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第一章 狂いゆく
五、黒く染まる
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その頃、具合の優れない千珠は、宇月と二人で自室の縁側にいた。
鬼の力が戻ったおかげで幾分元気にはなっていたものの、気が澱み、ぴりぴりと神経質になっている。それが自分でも分かるため、千珠は穏やかな心持ちでいようと努めて気を宥めているのである。
宇月は何も言わず、庭先で遊ぶ雀たちを眺める千珠のそばにいてくれた。それが嬉しくもあり、逆に早く一人になりたくもあり、千珠は両極に揺れる気持ちを持て余す。
「……雀って、可愛いよな」
ぽつりと、千珠はそんな事を言った。宇月がこちらを見たことが、空気の動きで分かる。
「なんかさ、丸くて小さくて。お前みたいだな」
「……はぁ。雀に例えられたのは始めてでございます」
「……だよな。……っ」
「千珠さま、どうされたのですか?」
鋭い痛みに、目の前が真っ白になる。全てが眩しすぎて、目から入った光が頭の中を焦がすようだ。
「あ、……くそっ……!!」
「千珠さま!?」
千珠は頭を抱えて、その場に蹲って縮こまる。
――くそっ……なんだ、この痛みは。それに……何だろう、何でこんなにも、宇月を疎ましく感じるのだ……。
背中を擦る宇月の暖かな手の感触、労るような高い声、それらの何もかもが、嘘臭く欺瞞に満ちたものに思われて、苛立ちと怒りが跳ね上がる。
千珠は虚ろに尖った瞳を上げて、宇月を見た。その目線を受け止めて、宇月は怯えたように手を引っ込める。
千珠の瞳は明るい琥珀色だが、今のその目の中には、明らかに黒い影が蠢いている。
宇月は、小刻みに身体を震わせながら、後退った。しかしその瞬間千珠は宇月に飛びかかり、目にも止まらぬ速さで、小さな身体を畳の上に押し倒していた。
「きゃ……!」
あっさりと宇月を組み敷いた千珠は、表情のない目で宇月の怯えた顔を見下ろす。
「千珠さま! どうしたのですか!」
「……お前は、どうして俺の物にならない」
「え……!?」
自分のものとは思えぬほどの低い声が、憎々しげにそんなことを言った。
身体が勝手に動き、口が勝手に宇月を責める。
か細い手首を握り締める手には容赦はなく、みしみしと骨が軋む。宇月は痛みに顔を歪めた。
「痛……! やめてください……!」
「何故、俺を拒むのだ。この俺を……!」
「は、離して!!」
「お前を喰ってやろう。言う通りにならないのなら、生かしておくだけ無駄というもの」
千珠は人よりも鋭い犬歯を獣のように剥き、邪悪に笑った。赤い唇を釣り上げて、舌なめずりをする。
「俺の血肉となり、一つになれば良い」
宇月の襟元を乱暴に開き、細い首筋を顕にさせた。白い柔肌に、千珠の唾液が滴る。宇月は恐怖のあまり目を見開き、動くことが出来ぬ様子だ。
「千珠さま! いやです!! やめて!!」
そんな叫びなど気にも留めず、まさに宇月の首筋に食らいつこうとした。しかしその瞬間、千珠の動きがぴたりと止まった。
その隙に、宇月は身を起こして素早く千珠から離れた。
「あ……ううぅ……くそ……!」
その場に四つん這いになり、頭を押さえて千珠は呻いた。宇月ははだけた着物の前をかき合わせ、怯えた眼で千珠を見ている。
「っっ……あっ……何で……こんな……!」
「千珠さま……?」
千珠は頭を押さえたまま、顔をゆっくりと上げた。
そこには、いつもの千珠の瞳があった。痛みに顔をしかめながらも、宇月を気遣う視線が確かにある。
