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第二章 青葉にて
十七、過去を語る
しおりを挟む柊は、宇月と珠緒を城へ連れて帰ると言って、青葉の寺からすぐに去っていった。
千珠と舜海は山門の下に並んで立ち、寺を後にする柊たちを見送った。
さっきは少しばかり取り乱しかけた千珠であったが、今は平静を取り戻している。
槐の様子をあえて聞かなくとも、舜海の平静な顔を見て全てを察したようだ。千珠は安堵したように微笑む。
「すまないな……世話をかけた」
「ほんまやで。兄弟揃って、手のかかる」
「……礼を言ったのが間違いだったか」
千珠がじろりと舜海を睨むと、舜海は楽しそうに笑った。
「夜顔は?」
「山吹と楽しそうに喋ってるよ」
「あいつが? 楽しそうに? 嘘やろ」
「本当だよ。見りゃ分かる」
「ほう」
舜海は疑わしげに顎を撫でて、千珠を見下ろす。月明かりに照らされた千珠は、今も尚美しいと思った。
舜海の視線に気づいた千珠は、ふと舜海を見上げる。片耳だけになった赤い耳飾りが、きらりと月光を浴びてきらめいた。
「何見てる」
「……いや。今夜、話すんか?」
「ああ、話すつもりだ。ありのままを」
「そっか。一人で大丈夫か?」
「そこまでお前に甘えられないよ」
「……せやな」
千珠はふと立ち止まる。そのまま二、三歩歩きかけた舜海は振り返った。
どこか心細げに自分を見つめる千珠の目が、少年の頃の千珠と重なって見えた。
あの頃の丸く大きかった目元と比べると、切れ長になり大人びた風貌へ変化していたが、今も琥珀色の美しい瞳は変わらない。
「思えば、夜顔に絡んだ出来事では、色んなことがあったな。お前に刃を向けたこともあったっけ」
「……ああ、雷燕の時か。あん時は殺されるかと思ったわ」
舜海は苦笑して、千珠を見つめた。千珠も、申し訳なさそうに少し微笑む。
「あの時、俺は本当にここへ戻ることはないと思っていた。……お前が来てくれなければ、俺は……」
自分を力いっぱい殴りつけ、鬼の形相で自分を叱りつけた舜海の、必死な表情が蘇る。その直後、千珠を絶対に離すまいと抱き締めてくれた、力強い腕の感触も。
ざぁあっと、二人の間を涼やかな強い風が吹き抜けた。長い銀髪を乱された千珠の琥珀色の瞳が、微かに細くなる。
「……きれいやな、お前は今も」
「……知ってるさ」
千珠の言葉に、舜海は笑う。千珠も目を伏せて微笑むと、また月を見上げた。舜海は、どことなく心細気な千珠の横顔を、熱を孕んだ眼差しで見守っている。
「なぁ、舜海」
「あ?」
「ちょっと、こっち来い」
「は?」
「いいから、こっち来い」
不意にそんなことを言い出す千珠の行動についていけず、舜海は首をひねりながら千珠に近づいてみた。すると千珠は舜海の法衣の襟を掴み、ぐいと自分の方に引き寄せる。
「わっ」
千珠は舜海の肩に額を寄せて、動きを止めた。舜海の心臓が大きく跳ねる。
昔のように身体を寄せて来ないのは、千珠なりの遠慮なのだろう。舜海はため息混じりに微笑むと、千珠の肩に手を置いた。
「……不安なんやろ。夜顔に話すのが」
「そういうわけじゃ……」
「阿呆、顔見りゃ分かるわ。お前は相変わらず隠し事ができひんな」
「……五月蝿い」
「背、伸びたな。昔はもっと……」
千珠を抱きしめたくなる気持ちを、堪える。舜海は千珠の肩を掴んだまま、諭すように語りかけた。
「妻子あるお前が、何を子どもみたいに甘えてんねん、阿呆」
「……分かってる」
「でもま、お前は夜顔の事になると、昔からいつも、こうやな。何を不安がってる」
「……」
「千珠、大丈夫や。お前はその都度、考えぬいてこの答えを出してきたやろ。それをありのままに伝えたらいいと思うで」
「うん……」
「お前の想い、あいつなら分かるはずや。そう思わへんか」
「……うん。そうだといいな」
千珠が軽く息をついて、額を離そうとするのが動きで伝わってくる。舜海は思わず肩を引き寄せ、千珠を強く抱きしめた。
久しぶりに触れる千珠の体温と甘い香りが、舜海の鼻孔をくすぐる。しかし腕の中で千珠が緊張するのが分かり、舜海ははっとしたように息を飲んだ。
自分の腕の中で安らぎを得ていた昔とは、違うのだ。
「……悪い」
