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第一章 日常と、予兆
一、鮫退治
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能登国の雷燕の事件から、一年が経った。
丸一年、平和に時が流れて、青葉の民は穏やかに日々の営みを繰り返している。
千珠は十九になった。
背が少し伸びて、中性的だったその姿は、少しずつ男らしさを備え始めている。
長い銀髪を高い場所で結い上げ、黒い忍装束に身を包んだ千珠は、腰に片手を当てて砂浜に立ち、じっと海を見ていた。
その隣には相棒の竜胆が同じ姿勢で立っている。
そして更にその隣には、朝飛の姿もあった。
「……鮫、ですねぇ」
「鮫だな」
「……」
三人は、漁場に入り込んだ大きな生き物を観察しているのである。
漁師を束ねる惣五郎から、浅瀬に迷い込んだ大きな鮫をどうにかして欲しいと頼まれたのだ。海面から除く鋭角の背びれは間違いなく鮫であり、しかもかなりの大きさであった。
その大きさからか、漁場から出るに出られず、ぐるぐると舟の近くを泳ぎ回っているのだ。浅瀬の方まで近づいてくることもあってかなり危険であり、おちおち船も出せやしないと惣五郎は言った。漁師たちも皆、あまりの大きさに腰が引けているのだとも。
「漁師なら、自分たちで何とかすればいいのに」
と、竜胆がぼやく。千珠はその言葉を受けて頷いた。朝飛は腕組みをしながら、他人事のようにこう言った。
「まぁ、いいんちゃいますか。鮫の肉は臭くて食べられへんけど、鰭や皮は色々なもんに加工できる。大事な資源を刈り取って差し上げたら」
そして、千珠の肩をぽんと叩く。
「さぁ、千珠さま。一太刀でお願いします」
「え、俺が?」
朝飛は正義感が強くまっすぐな男ではあったが、極度に面倒くさがりなところのある男だ。頭巾と口布から見える目だけで、千珠をちらりと見る。
「俺は昨晩からの仕事を終えて帰るとこなもんで」
「ったく……。ついでに片付けてから帰れよ」
「いやぁ、ついでっていう大きさでもないでしょ?」
朝飛は命じられた仕事はきっちりとこなすが、それ以外のことは手を出さない主義でもある。千珠は肩をすくめると、一人ざぶざぶの浅瀬の中を沖へと歩く。
自分の指先を少し切り、ぽた、ぽたと血を数滴海の中に落とすと、すぐに鮫が近寄ってくる気配が感じられた。
ぐるぐると自分目掛けて不気味に近づいてくる鮫の背びれを見下ろしながら、千珠は海砂を蹴って波の中へ飛び込んだ。
「あっ!」
竜胆が怯えたような声を出す。朝飛はじっと腕組みをしたままそんな光景を見ている。
千珠は海中で目を開き、自分に向かってくる鮫の姿を捉えると、ぐっと手に力を込めて鉤爪を鋭くした。
鋭く並んだ歯を見せつけながら、鮫が勢い良く襲いかかってきた瞬間、千珠は左手で尖った鮫の頭に爪を立て、押さえこむ。
鮫の泳ぐ勢いに逆らうことなく流されつつ、千珠はじっと表情のない鮫の目を見据えた。
そして、空いた右手の爪を唸らせると、鮫の首をざっくりと一太刀で切り離した。
巨大な鮫の身体が、ゆるゆると惰性で流される。その後もくもくと血煙を立てながらゆっくりと海上に浮かび上がり、千珠が切り離した頭も、その手を離れてぷっかりと海上に顔を出した。
浜のほうで見物をしていた漁師たちから歓声が上がり、皆がわらわらと鮫の方へと船を進めてきた。
千珠は水をかいて海上に顔を出すと、血と脂の浮いた海面から逃れるように、浜の方へと泳ぐ。
「お見事」
のん気に拍手をしている朝飛を脇目に、竜胆は浜へ上がってくる千珠に手を貸した。
「さすがですね。うわ、血まみれだ」
