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第三章 それぞれの抱くもの
五、おじゃま虫
しおりを挟む見廻りの仕事から外された千珠は、手持ち無沙汰な昼下がりの時間を過ごしていた。
暇ならば剣術指南の仕事へ回ればいいのだが、なんだかそんな気分にもなれず、忍寮の二階にある座敷に寝転び、窓の格子の向こうに広がる薄曇りの空を見上げていた。
須磨浮丸。
ああいった、憎しみのこもった視線を浴びせられるのは、久しぶりだった。
——弟を、夜顔に……か。そりゃ、許せないよな。
俺だって、槐がもし誰かの手にかかってしまったら、一体どういう行動に出るか分からない。でも槐は一度、すでに夜顔に殺されそうになっている。あの時は何も思わなかったが、あそこで槐をもし、夜顔に殺されていたら……。自分の行動はまるで反対方向へと向かっていたに違いない。
しかし、なぜ俺をあんな目で睨みつけたんだろう。
俺が夜顔を逃したということを、何かしら嗅ぎつけているのだろうか……。
それとも同じ半妖である俺のことを、夜顔と重ねて見ているのか?
「兄上? ここにおいででしたか」
ひょいと階段の登り口から槐が顔を出した。思案にふけっていた千珠は、はっとして槐の方へ顔を向ける。
弟。大声では言えない、この家族の絆。
浮丸がもしこれを知ったら、一体何を思うだろう。千珠はふとそんな事を考えて、しばらく黙って槐の顔を見つめていた。
「兄上?」
槐は怪訝な表情を浮かべると、登り口から二階へと上がり込み、千珠の元まで四つ這いでやってきた。
「……槐。佐為はどうした?」
「よおく眠っておられます。今は須磨さまと緒川さまがお側についておいでで」
「そっか……。お前は今回、表向きどういった理由でこの国に来たんだ」
千珠のどこか張り詰めた口調に、槐は少しばかり不安げな顔をすると、おずおずとこう言った。
「僕は神祇省長官の息子です。そんなに優秀なほうじゃありませんけど……。だから、佐為さまのお供について歩き、色々なものを見て学ぶのもよいだろうという業平様のお口添えで、ここへ参りました」
「なるほど、業平様が」
「はい。……兄上、怒っておいでなのですか?」
「え?」
槐は不安げな顔を今度は悲しげな顔に変化させて、千珠から目をそらす。
「僕が、何の知らせもなく突然ここへ来たから……」
「何言ってんだ、そんなわけないだろ」
千珠はひょいと身体を起こして槐に向き直ると、その頭をくりくりと撫でた。槐は負けん気の強そうなくるりとした目を揺らして、千珠を見上げる。
「怒ってなんかないよ。俺は会えて嬉しい。ただでさえ……名乗り出れるかどうかも分からなかった関係なのに、こうしてお前から俺を兄上と呼んでくれるようになるなんて,思ってもみなかったしな」
「……本当ですか」
槐は頬を上気させて、にっこりと笑った。千珠も弟のそんな笑顔を見て、微笑む。
「でも、この秘密は何よりも重いぞ。お前はそれに耐えられるか? 父上と、お前と、俺の人生、全てのかかった重い秘密だ」
「大丈夫です! 僕、誰にも言っていないよ」
「これからも、ずっと黙ってないといけないんだよ」
「うん、分かっています。絶対内緒にしておく」
「そっか」
千珠はまた微笑んで、ぽんぽんと槐の頭を軽く叩く。くすぐったそうな笑顔を見せて嬉しそうに笑う槐を見ていると、心の中の不安がすっと掻き消えていくようだった。
「みんなの前では、兄上と呼んではいけないよ、いいな」
「はい、千珠さま」
「よし」
千珠は再び座敷にごろりと横になった。すると槐も、それを真似るように千珠の隣に横になって、空を見上げた。
「わぁ、空がよく見えますね」
「だろ。生憎今日は天気が悪いが、夜もなかなかいい景色なんだ」
「へぇ」
「都から見える空も同じだよ。お前も向こうで何か辛いことがあったら、こうして空を見上げてみな。俺もおんなじ事をしているかもしれないよ」
「うん!」
二人が寝転がって話をしていると、今度は登り口から舜海が顔を出した。剣術指南の仕事が終わったらしい。
「何や、昼寝か?」
「……寝てない。見廻りから今日は外されているから、暇なだけだ」
と、千珠はぶっきらぼうにそう言った。槐との時間を邪魔されて、いささか腹を立てているのである。
「せっかく槐が来てんねやから、家族水入らずで過ごせという柊の心配りやろ」