舜海はぱっと身体を離して、くるりと背を向けた。
「つい、昔の癖が出た」
「……」
「お前がひっついてくるからやで。甘ったれめ」
振り返って千珠に文句を言うと、不服そうに千珠が唇を尖らせている。しかし言い返してくる様子はなく、千珠はぽりぽりと爪で頬をかいた。
「甘ったれとか言うな、相変わらず失敬な男だ」
「へいへい、そらすんまへんな」
「お前と馬鹿話してる暇はないんだ。夜顔を待たせてるんでね」
「おうおう、さっさと行ってこい」
「言われなくてもそうする」
千珠はつんとそっぽを向いて、さっさと離れの方へと歩き出した。舜海は袖を抜いて、衣の中で腕を組むと、その背中を見送った。
しかしニ三歩て足を止めた千珠は、くるりと舜海を振り返る。
「……ありがとう……な」
「ええから、とっとと行け」
舜海は蚊でも払うように手を動かすと、自分も踵を返して法堂の方へと脚を向けた。
千珠は息をついて、ぼんやりと明かりの灯った離れを見やる。
——気合は入った。さぁ……長い話になる。
足を踏み出すと、ざ、と草履が土を踏む音がする。千珠は夜顔の元へと歩き出した。
*
夜空にぽっかりと浮かぶ下弦の月を見上げながら、二人は並んで座っていた。
夜顔は緊張した面持ちで、もぞもぞと山吹が出してくれた湯のみを掌で弄んでいる。
千珠は、ひとつ息を吸って、夜顔を見た。
「……大きくなったな」
夜顔が千珠を見る。漆黒の大きな瞳に、千珠の白い姿が映り込んでいる。
「お前と初めて会ったのは、都の東本願寺という大きな寺の中だった」
「東……本願寺」
「お前は能登の国から、都へと連れてこられたのだ。佐々木猿之助……藤之助の兄によって」
「藤之助の、お兄さん……?」
「猿之助は、藤之助とは比べ物にならないほど攻撃的な男だった。お前は昔からとても強い力を持っていたから、それを利用しようとしたのだよ」
「……僕の、力を?」
「ああ、そうだ。お前を使って、都を壊そうとしたんだ」
千珠は夜顔に合わせ、易しい言葉で話すように心がけたものの、話を聞いている夜顔の顔は既に、少しばかり強張り始めていた。
「そんなお前を不憫に思い、人らしく育てようと手を尽くしたのが、藤之助だった。お前に夜顔という名を与え、我が子のように守ろうとした。しかし猿之助はそれを許さず、お前を武器として扱った」
「……僕は、何をしたんですか」
「お前は、人を殺めたんだ」
「……えっ……?」
夜顔の顔が凍り付く。千珠はじっと夜顔の目を見つめながら、続けた。
「何時の世も、力を持つ者は戦に利用されるのだ。俺も十四の時、光政と血の盟約を結び、光政を勝たせるために戦った。数百……数千の敵を、俺はこの手で斬り殺した」
「……千珠さまが……? 戦で……?」
「俺は人間に仲間を皆殺しにされ、一人ぼっちでここへ迷い込んだ。光政は俺に居場所を与え、戦に勝利をもたらすために俺の力を使ったのだ。
……俺は長年、罪悪感に苛まれた。父親が人間である俺にとって、まるで父をこの手にかけているような気持ちに襲われて苦しかった。でも、その甲斐あって戦が長引くことはなく、この世は泰平となった」
「たいへい?」
「平和ってことだ。……俺は、俺の意志でたくさんの人間を殺した。でもお前は、何の判断も付かない幼い頃に、猿之助の言いなりになったに過ぎない」
「……」
夜顔は、正座した膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
骨が白く浮き上がるほどに握りしめた拳の上に、ふわりと千珠の掌が重なる。
「お前が東本願寺で暴れた時、俺はお前のことを、まるで鏡の中の自分を見ているように感じた。人と妖の血を持つお前と俺、お前は俺だと、そう思った」
「……」
夜顔は千珠の目を見上げた。琥珀色の美しい瞳が、じっと揺らぐことなく夜顔の目を見つめている。
「だから、お前をあの地獄のような景色から解き放ちたいと思った」
「……」
「その時にお前に宿っていた凶々しい力は、その時に俺が全てお前から奪い取った。力を持たなければ、お前はただの子どもになれる、そう思ったからだ。藤之助にお前を託し、二度と都に戻らぬようにと伝えて二人を見送ったのが、十年前の春のことだった」
千珠はもう片方の手も持ち上げて夜顔の手を握ると、優しく微笑んで見せる。