全身に、鮫の血と脂が身体にまとわりついていた。千珠はそんな自分の身体を見下ろすと、肌に貼りつく装束の上着を脱ぎ始める。
「あいつに恨みはないが、迷い込んできたのが運の尽きだったな」
と言いながら、千珠は上着をぎゅっと絞った。
袖のない鎖帷子から覗く白い腕に海水の粒が光る。引き締まった身体は華奢にも見えるが、千珠の力は人間とは比べ物にならないほど強いのだ。
半妖の鬼。
そんな恐ろしい存在でありながら、千珠の姿はどこまでも美しく、見る者を魅了してやまなかった。千珠はすっかりと人の中に溶け込み、当たり前のように人間を護っている。
朝飛は歩み寄って、千珠に手拭いを投げ寄越した。千珠はそれを受け取ると、髪の毛をばさばさと拭う。
「お疲れ様です。そんな姿じゃ、午後からつらいでしょ。一旦俺と城へ戻りましょうか」
と、朝飛は言った。
千珠は手拭いの隙間から朝飛を見ると、
「……そうだな、着替えたいし」
と、言った。
「今日は鮫の処理で終わりそうですから、もう俺ひとりでもいいですよ」
と、竜胆。
「そうか? まぁ、なんかあったらすぐ呼べよ」
千珠は濡れた衣をもう一度羽織って帯を締めると、すでに歩き始めた朝飛の後を追って走り始める。
「ありがとうございます! 千珠さま!」
「いやぁ、助かったよ」
「今日もきれいだな!」
浜に残っていた漁師たちが、わらわらと千珠に近寄って声をかけた。皆笑顔で、恐れることもなく千珠の肩や背中を叩く。
千珠は少し笑ってみせると、さっさと木々の間を走り始めた朝飛を追って、すぐにその場から姿を消した。その素速さに感心したらしい漁師たちから、歓声が上がる。
「いやぁー、すげぇな! 本物は初めて見た」
「おれもだ。いやほんとに、強いのなんのって」
「しかもあんなに綺麗な男は見たこと無いよな。俺の娘より万倍もべっぴんだ」
漁師たちはそんな事を言い合いながら海へ入っていくと、鮫を引き揚げる仕事に取り掛かった。
丸一年、平和に時が流れて、青葉の民は穏やかに日々の営みを繰り返している。
千珠は十九になった。
背が少し伸びて、中性的だったその姿は、少しずつ男らしさを備え始めている。
長い銀髪を高い場所で結い上げ、黒い忍装束に身を包んだ千珠は、腰に片手を当てて砂浜に立ち、じっと海を見ていた。
その隣には相棒の竜胆が同じ姿勢で立っている。
そして更にその隣には、朝飛の姿もあった。
「……鮫、ですねぇ」
「鮫だな」
「……」
三人は、漁場に入り込んだ大きな生き物を観察しているのである。
漁師を束ねる惣五郎から、浅瀬に迷い込んだ大きな鮫をどうにかして欲しいと頼まれたのだ。海面から除く鋭角の背びれは間違いなく鮫であり、しかもかなりの大きさであった。
その大きさからか、漁場から出るに出られず、ぐるぐると舟の近くを泳ぎ回っているのだ。浅瀬の方まで近づいてくることもあってかなり危険であり、おちおち船も出せやしないと惣五郎は言った。漁師たちも皆、あまりの大きさに腰が引けているのだとも。
「漁師なら、自分たちで何とかすればいいのに」
と、竜胆がぼやく。千珠はその言葉を受けて頷いた。朝飛は腕組みをしながら、他人事のようにこう言った。
「まぁ、いいんちゃいますか。鮫の肉は臭くて食べられへんけど、鰭や皮は色々なもんに加工できる。大事な資源を刈り取って差し上げたら」
そして、千珠の肩をぽんと叩く。
「さぁ、千珠さま。一太刀でお願いします」
「え、俺が?」
朝飛は正義感が強くまっすぐな男ではあったが、極度に面倒くさがりなところのある男だ。頭巾と口布から見える目だけで、千珠をちらりと見る。
「俺は昨晩からの仕事を終えて帰るとこなもんで」
「ったく……。ついでに片付けてから帰れよ」
