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第二幕 ー呪怨の首飾りー
一、初夏
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青葉の国、初夏。
穏やかな瀬戸内の気候に守られた、豊かな国。三津國城内にも、きらきらと眩しい初夏の陽光に輝く葉桜が景色を彩り、そこで暮らし働く人々の表情を明るくする。
青葉の棟梁たる大江光政にも世継ぎが生まれ、城の中には子どものいる明るさや高揚感に満ちている。
先の大戦から一年、青葉の国は平和を保ち続け、国政は潤い人々の生活には穏やかさと笑顔が戻っていた。この国の未来を憂うものは誰一人としておらず、幸福な未来が透けて見えるような麗らかな春の日である。
❀
今日も、赤子の世話に追われる乳母たちの足音が響き渡り、元気な泣き声が響く。
生まれて間もない嫡男の名は、光喜。両親や乳母、そして家臣たちに見守られながらすくすくと育つ、健やかなる赤子だ。
舜海は、そんな微笑ましくも賑やかな声に耳を傾けながら、道場の縁側で昼寝をしていた。ぽかぽかと暖かい日差しの中、身の脇に錫杖を置いて頭の後ろで腕を枕にし、うとうとと鍛錬の後の一休みにありついているところだ。
舜海は齢十九になった。
戦での功績や皆が認めるその剣術の腕前から、僧侶としての名を賜っているにも拘らず、若い兵を育てる役割を担っている。
相変わらず髷は結わず、無造作に伸ばした硬い黒髪はあちこち好き勝手な方向を向いており、伸びた前髪の下からは押しの強そうな、はっきりとした眼力のある目が覗く。見る者によってはその目つきの悪さから恐ろしげな印象を与えかねないのであるが、本人は至って鷹揚な男である。
義の為ならば殺生も厭わないという、生臭坊主としての立場を貫く舜海は、着崩した黒衣を身に纏い、飄々と日々を過ごしていた。
「舜海さま、起きてください」
一人の青年が、書簡を持って舜海の脇に立っている。舜海より二つ三つ年下の若い門弟である。舜海はうっすら眼を開けて、その男を見ると、ぐっと伸びをして起き上がった。
「何や?」
「うわ、どうされたのですか? その額の湿布は」
「ほっとけ。で、何やって?」
今朝方千珠に投げ飛ばされた時、額を強かに壁に打ち付けたのである。そんなことは、人に言えるはずもない。
「町の道場からの、試合の申し入れでございます。いかがされますか?」
「ふーん」
書簡を受け取り、中を改めながら舜海は唸った。
「ええよ、受けて立とうや」
「分かり申した。ではそのように返答しておきます」
「おう、頼むわ」
舜海はもう一度伸びをして、頭をわしわしと掻いた。着崩した衣から、逞しい胸筋がのぞく。
「やれやれ、賑やかやな」
舜海は城の中から響く子どもの泣き声に耳を傾け、笑みを浮かべながら再び横になろうとした。
「おい、そこの暇人」
光政の妹であり、この国の忍頭である留衣が、珍しく女らしい小袖姿でこちらに歩いて来る。舜海は物珍しいものを見るような目つきになると、肘枕をした。
「お、今日は仕事着じゃないんか。なかなか女らしく見えんで」
「黙れ」
どうやら機嫌が悪いらしい。
留衣は、今年で齢十七になる。褐色にも近いよく日に焼けた肌は艶やかであり、ずいぶんと女らしくなった体つきや、光政に似て意志の強そうな大きな目は華やかで、忍として動くには多少目立つようになってきた。
光政としては、そろそろ留衣にも縁談をと思っているのだが、留衣には一切その気もないらしく、相変わらず町を護る任に飛び回っているのである。戦の終わったこの時代、忍達はもっぱら町の警護を担っていた。
「今日は義姉上の客人をもてなさなければならぬから、こんな格好をしているだけだ」
留衣は気怠げにそう言った。金糸雀色地に薄黄緑や橙色の花の散る、可憐な絵柄だ。
普段は黒尽くめの忍装束に身を包み、髪を結い上げているのだが、今日は長い髪を下ろしているためずいぶんと女らしい。
「お前もいつもそんな格好をしてりゃ、嫁の貰い手も引く手数多なんちゃうか」
「五月蝿いぞ。私は嫁ぐ気はないと何度も言っているであろうが」
「はいはい、そうやったそうやった。で、何の用や?」
「兄上がお呼びだ。客人が来られるゆえ、警護のことを聞きたいそうだ」
「お、そうか。すぐ行く」
舜海は立ち上がり草履をつっかけると、本丸の方へと進んだ。舜海が歩くたびに、錫杖がしゃらしゃらと涼しげな音を立てる。
「そういえば千珠はどこに?」
横を歩く留衣に問う。
「一緒だったんじゃないのか?」
「稽古の時はおったけど、その後見てへんな」
「また水浴びでもしてるんじゃないか? 稽古の後はいつも人間臭いからと言って、水を浴びているじゃないか」
「あ、せやな。じゃあ井戸か」
千珠もまた、その強さを後続に伝えるために、舜海と共に若い兵の鍛錬にあたるようになっていた。白珞族に伝わる剣術を指南するという役回りである。
只人とは身のこなしや素速さに歴然とした差があるものの、根は相当真面目な千珠であるから、努めて真剣にその勤めに励んでいた。
先の戦における伝説的な強さを知らぬ者はおらず、またその人離れした美しい容姿は、周りの者に近寄り難さを感じさせずにはいられなかった。しかし、舜海の橋渡しのおかげもあり、初めは遠巻きに恐れを含んだ目で千珠を見ていた若者たちも、徐々に千珠と馴染み始めている。
