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第五章 消えぬ迷い
七、過去との別れ
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この風景が、大好きだった。
谷が見渡せて、風の気持ちのいいこの場所は、千珠と紫皇がよく過ごした馴染みの場所だ。
千珠はあたりを見回す。気の早い秋桜が咲き乱れた高台の丘にも、清らかな風が吹いている。天高くに昇った白い太陽の光を受けて秋桜の花々がきらきらと輝く様は、まるで夢の中のように美しいと思った。
よく二人で腰掛けて無駄話をしていた崖先に来ると、千珠は風に靡く銀髪を手で押さえながら、誰もいないその場所に向かって呼びかけた。
「紫皇、いるんだろう? 出てきてくれ」
祈るように呟いたその声が、何かに反射したような気がした。振り返ってみると、薄鼠色の狩衣を身に纏う白い鬼が、咲き乱れる秋桜の中に佇んでいた。
がっしりとして上背のある身体つきは、千珠よりも二回りは大きいだろうか。その手にある鉤爪も、千珠のそれよりもずっと大きく、鋭く、禍々しいものだ。
ばっさりと刈った短い銀髪が、風に靡くようにふわふわと揺れる。そして、狼のように鋭い銀色の二つの目が、待ち侘びていたかのように千珠を捉えた。
紫皇は不遜な笑みを浮かべ、腰に片手を当てる。
『よぉ。元気そうだな』
「紫皇、俺……」
『お前が自分を責める必要はないからな。俺たちはお前を恨んだりなんかしてねぇ。むしろ、こうやってまた俺たちのことを覚えていてくれるお前が生き残って、救われてる』
千珠の目から大粒の涙がいくつもいくつも、零れた。声が出なかった。ただ、紫皇の姿が懐かしく、その声が心に染みた。
『何情けない顔してんだよ。しゃきっとしろ』
紫皇は少し困ったような笑みを浮かべて、千珠の頭に手を乗せた。
感触はなくとも、紫皇の暖かさが、千珠に伝わってくる。
「……ありがとう。お前に、俺はたくさんたくさん救われた。もっと、お前と一緒にいたかった」
紫皇は笑った。暖かい手を、千珠の頬へ当てる。
『ありがとう、か。お前からそんな言葉聞くなんてな。安心した』
「お前に会えてよかった。本当だ」
千珠は泣きながら、しかし紫皇から目を逸らさずにそう言った。紫皇も少し目を細めて眉を寄せ、涙ぐんでしまいそうになるのを堪えるような表情を浮かべる。
『俺もだ。お前と過ごした時間、本当に楽しかったぞ』
目を合わせて微笑み合う二人の間に、またさらさらとした清い風が吹き抜けてゆき。それが合図かのように、紫皇の姿が光に溶けはじめた。
千珠は、息を呑む。
「行くのか?」
『ああ、時間みたいだな』
「寂しい、もんだな」
『いい言葉覚えたじゃねぇか』
紫皇は笑った。千珠もつられて少し微笑む。
『お前はもう大丈夫だな。安心してあの世へゆける』
「……紫皇」
『千珠、最後に会えて嬉しかったぜ。達者でな……』
紫皇の姿が、光の泡となって消えてゆく。
千珠は脱力して膝をつき、その場に泣き崩れた。
優しい風が、千珠の頬を撫でてゆく。
秋桜のそよぐ高台で、千珠はその場所を抱きしめるように草原に頬を寄せ、声を上げて泣いた。
❀
遅れて舜海が白珞族の谷へ姿を現した。
千珠の足には追いつけるはずもなく、半日遅れて馬でここまでやって来たのだ。
京からは馬で二日かかる道程であるのだが、急ぎ供養したいと言って駆け出てしまった千珠のため、寝ずに馬を駆ってここまで来た。
そう、白珞族を供養するために、舜海はここへ赴いたのである。
光政は政で来ることができないため、千珠を無事に連れ帰ることも命じられていた。
舜海は錫杖を地面に突き立てると、数珠を手に合掌し、読経を始めた。辺りに漂っていた微かな思念がふわふわと空気に溶けてゆく感覚を肌に感じながら、魂が鎮まってゆくまで経を読み上げる。
千珠の姿はどこにもなかった。
妖気を辿って、舜海は高台のほうへ歩いていく。