「いやぁ、ついでっていう大きさでもないでしょ?」
朝飛は命じられた仕事はきっちりとこなすが、それ以外のことは手を出さない主義でもある。千珠は肩をすくめると、一人ざぶざぶの浅瀬の中を沖へと歩く。
自分の指先を少し切り、ぽた、ぽたと血を数滴海の中に落とすと、すぐに鮫が近寄ってくる気配が感じられた。
ぐるぐると自分目掛けて不気味に近づいてくる鮫の背びれを見下ろしながら、千珠は海砂を蹴って波の中へ飛び込んだ。
「あっ!」
竜胆が怯えたような声を出す。朝飛はじっと腕組みをしたままそんな光景を見ている。
千珠は海中で目を開き、自分に向かってくる鮫の姿を捉えると、ぐっと手に力を込めて鉤爪を鋭くした。
鋭く並んだ歯を見せつけながら、鮫が勢い良く襲いかかってきた瞬間、千珠は左手で尖った鮫の頭に爪を立て、押さえこむ。
鮫の泳ぐ勢いに逆らうことなく流されつつ、千珠はじっと表情のない鮫の目を見据えた。
そして、空いた右手の爪を唸らせると、鮫の首をざっくりと一太刀で切り離した。
巨大な鮫の身体が、ゆるゆると惰性で流される。その後もくもくと血煙を立てながらゆっくりと海上に浮かび上がり、千珠が切り離した頭も、その手を離れてぷっかりと海上に顔を出した。
浜のほうで見物をしていた漁師たちから歓声が上がり、皆がわらわらと鮫の方へと船を進めてきた。
千珠は水をかいて海上に顔を出すと、血と脂の浮いた海面から逃れるように、浜の方へと泳ぐ。
「お見事」
のん気に拍手をしている朝飛を脇目に、竜胆は浜へ上がってくる千珠に手を貸した。
「さすがですね。うわ、血まみれだ」
全身に、鮫の血と脂が身体にまとわりついていた。千珠はそんな自分の身体を見下ろすと、肌に貼りつく装束の上着を脱ぎ始める。
「あいつに恨みはないが、迷い込んできたのが運の尽きだったな」
と言いながら、千珠は上着をぎゅっと絞った。
袖のない鎖帷子から覗く白い腕に海水の粒が光る。引き締まった身体は華奢にも見えるが、千珠の力は人間とは比べ物にならないほど強いのだ。
半妖の鬼。
そんな恐ろしい存在でありながら、千珠の姿はどこまでも美しく、見る者を魅了してやまなかった。千珠はすっかりと人の中に溶け込み、当たり前のように人間を護っている。
朝飛は歩み寄って、千珠に手拭いを投げ寄越した。千珠はそれを受け取ると、髪の毛をばさばさと拭う。
「お疲れ様です。そんな姿じゃ、午後からつらいでしょ。一旦俺と城へ戻りましょうか」
と、朝飛は言った。
千珠は手拭いの隙間から朝飛を見ると、
「……そうだな、着替えたいし」
と、言った。
「今日は鮫の処理で終わりそうですから、もう俺ひとりでもいいですよ」
と、竜胆。
「そうか? まぁ、なんかあったらすぐ呼べよ」
千珠は濡れた衣をもう一度羽織って帯を締めると、すでに歩き始めた朝飛の後を追って走り始める。
「ありがとうございます! 千珠さま!」
「いやぁ、助かったよ」
「今日もきれいだな!」
浜に残っていた漁師たちが、わらわらと千珠に近寄って声をかけた。皆笑顔で、恐れることもなく千珠の肩や背中を叩く。
千珠は少し笑ってみせると、さっさと木々の間を走り始めた朝飛を追って、すぐにその場から姿を消した。その素速さに感心したらしい漁師たちから、歓声が上がる。
「いやぁー、すげぇな! 本物は初めて見た」
「おれもだ。いやほんとに、強いのなんのって」
「しかもあんなに綺麗な男は見たこと無いよな。俺の娘より万倍もべっぴんだ」
漁師たちはそんな事を言い合いながら海へ入っていくと、鮫を引き揚げる仕事に取り掛かった。
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