そして千珠自身も、少しずつ人の世に慣れてきているように見える今日この頃であった。
穏やかな瀬戸内の気候に守られた、豊かな国。三津國城内にも、きらきらと眩しい初夏の陽光に輝く葉桜が景色を彩り、そこで暮らし働く人々の表情を明るくする。
青葉の棟梁たる大江光政にも世継ぎが生まれ、城の中には子どものいる明るさや高揚感に満ちている。
先の大戦から一年、青葉の国は平和を保ち続け、国政は潤い人々の生活には穏やかさと笑顔が戻っていた。この国の未来を憂うものは誰一人としておらず、幸福な未来が透けて見えるような麗らかな春の日である。
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今日も、赤子の世話に追われる乳母たちの足音が響き渡り、元気な泣き声が響く。
生まれて間もない嫡男の名は、光喜。両親や乳母、そして家臣たちに見守られながらすくすくと育つ、健やかなる赤子だ。
舜海は、そんな微笑ましくも賑やかな声に耳を傾けながら、道場の縁側で昼寝をしていた。ぽかぽかと暖かい日差しの中、身の脇に錫杖を置いて頭の後ろで腕を枕にし、うとうとと鍛錬の後の一休みにありついているところだ。
舜海は齢十九になった。
戦での功績や皆が認めるその剣術の腕前から、僧侶としての名を賜っているにも拘らず、若い兵を育てる役割を担っている。
相変わらず髷は結わず、無造作に伸ばした硬い黒髪はあちこち好き勝手な方向を向いており、伸びた前髪の下からは押しの強そうな、はっきりとした眼力のある目が覗く。見る者によってはその目つきの悪さから恐ろしげな印象を与えかねないのであるが、本人は至って鷹揚な男である。
義の為ならば殺生も厭わないという、生臭坊主としての立場を貫く舜海は、着崩した黒衣を身に纏い、飄々と日々を過ごしていた。
「舜海さま、起きてください」
一人の青年が、書簡を持って舜海の脇に立っている。舜海より二つ三つ年下の若い門弟である。舜海はうっすら眼を開けて、その男を見ると、ぐっと伸びをして起き上がった。
「何や?」
「うわ、どうされたのですか? その額の湿布は」
「ほっとけ。で、何やって?」
今朝方千珠に投げ飛ばされた時、額を強かに壁に打ち付けたのである。そんなことは、人に言えるはずもない。
「町の道場からの、試合の申し入れでございます。いかがされますか?」
「ふーん」
書簡を受け取り、中を改めながら舜海は唸った。
「ええよ、受けて立とうや」
「分かり申した。ではそのように返答しておきます」
「おう、頼むわ」
舜海はもう一度伸びをして、頭をわしわしと掻いた。着崩した衣から、逞しい胸筋がのぞく。
「やれやれ、賑やかやな」
舜海は城の中から響く子どもの泣き声に耳を傾け、笑みを浮かべながら再び横になろうとした。
「おい、そこの暇人」
光政の妹であり、この国の忍頭である留衣が、珍しく女らしい小袖姿でこちらに歩いて来る。舜海は物珍しいものを見るような目つきになると、肘枕をした。
「お、今日は仕事着じゃないんか。なかなか女らしく見えんで」
「黙れ」
どうやら機嫌が悪いらしい。
留衣は、今年で齢十七になる。褐色にも近いよく日に焼けた肌は艶やかであり、ずいぶんと女らしくなった体つきや、光政に似て意志の強そうな大きな目は華やかで、忍として動くには多少目立つようになってきた。
光政としては、そろそろ留衣にも縁談をと思っているのだが、留衣には一切その気もないらしく、相変わらず町を護る任に飛び回っているのである。戦の終わったこの時代、忍達はもっぱら町の警護を担っていた。
「今日は義姉上の客人をもてなさなければならぬから、こんな格好をしているだけだ」
留衣は気怠げにそう言った。金糸雀色地に薄黄緑や橙色の花の散る、可憐な絵柄だ。
普段は黒尽くめの忍装束に身を包み、髪を結い上げているのだが、今日は長い髪を下ろしているためずいぶんと女らしい。
「お前もいつもそんな格好をしてりゃ、嫁の貰い手も引く手数多なんちゃうか」
「五月蝿いぞ。私は嫁ぐ気はないと何度も言っているであろうが」
「はいはい、そうやったそうやった。で、何の用や?」
「兄上がお呼びだ。客人が来られるゆえ、警護のことを聞きたいそうだ」
「お、そうか。すぐ行く」
舜海は立ち上がり草履をつっかけると、本丸の方へと進んだ。舜海が歩くたびに、錫杖がしゃらしゃらと涼しげな音を立てる。
「そういえば千珠はどこに?」
横を歩く留衣に問う。
「一緒だったんじゃないのか?」
「稽古の時はおったけど、その後見てへんな」
「また水浴びでもしてるんじゃないか? 稽古の後はいつも人間臭いからと言って、水を浴びているじゃないか」
「あ、せやな。じゃあ井戸か」
千珠もまた、その強さを後続に伝えるために、舜海と共に若い兵の鍛錬にあたるようになっていた。白珞族に伝わる剣術を指南するという役回りである。
只人とは身のこなしや素速さに歴然とした差があるものの、根は相当真面目な千珠であるから、努めて真剣にその勤めに励んでいた。
先の戦における伝説的な強さを知らぬ者はおらず、またその人離れした美しい容姿は、周りの者に近寄り難さを感じさせずにはいられなかった。しかし、舜海の橋渡しのおかげもあり、初めは遠巻きに恐れを含んだ目で千珠を見ていた若者たちも、徐々に千珠と馴染み始めている。
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