そこは秋桜が咲き誇る、見事な眺めの高台だった。豊かな山々が見渡せる、とても風の気持ちのいい場所である。
舜海は山間に沈みゆく見事な夕日を眺め、その美しい風景に感嘆の溜息をついた。橙色に暮れゆく空は、既に少しずつ夜の帳が下りつつあり、頭上には群青色の天蓋が空を覆い始めている。
切り立った崖のほうへ歩を進めて、舜海ははっとした。千珠が地面に仰向けに横たわっている。
「千珠! おい、どないしてん!?」
千珠は赤く腫れた目を閉じて、そこに寝転んでいた。駆け寄りかけたものの、そんな千珠の姿に近寄りがたさを感じ、少し離れた場所から遠慮がちに声をかける。
「千珠? なあ、大丈夫か?」
「ああ……大丈夫だ」
千珠は目を開き空を見上げて、弱々しい声でそう言った。茜色の夕日を受けて、千珠の姿はひどく脆く見えた。
「別れを、言えたよ」
「……そうか」
のろのろと起き上がった千珠の声には力がなく、こちらを見ようとしない。
「供養は?」
「終わったで」
「ありがとう……な」
「法師やからな、俺」
「生臭だけどな」
普段のような千珠の台詞に、舜海は少し笑う。
「そういう口はきけんねんな」
千珠は、振り返って弱弱しく微笑んだ。
「泣いてたんか」
「ちょっとだけ、な。別れが悲しくて」
「……そうやな」
「舜海……俺のことを、少しでいいから、抱いていてくれないか?なんだか、身体がばらばらになりそうなんだ」
千珠は、目に涙を浮かべてそう言った。
「あ。ああ……」
舜海はどきりとしつつも、それを悟られぬように努めて無表情を装いながら千珠に近づき、肩を抱く。
「好きなだけ泣いたらええ」
千珠は舜海にしがみついて、声を殺して泣いた。
舜海は震える千珠を抱きしめ、長い銀髪を梳いてやる。
千珠の嗚咽が、舜海の胸に重く響く。
全ての始まりの、故郷。
そして、全てが終わった、この場所。
「もう故郷へ戻ることはない……」
千珠は呟く。
舜海は掛ける言葉が見つからぬまま、ただ千珠を抱きしめていた。
谷が見渡せて、風の気持ちのいいこの場所は、千珠と紫皇がよく過ごした馴染みの場所だ。
千珠はあたりを見回す。気の早い秋桜が咲き乱れた高台の丘にも、清らかな風が吹いている。天高くに昇った白い太陽の光を受けて秋桜の花々がきらきらと輝く様は、まるで夢の中のように美しいと思った。
よく二人で腰掛けて無駄話をしていた崖先に来ると、千珠は風に靡く銀髪を手で押さえながら、誰もいないその場所に向かって呼びかけた。
「紫皇、いるんだろう? 出てきてくれ」
祈るように呟いたその声が、何かに反射したような気がした。振り返ってみると、薄鼠色の狩衣を身に纏う白い鬼が、咲き乱れる秋桜の中に佇んでいた。
がっしりとして上背のある身体つきは、千珠よりも二回りは大きいだろうか。その手にある鉤爪も、千珠のそれよりもずっと大きく、鋭く、禍々しいものだ。
ばっさりと刈った短い銀髪が、風に靡くようにふわふわと揺れる。そして、狼のように鋭い銀色の二つの目が、待ち侘びていたかのように千珠を捉えた。
紫皇は不遜な笑みを浮かべ、腰に片手を当てる。
『よぉ。元気そうだな』
「紫皇、俺……」
『お前が自分を責める必要はないからな。俺たちはお前を恨んだりなんかしてねぇ。むしろ、こうやってまた俺たちのことを覚えていてくれるお前が生き残って、救われてる』
千珠の目から大粒の涙がいくつもいくつも、零れた。声が出なかった。ただ、紫皇の姿が懐かしく、その声が心に染みた。
『何情けない顔してんだよ。しゃきっとしろ』
紫皇は少し困ったような笑みを浮かべて、千珠の頭に手を乗せた。
感触はなくとも、紫皇の暖かさが、千珠に伝わってくる。
「……ありがとう。お前に、俺はたくさんたくさん救われた。もっと、お前と一緒にいたかった」
紫皇は笑った。暖かい手を、千珠の頬へ当てる。
『ありがとう、か。お前からそんな言葉聞くなんてな。安心した』
「お前に会えてよかった。本当だ」