「……宇月、行け。俺から離れろ……今の俺、何をするかわからない……。早く! 行け!!」
宇月はあいも変わらず怯えた顔で立ち上がると、そのまま走って部屋を出た。
千珠は痛みにくらむ目をぎゅっと瞑ると、その場に仰向けに転がった。見慣れた天井がぐるぐると回って、吐き気がする。
「はぁ……はぁ……こんなに、重い憎しみとは……」
夜顔の憎しみが、千珠の心を黒く染めてゆく。千珠は耳飾りに触れ、乱れる呼吸を整えようと深呼吸をした。
――外へ、出たい……。もっと、人のいない静かな所へ……。
千珠はふらりと立ち上がると、脂汗を流しながら庭へ出た。
そして、ひょいと城壁を飛び越え、城の外へと出ていってしまった。
✿
急いで舜海を連れてきた宇月だったが、部屋にはすでに千珠の姿はなかった。
「一体どこへ……! あんな状態で外に出るのは、危険ですのに……!」
宇月は珍しく焦りをあらわにして、部屋や庭を見回していた。裸足で庭へ飛び出す宇月について降りると、舜海はその肩に触れた。
「おい、落ち着け。お前らしくもない」
「……しかし、私がついていながら千珠さまをあんな……」
「お前は女や。あいつの取った行動に怯えるのはしゃあないことや。お前のせいじゃない」
「でも……」
「俺が探してくるから。な。お前はここで待っとけ。お前だけは、千珠をちゃんと待っといてやれ」
「……はい」
宇月はしゅんとなって、舜海の言葉に頷いた。舜海は城壁を仰ぎ見て、千珠の気を辿ろうとした。そして、庭木を頼りに城壁の上へ登る。
その隣に、突如柊が現れた。
「うわ! お前どっから湧いてん! 虫か!」
「千珠さまがおらへんくなったって?」
舜海の問は無視して、柊は頭巾の下から鋭い視線であたりを見回す。
「ああ。お前も探してくれ」
「はいよ。見つけたら、ここじゃなく廃寺へ連れて行くからな。城は人が多すぎる。今の千珠さまを、あまり人目に晒したくない」
「せやな」
二人は逆の方向に飛び降りると、千珠を探して走り始めた。
鬼の力が戻ったおかげで幾分元気にはなっていたものの、気が澱み、ぴりぴりと神経質になっている。それが自分でも分かるため、千珠は穏やかな心持ちでいようと努めて気を宥めているのである。
宇月は何も言わず、庭先で遊ぶ雀たちを眺める千珠のそばにいてくれた。それが嬉しくもあり、逆に早く一人になりたくもあり、千珠は両極に揺れる気持ちを持て余す。
「……雀って、可愛いよな」
ぽつりと、千珠はそんな事を言った。宇月がこちらを見たことが、空気の動きで分かる。
「なんかさ、丸くて小さくて。お前みたいだな」
「……はぁ。雀に例えられたのは始めてでございます」
「……だよな。……っ」
「千珠さま、どうされたのですか?」
鋭い痛みに、目の前が真っ白になる。全てが眩しすぎて、目から入った光が頭の中を焦がすようだ。
「あ、……くそっ……!!」
「千珠さま!?」
千珠は頭を抱えて、その場に蹲って縮こまる。
――くそっ……なんだ、この痛みは。それに……何だろう、何でこんなにも、宇月を疎ましく感じるのだ……。
背中を擦る宇月の暖かな手の感触、労るような高い声、それらの何もかもが、嘘臭く欺瞞に満ちたものに思われて、苛立ちと怒りが跳ね上がる。
千珠は虚ろに尖った瞳を上げて、宇月を見た。その目線を受け止めて、宇月は怯えたように手を引っ込める。
千珠の瞳は明るい琥珀色だが、今のその目の中には、明らかに黒い影が蠢いている。
宇月は、小刻みに身体を震わせながら、後退った。しかしその瞬間千珠は宇月に飛びかかり、目にも止まらぬ速さで、小さな身体を畳の上に押し倒していた。
「きゃ……!」
あっさりと宇月を組み敷いた千珠は、表情のない目で宇月の怯えた顔を見下ろす。