「……そして今お前は、ここにいる」
「……」
夜顔は今にも泣き出しそうな顔で千珠を見つめていた。千珠は安心させるように夜顔の頭に手を置いて、優しく撫でる。
「あの……」
「何だ?」
「僕は……人を殺したのに、何にも、何にも、覚えてないんです……。悪いことをしたのに、罪を犯したのに……! そんなの、そんなのって、許されることじゃないですよね……?」
「……そんなことはないさ。事実、あの時のお前は、人というより獣に近かった。お前の意志ではなかったんだ」
「でも、そんなの……亡くなった人やその家族の人たちは僕のことを許さないよね? ずっとずっと、僕のことを怒って、恨んで、憎んで……」
「夜顔、落ち着け」
千珠はそっと夜顔の肩を抱き、涙を流して身体を震わせる若い身体を暖めた。そして静かに、語って聞かせる。
「憎しみや怒りといった感情は、破壊を導く危険なものだ。だが誰しもが、少なからず腹に抱えて生きている。それらを、一欠片も持たずに生きていくことは難しい。
俺だって、苦しんだ。今のお前と同じことを、繰り返し繰り返し考えて、でも答えなど出なくて、苦しかった。だが多くの出会いがあり、俺は俺の力を人のために振るうことで、答えを探してきたつもりだ。だから今俺は、のんびりここで暮らしている」
「……」
「お前には藤之助がいる。心休まる里もある。しかし、この先、お前の力はどうなっていくか分からない。潜在的な妖力が成長していく可能性だってある。夜顔過去を暴き、その力を利用しようと近づく者だって、いるかもしれない」
「そんな……」
「怖がらせたか? ごめんな。……でも、それをお前自身、しっかりと分かっていなければならない。怒りや憎しみに、訳もわからず呑まれてしまわないように」
「……はい」
不安げな顔をしている夜顔の頭を、千珠はまた優しく撫でた。
「怯えさせて、ごめん。俺にはこんな話し方しかできなくて……」
「……いえ、話してもらえて良かったと思います」
「お前はいい子だね。……藤之助との暮らしは、どうだ?」
今度は千珠が夜顔に尋ねた。
夜顔は藤之助のことを思い出してか、表情を緩めてこう言った。
「とっても楽しい。いろんなことを教えてくれるし、いつも優しくしてくれるんだ。僕……もっと小さい頃はなかなか人とうまく付き合えなくて、藤之助にいっぱい迷惑かけたけど……それでも藤之助は笑って僕といっしょにいてくれたんだ」
「そうか」
千珠が嬉しそうににっこりと笑う。
「今は結城様の里で暮らして……初めて友達もできた。ずっとずっと……あんなふうに静かに暮らせたらいいなって思う」
「そうだな。お前がそう望むなら、そうなるさ」
「うん」
夜顔は微笑んで、月を見上げる。その表情は穏やかに見えた。
「僕の……その過去は、どうすれば許してもらえるんだろう」
「そうだな……。お前が立派に医術を学び、病み人を助けることで許されるんじゃないかって、俺は思ってる」
千珠はそう言って、夜顔と同じように空を見上げた。
「たくさんの人の病を治すんだ。そうすればきっと、お前の罪は少しずつでも洗い流されていくよ」
「……そっか……」
夜顔は掌を見下ろした。
咲太の祖母、喜多を癒した時のあの感覚を思い出す。
千珠はじっと、そんな夜顔の横顔を見ていた。
「……お前は強い。力だけじゃない、優しいく強い心を持っている。その力を、何かを壊すために使うな。お前の大切な人を守るために使え」
「……はい」
「過去は過去だ。お前はしっかり前を向いて、笑顔で生きていくんだ。藤之助と一緒にな」
「……はい」
夜顔は顔を上げて、笑顔を見せた。
「ありがとうございます。千珠さま……」
鈴虫の声が響く涼やかな夜。
開け放した障子を抜けて、夏の夜風が部屋の中を吹き抜けていった。
二人はまたそれぞれ月を見上げ、各々の過去を振り返っていた。
知らされた夜顔の過去。彼はそれを、どう受け止めたのだろうか……。千珠は夜顔の凪いだ気を感じつつ、そんなことを考えていた。
全てを上手くは伝えきれていないかもしれない。でも、しっかりと前を向いて歩いて欲しい。幸せになってほしい……。
千珠の想いは、それだけだった。
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