舜海は座敷に上がり込んであぐらをかくと、湯を浴びてきたらしい、濡れた髪を手ぬぐいでごしごしと拭っている。
「お前がいると水入らずにならないんだが」
「おお、そりゃ失敬」
「何か用か?」
「今夜、俺は緒川淳之介と夜明かしや。少しまわりを警戒する」
舜海はそれだけ言うと、千珠をじっと見つめた。舜海の言わんとする事を理解した千珠は、首だけ起こして舜海の方を向いた。そして肘枕をすると、千珠は「そうか」とだけ言って、軽く頷く。
今夜は、千珠が人間の姿になる、満月の夜だ。
結界術・不知火と、佐為ら陰陽師がこの国にいるということで、普段よりもずっと守りは厚い。しかしさらに、舜海は淳之介を使って何かを調べようとしているらしい。
「……頼む」
「おう」
二人の短いやり取りを、槐は転がったまま不思議そうに見上げていた。そして、ふと口を開く。
「お二人は、それだけでお互い何を言いたいかが分かるのですか?」
「え? ああ、まあな」
と、千珠は多少眠たそうな目になってきた槐を見下ろして微笑んだ。
「すごいなぁ。仲がいいんですね」
「別に良くはない」
即座にきっぱりそう言った千珠を見て、舜海が渋い顔をした。
「そないはっきり言わんでもいいやん、可愛げのない」
「お前に可愛いとか言われたくないな。気持ち悪い」
「一言多いねん、お前は。最近また口が悪うなったな。いっときは気遣いというものを覚えたように見えたのに」
「そんなことない。五月蝿いな、もう」
「兄上も舜海さまなんかと喧嘩するんですね」
と、槐が物珍しそうにそう言った。
「おい、舜海さまなんかとはどういう意味やねん」
舜海はぴきりと額に青筋を浮かべて、更に仏頂面になる。千珠は可笑しげに笑うと、ばしばしと畳を叩いて腹を抱えた。
「あははははっ、なめられたもんだな、お前も。仕方ないか、お前は俺のお付きなんだし」
「お付きちゃうわ、ど阿呆。俺はお前の手下になった覚えはあらへん」
「苦しゅうない、もっと近う寄れ。俺の隣に寝てもいいぞ」
千珠はにやにやしながら舜海をからかった。槐は千珠がそんな軽口を叩くのを、また物珍しげに見上げている。
「お断りや。お前の近くで寝たりしたら、何されるか分からへんし」
つんとそんな事を言う舜海を、千珠はむっとした顔で睨んだ。
「お前に言われたくないんだけど」
「いっつも物欲しそうにしてんのはお前やろ」
「だ、誰がお前のことなんか……!」
槐の鳶色の瞳がしげしげと自分を見上げていることにようやく気づいた千珠は、はとして口を噤んだ。
舜海も冷静さを取り戻したらしい、ごほんと咳払いをして手ぬぐいを首に引っ掛ける。
「……兄上も、そんなお顔をなさるのですね」
「え?」
「舜海さまといると、寛いだお顔になる」
「こいつは馬鹿だからな」
「黙れ、この野郎」
「なんだ、やるのか」
「やったろうやないかい、表出ろ」
「いつものごとく、負けて吠えづらかいても知らないからな」
「誰が吠えづらなんかかくか。槐の前でお前を這いつくばらせてやるわ」
がば、と千珠が身を起こすと、舜海も勢いづいて立ち上がる。睨み合う二人を下から見上げていた槐は、わくわくとした目つきになって立ち上がった。
「喧嘩ですか!? すごい! 兄上の戦っているところ、見てみたいです!」
「よおく見とけ、この馬鹿が俺に負けるとこをな」
と、千珠は不遜な笑を浮かべてそう言い切る。
「はんっ、偉そうに。泣いても知らんからな」
と、舜海は腕組みをしてにやりと笑う。
「誰が泣くか、変なこと言うな」
「うっさいな、泣き虫」
「なんだと」
尚も言い合いをしながら階段を降りていく二人を、槐は笑顔で追いかけていった。
暗い顔をしていた千珠が、明るい表情になったことに、槐は安堵していた。そしてそれが舜海のおかげであるということも、よく分かっていた。
二人は本当にお互いを信頼しあっている、そして互いの力を認めている。
いつになく子供っぽくむきになっている兄の姿を見ることができて、槐はそれも嬉しかった。
幼い頃に兄弟げんかでもしていたら、いくらでもこんな千珠の姿を見ることができていただろうが、それは到底叶わぬことだ。
槐は本当に表で殴り合いを始めた二人に声援を送りながら、いつも兄と一緒にいられる舜海を、少しばかり羨ましく思った。
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