「千珠さま! どうしたのですか!」
「……お前は、どうして俺の物にならない」
「え……!?」
自分のものとは思えぬほどの低い声が、憎々しげにそんなことを言った。
身体が勝手に動き、口が勝手に宇月を責める。
か細い手首を握り締める手には容赦はなく、みしみしと骨が軋む。宇月は痛みに顔を歪めた。
「痛……! やめてください……!」
「何故、俺を拒むのだ。この俺を……!」
「は、離して!!」
「お前を喰ってやろう。言う通りにならないのなら、生かしておくだけ無駄というもの」
千珠は人よりも鋭い犬歯を獣のように剥き、邪悪に笑った。赤い唇を釣り上げて、舌なめずりをする。
「俺の血肉となり、一つになれば良い」
宇月の襟元を乱暴に開き、細い首筋を顕にさせた。白い柔肌に、千珠の唾液が滴る。宇月は恐怖のあまり目を見開き、動くことが出来ぬ様子だ。
「千珠さま! いやです!! やめて!!」
そんな叫びなど気にも留めず、まさに宇月の首筋に食らいつこうとした。しかしその瞬間、千珠の動きがぴたりと止まった。
その隙に、宇月は身を起こして素早く千珠から離れた。
「あ……ううぅ……くそ……!」
その場に四つん這いになり、頭を押さえて千珠は呻いた。宇月ははだけた着物の前をかき合わせ、怯えた眼で千珠を見ている。
「っっ……あっ……何で……こんな……!」
「千珠さま……?」
千珠は頭を押さえたまま、顔をゆっくりと上げた。
そこには、いつもの千珠の瞳があった。痛みに顔をしかめながらも、宇月を気遣う視線が確かにある。
「……宇月、行け。俺から離れろ……今の俺、何をするかわからない……。早く! 行け!!」
宇月はあいも変わらず怯えた顔で立ち上がると、そのまま走って部屋を出た。
千珠は痛みにくらむ目をぎゅっと瞑ると、その場に仰向けに転がった。見慣れた天井がぐるぐると回って、吐き気がする。
「はぁ……はぁ……こんなに、重い憎しみとは……」
夜顔の憎しみが、千珠の心を黒く染めてゆく。千珠は耳飾りに触れ、乱れる呼吸を整えようと深呼吸をした。
――外へ、出たい……。もっと、人のいない静かな所へ……。
千珠はふらりと立ち上がると、脂汗を流しながら庭へ出た。
そして、ひょいと城壁を飛び越え、城の外へと出ていってしまった。
✿
急いで舜海を連れてきた宇月だったが、部屋にはすでに千珠の姿はなかった。
「一体どこへ……! あんな状態で外に出るのは、危険ですのに……!」
宇月は珍しく焦りをあらわにして、部屋や庭を見回していた。裸足で庭へ飛び出す宇月について降りると、舜海はその肩に触れた。
「おい、落ち着け。お前らしくもない」
「……しかし、私がついていながら千珠さまをあんな……」
「お前は女や。あいつの取った行動に怯えるのはしゃあないことや。お前のせいじゃない」
「でも……」
「俺が探してくるから。な。お前はここで待っとけ。お前だけは、千珠をちゃんと待っといてやれ」
「……はい」
宇月はしゅんとなって、舜海の言葉に頷いた。舜海は城壁を仰ぎ見て、千珠の気を辿ろうとした。そして、庭木を頼りに城壁の上へ登る。
その隣に、突如柊が現れた。
「うわ! お前どっから湧いてん! 虫か!」
「千珠さまがおらへんくなったって?」
舜海の問は無視して、柊は頭巾の下から鋭い視線であたりを見回す。
「ああ。お前も探してくれ」
「はいよ。見つけたら、ここじゃなく廃寺へ連れて行くからな。城は人が多すぎる。今の千珠さまを、あまり人目に晒したくない」
「せやな」
二人は逆の方向に飛び降りると、千珠を探して走り始めた。
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