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第一章 都へと呼ばわれ
九、背中
しおりを挟む槐は、もはや霧なのか土煙なのか分からぬ闇の中を進むうち、東本願寺の境内へと迷い込んだ。
そしてそこで、生まれてこの方聞いたこともないような悲鳴を耳にした。頭では恐ろしいと思いながらも、そちらに向かって脚が進んでいくのを止められなかった。
生臭い匂いと、何かが焦げたような匂い。それらが合わさった不快な臭気に鼻を突かれ、思わず両手で鼻口を覆う。
一寸先すら見えぬ霧の向こうでは、世にも恐ろしいことが起こっている。それは、分かる。
でも、恐怖に勝る好奇心に突き動かされ、槐はじりじりとその渦中へと足を踏み入れてしまったのだ。視界が悪く、境内の中に数多転がる遺骸を見ることがなかったのは、不幸中の幸いであろうか。
一歩踏み込んで、察知した。
姿は見えぬが、昂った苛烈な妖気がそこにある。
そしてそれが今、まっすぐに槐を狙っている。
そう気づいた時は遅かった。
「あ……ああ」
足がすくんで、まんじりとも動けない。槐はがたがたと震え始めた。霧の向こうに小さくぎらつく双眸に射すくめられ、身体が硬直してしまう。
――ここにいちゃいけない。逃げなきゃ、逃げなきゃいけないのに……! どうしよう、身体が動かない……!
――怖い。怖い。怖い……!!
夜顔は血に濡れた顔を槐に向け、立ち上がった。その拍子に、あたりの霧がほんの少しだけ晴れて、二人は互いの姿を認め合う。
「ひっ……!」
今まで稚児の腹に食らいついていた夜顔の口は、血でべっとりと濡れている。両手、両足、着物、その全てから血を滴らせ、槐の方へぼんやりとした目線を向けている。
――子ども? 僕と同じくらいの……?
――でも、これは人じゃない怖い……怖いよ、父上……!!
夜顔を目にした槐の眼から、涙が溢れ出す。
眼を逸らしてそこから逃げ出したかったのに、こちらを睨みつける小さな影から目が離せない。脚も、動かない。
――殺される。
槐は死の恐怖を感じた。それは紛れも無く、今の自分に刻一刻と迫る危機。
じゃり、じゃりと足音を立てて、夜顔は槐に近づいてきた。その足は段々と早くなり、夜顔は一直線に槐へと突っ込んできた。
――殺される!!
まさにその手に掛かろうかという瞬間、槐は堪らずに目を閉じた。
しかし、思っていたような痛みは槐に襲って来なかった。
涼やかな風とともに、ふわりと仄かに甘い、花のような香りが漂う。
きぃぃん……と金属同士が触れ合うような音。誰かが自分の前に立っていることに気づく。恐る恐る目を開き見上げると、編笠の痩躯な男が自分の前に立ちはだかっている姿が見えた。
この背中。
編笠から流れ落ちる、銀色の光。
きりきり、と均衡した力がぶつかり合う音。
ぼんやりと青白く光る刀を振りかざし、夜顔の拳を食い止めている頼もしい背中。
――千珠、さま……?
弾かれたように夜顔は後ろに飛び退って、その場から離れた。
ちゃり、と刀の鍔鳴りが聞こえ、槐は我に返った。
「槐、大丈夫か?」
聞き覚えのある声。
振り向いた横顔は、夜闇の中でも浮かび上がる白い肌、さらりと流れ落ちる長い銀髪。
「……あ、う」
「下がっていろ、危険だ」
「……なんで……?」
腰が抜けてしまい、槐はその場にへたり込んだ。
千珠はすぐさま槐を抱え上げ、東本願寺をぐるりと囲む土塀の後ろに跳ぶと、そこにそっと槐を下ろす。
「動くなよ」
そう言い残し、千珠は再び境内の中へと飛び込んでいった。
――助けに来てくれた……。
千珠の落ち着いた声と覚えのある力強い妖気に安堵し、槐はそのまま気を失ってしまった。
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