千珠は泣きながら、しかし紫皇から目を逸らさずにそう言った。紫皇も少し目を細めて眉を寄せ、涙ぐんでしまいそうになるのを堪えるような表情を浮かべる。
『俺もだ。お前と過ごした時間、本当に楽しかったぞ』
目を合わせて微笑み合う二人の間に、またさらさらとした清い風が吹き抜けてゆき。それが合図かのように、紫皇の姿が光に溶けはじめた。
千珠は、息を呑む。
「行くのか?」
『ああ、時間みたいだな』
「寂しい、もんだな」
『いい言葉覚えたじゃねぇか』
紫皇は笑った。千珠もつられて少し微笑む。
『お前はもう大丈夫だな。安心してあの世へゆける』
「……紫皇」
『千珠、最後に会えて嬉しかったぜ。達者でな……』
紫皇の姿が、光の泡となって消えてゆく。
千珠は脱力して膝をつき、その場に泣き崩れた。
優しい風が、千珠の頬を撫でてゆく。
秋桜のそよぐ高台で、千珠はその場所を抱きしめるように草原に頬を寄せ、声を上げて泣いた。
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遅れて舜海が白珞族の谷へ姿を現した。
千珠の足には追いつけるはずもなく、半日遅れて馬でここまでやって来たのだ。
京からは馬で二日かかる道程であるのだが、急ぎ供養したいと言って駆け出てしまった千珠のため、寝ずに馬を駆ってここまで来た。
そう、白珞族を供養するために、舜海はここへ赴いたのである。
光政は政で来ることができないため、千珠を無事に連れ帰ることも命じられていた。
舜海は錫杖を地面に突き立てると、数珠を手に合掌し、読経を始めた。辺りに漂っていた微かな思念がふわふわと空気に溶けてゆく感覚を肌に感じながら、魂が鎮まってゆくまで経を読み上げる。
千珠の姿はどこにもなかった。
妖気を辿って、舜海は高台のほうへ歩いていく。
そこは秋桜が咲き誇る、見事な眺めの高台だった。豊かな山々が見渡せる、とても風の気持ちのいい場所である。
舜海は山間に沈みゆく見事な夕日を眺め、その美しい風景に感嘆の溜息をついた。橙色に暮れゆく空は、既に少しずつ夜の帳が下りつつあり、頭上には群青色の天蓋が空を覆い始めている。
切り立った崖のほうへ歩を進めて、舜海ははっとした。千珠が地面に仰向けに横たわっている。
「千珠! おい、どないしてん!?」
千珠は赤く腫れた目を閉じて、そこに寝転んでいた。駆け寄りかけたものの、そんな千珠の姿に近寄りがたさを感じ、少し離れた場所から遠慮がちに声をかける。
「千珠? なあ、大丈夫か?」
「ああ……大丈夫だ」
千珠は目を開き空を見上げて、弱々しい声でそう言った。茜色の夕日を受けて、千珠の姿はひどく脆く見えた。
「別れを、言えたよ」
「……そうか」
のろのろと起き上がった千珠の声には力がなく、こちらを見ようとしない。
「供養は?」
「終わったで」
「ありがとう……な」
「法師やからな、俺」
「生臭だけどな」
普段のような千珠の台詞に、舜海は少し笑う。
「そういう口はきけんねんな」
千珠は、振り返って弱弱しく微笑んだ。
「泣いてたんか」
「ちょっとだけ、な。別れが悲しくて」
「……そうやな」
「舜海……俺のことを、少しでいいから、抱いていてくれないか?なんだか、身体がばらばらになりそうなんだ」
千珠は、目に涙を浮かべてそう言った。
「あ。ああ……」
舜海はどきりとしつつも、それを悟られぬように努めて無表情を装いながら千珠に近づき、肩を抱く。
「好きなだけ泣いたらええ」
千珠は舜海にしがみついて、声を殺して泣いた。
舜海は震える千珠を抱きしめ、長い銀髪を梳いてやる。
千珠の嗚咽が、舜海の胸に重く響く。
全ての始まりの、故郷。
そして、全てが終わった、この場所。
「もう故郷へ戻ることはない……」
千珠は呟く。
舜海は掛ける言葉が見つからぬまま、ただ千珠を抱きしめていた。
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