結糸はオメガだ。その気になれば、自分の性を利用して、生活を保つことも出来ただろう。
 オメガは希少種であり、国をあげて大切に保護される存在だ。生活は保障され、税金等の免除を受けることも出来る。さほど熱心に働かなくとも生活が保障されるオメガの存在を、羨む声も少なくはない。

 しかしその実、オメガは『権力者たるアルファの子を産むための道具』として利用されているだけだと、揶揄されることも少なくはない。

 α性をもつ者は、不思議とカリスマ性を身に備え、肉体的にも頭脳的にも素晴らしく秀でている者が多い。それゆえアルファには権力者が多く、この国の中枢を担う者はほとんどがアルファである。

 オメガは、そのアルファを産み出すことのできる唯一の存在なのだ。それゆえ、オメガは国によって保護される。
 そして保護管理下にあるオメガの中でも、優劣がつけられる。家柄が良く、賢く、容姿に秀でた個体を得るために、アルファは多額の金を払う。そうして、オメガはアルファたちのもとへ嫁ぐのだ。

 しかし、結糸はそんな生活はごめんだと考えている。まるで市場の家畜のように競りにかけられ、男でありながら男に抱かれて子を孕むなんて。飼い殺され、産むだけの存在として生きるーー結糸にとってそれは、考えたくもない未来だった。 

 十五歳の頃から、結糸はずっとβ性を装い続けている。十五になったその月に、初めての発情期を迎えたのだ。一週間続いた発情期の間中、結糸はずっと自室に引きこもり、コントロールを失って昂ぶり続ける肉体を慰めながら過ごすことしかできなかった。

 祖父は結糸の考えを理解していたから、発情ヒートに苦しむ結糸のことをそっとしておいてくれた。
 毎日、食事をドアの外に置いてくれ、学校には『孫はひどい風邪なのだ』と伝え、教師や友人たちの訪問を断ってくれた。そして結糸の性について、決して誰にも他言しないと言ってくれた。

 当時通っていた中学校は、普通の公立中学校だった。結糸の友人たちは全員ベータで、ごくごく普通の家庭で平均的な生活を営む、平凡で穏やかな人々だった。

 発情中のオメガが発する甘いフェロモンの香りは、普段穏やかな性質のベータでさえも狂わせる。穏やかに作り上げてきた友人たちとの関係を狂わせるのが嫌で、それ以来結糸は常に抑制剤を服用していた。これさえ飲んでいれば、自分がオメガだと気づかれることはないはずだ。このまま平穏に、毎日が過ぎていくと思っていた。

 しかし、唯一の理解者である祖父が倒れたことで、結糸は不安の渦に突き落とされた。祖父の容体、生活のこと、学校のこと……そればかりではなく、自分のΩ性が外に露見するのではないかと、悪い予感ばかりが頭を巡った。

 のんびりとしてはいられない。結糸はすぐに、「入院費などで金が必要だ」ということを担任教師に相談した。すると数日のうちに、住み込みでの働き口を紹介してもらえることになったのだ。ただ、学校は退学しなくてはならないし、住み込みという意味での気苦労については覚悟しておけと諭された。

 祖父がいない家など、帰る価値もない。結糸は一も二もなくその話に飛びついた。担任教師はベータ男性だが、大学時代から付き合いのあるアルファの友人のつてがあり、仕事を紹介してもらえることになったのだった。

 求められていた人材は、「若くて健康なベータ男性」であり「24時間365日の住み込みが可能な者」、そして「どこの名家とも繋がりのない人間」。まさに結糸はうってつけだ。
 教師とともにアルファの屋敷へ趣き、執事長による面談を受けた結糸は一も二もなくその条件を即座に呑み、その場ですぐに雇い入れられることになった。

 安心した。
 祖父が倒れてからというもの、顔には出さずとも結糸はずっと不安だったからだ。先行きの見えない生活、そして自身の性のこと……。金のため、祖父のために、自身の性を利用しようかと考えたこともあった。

 しかし、結糸は仕事を得ることができた。何が何でもここで頑張らねばという気持ちで、結糸は与えられた使用人の制服に袖を通したのだった。


 そして充てがわれた仕事は、盲目のアルファ・国城葵くにしろあおいの身の回りの世話だった。

 おおかた、庭仕事か何かを申し付けられるのだとばかり思っていた。だが、結糸に任せられることとなった仕事は葵の手足になることだった。

 国城家とは、一般庶民の結糸でさえも名前を聞いたことのある大財閥だ。まさかの事態に怖気付きそうになった結糸だが、ここで尻込みするわけにはいかない。持ち前の明るさと威勢の良さをフル活用して、葵の目となり手となって、葵の力になるべく努力を重ねてきた。

 葵はとても紳士的で、大財閥の御曹司だというのに、まるで偉ぶったところがない。年齢もひとつしか変わらないのに、神々しささえ感じさせられるほどに聡明な青年だった。初めのうちは何においても不慣れで、失敗ばかりの結糸を見放すこともしなかった。恐縮する結糸をからかうような口調で和ませながら、逆に教わることもたくさんあった。

 葵は、これまでに出会ったことがないくらいに美しく、気高い存在だ。そうした葵の人となりに触れ、気づけば憧れを抱くようになっていた。

 ともに過ごす時間が長くなるにつれて、その憧れは形を変え……浅ましくも、結糸は葵への恋心を秘めるようになってしまったのである。

 オメガである自分を隠し、こんな性に生まれついてしまったことを心底疎んでいるというのに、結糸の本能は、この美しい男に選ばれたいと切望している。そんな自分の本能的感覚に、結糸は気がついてしまった。


 取り立てて賢くもなければ容姿が秀でているわけでもなく、風邪をひきにくいといった体の丈夫さだけが唯一の取り柄でしかない自分が、国城葵につがいとして選ばれるわけがない。国城家は代々、優秀な血筋を残すためにとびきり有能なオメガを選ぶのだ。身元のしっかりとした見目麗しいオメガは、権力者の間でも奪い合われるほどの人気ぶり。そんな中、国城家はいつでもその奪い合いに勝利してきた。だからこそ、国城家は今でもこうして国一番の権力を持ち続けている。

 つまり、結糸が葵に選ばれる可能性はゼロ。
 オメガであることが露見してしまえば最後、仕事を失い、保護施設に連れて行かれ、見ず知らずのアルファの元に売られていくのが関の山。それはつまり、結糸が最も望まない人生を、歩まねばならないということに他ならない。


 そう、オメガであることが知られてしまえば、結糸は国城家で働くことはできなくなる。
 葵のそばに、いられなくなるということ……。それだけは、嫌だった。選ばれなくてもいい、使用人としてでもいいから、葵のそばに置いて欲しい。それが結糸の願いだった。


 そのためにも、結糸はオメガであることを隠し通さねばならない。
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