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第三章 能登にて
六、加勢
しおりを挟む雷燕は表情ひとつ変えずに、じっとその矢を見据えていた。
千珠を覆い隠していた片翼を開くことによって生み出された旋風が、ごおっという風なりの音を響かせながら、数千の矢をも薙ぎ払う。
跳ね除けられた矢の一本一本が黒い炎に包まれ、一瞬にして灰燼と化し、ぼろぼろと崩れながら消えた。
佐為は目を瞠った。
「お前らは、人間か。……ん、お前はよく分からないが……そんな術を使うところを見ると、人間に飼い慣らされているようだな」
雷燕は佐為と風春を見て、憎々しい表情を浮かべた。
「人間風情が、この俺に刃を向けるとは。愚かしいにも程がある!!」
雷燕が喝を飛ばしただけで、佐為と風春の身体は吹き飛ばされた。その激しい怒りを目の当たりにしたせいか、見物を決め込んでいた紅玉の眉が微かに動く。
「やめろ……」
雷燕に抱え込まれていた千珠が、思わず声を上げた。千珠は雷燕の懐の中で数珠を外すと、抜刀の勢いで雷燕の腹を斬り裂いた。
「こいつらに手を出すな!!」
「ぐっ……っ!!」
不意をつかれた雷燕は、とっさに千珠を突き飛ばして身を庇う。吹き飛ばされた千珠は、空中でくるりと体勢を整えると、佐為たちの前で膝をつき着地した。
そして、宝刀を顔の前で横一文字に構える。
雷燕の腹が裂け、どくどくと赤黒い血が流れ出す。ぬるりとした鮮血を指で掬い、雷燕はぎらぎらと怒りに満ちた目で千珠を睨みつけた。
「……おのれ、何をする。人間を庇い立てするとは……」
「お前に何が分かる! 俺の気持ちなど……お前に分かるはずがない!!」
千珠は雷燕に向かって怒鳴った。その顔は険しく、尚も涙が流れている。
「知ったような口を、きくな!!」
千珠は地を蹴って、雷燕に斬りかかった。雷燕は苛立ちを顕にし、両の翼を大きく広げた。
「この、餓鬼が」
雷燕の翼から、数千の黒い羽が千珠に向かって鋭く放たれた。千珠は宝刀を回転させながらその羽根を防ぎ、一旦着地して間合いを図ろうとした。
しかし攻撃の全てを防ぎきれるはずもなく、鋭い刃のような羽は千珠の腕や脚に深く傷を付けた。白い狩衣が裂け、血が飛び散る。
「……ぐっ……!」
雷燕にたどり着くこともできず、千珠は血を流しながら地面に崩れ堕ちた。傷口を押さえて雷燕を見上げる。
「俺の物にならぬのなら、今ここで死ね」
雷燕の手が、千珠に伸びる。
鋭い爪の生えた大きな手が、ゆっくりと自分の首にかかろうとする様を、まるで他人事のように感じながら。
しかし、訪れたのは戒めではなかった。
ふわ、と甘い香りが千珠を包み込む。
瞬きをした瞬間、千珠の目の前に赤い着物の裾が翻った。
「もうおよしよ。雷燕」
紅玉が、雷燕と千珠の間に割って入ったのだ。雷燕の手が、ぴたりと止まる。
「あんた、一体どうしたっていうんだい? こんな小物にまで苛々するなんて、あの優美で偉大だったあんたは、どうしちまったのさ」
紅玉は、雷燕をじっと見据えてそう言った。二人の妖は、まっすぐに視線をぶつけたまま、止まった。
「邪魔をするな」
雷燕の冷ややかな声に、紅玉はぴくりと眉を動かす。
「あのね、こいつはあたしが先に目を付けた獲物だよ。あとから出てきたあんたにくれてやる義理はないんだ」
「……お前も、こいつらを庇うのか」
「他の二人は知ったこっちゃないよ。でもね、この千珠は、あたしのもんだ。あんたが持って行くなんて許さない」
「……ほだされたか、こんな小鬼に」
「やかましいね。あんたがこんなに荒れているとは思いもよらなかったよ、見苦しい」
「何だと」
再び、雷燕の黒い翼が大きく開かれた。紅玉はじっと雷燕を見上げたまま、煙を吐く。
「昔の雄大で美しかったあんたは、一体どうしまったんだろうねぇ……」
雷燕の目の色が変わり、禍々しい妖気の矛先が紅玉へと向けられる。
「……いけない!」
千珠が紅玉に手を伸ばそうとした瞬間、背後から膨大な霊気が発せられるのを感じた。
「陰陽砂塵結界術! 急急如律令!」
大量の砂や土を巻き上げながら、巨大な竜巻が雷燕を包み込んだ。
千珠は真っ赤な着物の裾を掴んで引き寄せると、紅玉を庇うようにしてその場から飛び退る。
「くそ……!! 忌々しい、陰陽師どもがぁ……!!」
砂塵に巻き上げられながら、雷燕の叫びが地を揺らす。千珠は紅玉の上に覆いかぶさり、その砂嵐と地鳴りに耐えた。
雷燕は一声咆哮を上げ、その砂塵の壁を一気に突き破り、黒い翼をはためかせながら海の方へと逃れていった。
術が消え、突然辺りはしんとなった。術の反動で割れた大地と、砂で覆われた廃村が後に残る。風の音と波の音だけが、何ごともなかったかのように辺りを包んでいた。
千珠が顔を上げると、もうもうと立ち上る土煙の向こうに、佐為が倒れこんでいるのが見えた。
その回りには、見慣れた黒装束の男たちが数人、膝をついて荒い息をしている。間一髪、陰陽師衆の応援部隊が到着したらしい。
千珠はぱっと海のほうを見た。黒い影はすでになく、雷燕の気配は、すっかりと消えていた。
ふと、もぞつくものを感じて腕の中を見下ろす。すると、紅玉が頬を染めつつぱちぱちと瞬きを繰り返しながら千珠を見上げていた。
「あたしを守ってくれたのかい?」
と、紅玉ははにかむように微笑んだ。
「……お前が、先に守ってくれたから……さっさと借りを返しただけだ」
素っ気なく千珠はそう言って、すぐに紅玉から手を離すと、倒れ込んでいる佐為の元へと駆け寄る。
「……やっぱり男のほうがいいんだね」
と、紅玉は名残惜しげに呟いた。
「佐為! 佐為!」
千珠に抱え上げられた佐為は、ぐったりとしていた。
「何故、こんなことに?」
千珠が風春に尋ねると、風春も疲れ果てた顔で応えた。
「さっきの攻撃は、佐為が主軸となって発動させたので、力を使い果たしたのでしょう。そうでもしなければ、一時的にしろ奴を退けられなかった」
「……そうか」
千珠は佐為の白い顔を見つめて、その肩をぎゅっと強く抱き寄せた。
「そして、混乱の中、この術を使うのが良いだろうと助言をくれたのは……」
ふと、風春が言葉を切った。
千珠らの周りに立ち並ぶ黒装束の男たちをかき分けて、一人の男が目の前に立つ。
千珠はその足元を見て、ふいと顔を上げた。
その表情が、一瞬にして硬くなる。
「……舜海」
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