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第五章 消えぬ迷い
五、赦しの涙
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千珠は髪を結い上げて編笠を被り、旅人のようななりに身をやつした。それでも充分人目を引いてしまうため、二人は馬で町中を一気に駆け抜けてきた。
加茂川まで出てくると、馬を降りて河原を歩くことにした。
豊かな水を湛え、緩やかに流れる川には、清々しい朝の風が吹いている。既に季節は夏から秋へと傾き始め、湿った熱気を孕んでいた夏の風ではなく、さらりと乾いた爽やかな風が辺りを吹き抜けてゆく。
川岸では子どもたちが遊びまわっており、久方振りに平和な風景を目に出来た。それは、千珠にとっては嬉しいことであった。
「これが加茂川や。どうや、千珠」
「ああ、気持ちいいもんだな」
二人はゆっくりと、上流に向かって歩く。
「お前はいつから光政に仕えてるんだ?」
ふと、千珠はそんなことを舜海に尋ねた。
「俺か? 子どもの頃からや。一緒に武道も学んだ仲なんやで。昔から逞しいお人やったな」
「ふうん」
「な、なんでそんなん急に聞くんや?」
「別に。……何だ? 赤い顔して」
「べ、別に」
ふと、柊に聞いた話が思い出されて、舜海はちょっと顔を赤らめてしまう。
「留衣は忍の修業を小さい頃からしとったから、ほとんど別々に暮らしててん。それでも、会えば必ず兄上兄上ってまとわりついて、仲いい兄弟やったよ。今も仲いいけど」
「へえ」
「俺は家族がいいひんから、羨ましかったな。せやし、家族みたいに扱ってもらえて、嬉しかった。一生この方に仕えようって思ったんや」
「お前も一人なのか?」
千珠はちょっと驚いて、舜海の横顔を見た。
「あぁ。戦でな」
「そうなのか」
「まあ、このご時世やしな。そう珍しいことでもないねん。これから自分で家族を作ればいいことやし」
「なるほどなぁ。家族を作る、か」
「お前も人間の嫁さんもろたらええやん。半々妖になって、もっと血が薄まって、子孫は人間になるんちゃう?せや、花音を嫁にもらえや」
「鬼なんて、いなくていいからな」
「いやそうは言わへんけど……」
「人間にとって、鬼なんて恐ろしい生き物だろ。いないに越したことはない」
「……けどお前がおることで、俺らは平和な暮らしを取り戻せた。大事なことや」
舜海は立ち止まって、そう言った。
いつもと違う大真面目な口調に、千珠は振り返って舜海を見る。
「お前の力なんやで。お前は戦で殺した人数以上に、平和に暮らす人らを守ったんや」
守ったんや……その言葉が、千珠の心を包み込む。
「え!? どないしたん? 何泣いてんねん! 俺、なんかいらんこと言うてもうたかな」
千珠の目から幾筋も涙が溢れ出したことに仰天した舜海は、慌てて千珠に近寄る。
「守れたのかな……。俺のしたこと、意味があったのかな」
半妖という存在、人間と妖鬼という存在の狭間で、人を斬ることに葛藤しながらも、千珠はずっとその意味を考え続けていた。
ここに存在する意味を、千珠はずっと捜し求めてきた。
ただ敵を斬り殺すためだけに存在する恐ろしい鬼として、戦場にあらねばならなかった自分。
それを受け入れつつも、どうしても心の底から拭い去れずにいた、”人を殺したくない”という葛藤。
成果は出した。戦に勝った。目的は達した。これでいいのだ、戦なのだから。
しかし後に残ったのは、罪悪感のみ。
そんな自分が、もっと多くのものを護れたというのなら。意味のあることを、成せたのだというのなら……。
千珠は川岸に座り込み、肩を震わせて涙を流し続けた。
「ずっとずっと、悩んでたんか?」
「五月蝿い」
鼻の頭を真っ赤にして、千珠は泣いていた。
それはいつもの研ぎ澄まされた刃のような千珠の姿ではなく、年相応の少年のように見えた。
「俺は、自分の仲間を守れなかった……。俺を育ててくれた人も、仲間も、誰も救えなかったんだ」
「お前かて僧兵に追われて瀕死の重傷やったやないか。そないに自分を責めんでもええやん」
千珠は首をかぶりを振って、うつむいた。
「俺は純血じゃないから、僧兵から一番逃れやすかったんだ。だから助かった。あそこで引き返してでも、みんなを助けにいけてたら……って、後悔するんだ。いつもいつも……」
「そうか。けどな、俺は仕方なかったと思うで」
「仕方なくなんかない! 俺があそこで逃げてなければ……」
「皆が助かったとでも言うんか?」
ぴしりとした口調で、舜海は千珠にそう言った。千珠は驚いて舜海を見上げる。
「お前が助けに戻ったところで、白珞族を滅ぼしたほどの相手や、お前一人でどうこうできたと思うか?」
「……」
千珠はなんともいえない表情で、川面に目線を移す。
「おそらく、お前も殺されてた。白珞族はほんまに滅亡してたやろうな。けど、お前はこうやって助かって、今ここにおるんや。そして、多くの平和な暮らしを守った。お前がおらへんかったら戦はもっと長引いてたやろう。皆どんだけ辛い目におうてたか……」
舜海は言葉を切って、千珠を見た。
「人は皆、その人生の中で、それぞれ果たすべき役目みたいなもんを持ってるんちゃうかって、俺は昔から思っててな」
「役目?」
「そうや。お前の役目は、人間の守りとなることやと思う。そのためにお前は生き延び、殿のような優しいお方に仕えることになった。お前が救えなかった仲間たちも、きっと今の千珠を見れば、喜ぶと思うで」
川面に、仲間たちの顔が、浮かんでは消える気がした。
皆の表情は明るく、決して千珠に恨みをもつような目をしてはいなかった。思い出されるのは、楽しかったことばかり。
母の顔、父の顔、祖父の顔。紫皇の皮肉っぽい笑顔。
「紫皇……」
千珠は、旧友の名を呟いた。久方ぶりに自らの声で音となった紫皇の名は、千珠の心に静かに染みた。
千珠はかつての友のことを、舜海に話すことにした。何だか、舜海には聞いて欲しいと思ったのだ。
「白珞族の谷では、生涯の相棒となる修業相手を幼いころに決めるんだ。俺の相棒は紫皇って名で、ちょっとお前に似てる奴だった」
「へぇ。相方がおるんか。俺に似てるっちゅうことは、さぞかし男前やったんやろなぁ」
舜海はひとりでうんうん、と頷く。
「お前に似て、頭はぼさぼさで粗野で乱暴で血の気が多くて、口の減らない暑苦しい男だった」
「喧嘩売ってんのかお前は」
こめかみに青筋を立てる舜海には目もくれず、千珠は平然と続ける。
「でも、目に力のある、意志の強い男だった。半妖であるがゆえに、しょっちゅう虐められていた俺の存在を決して軽く流したり否定したりしない、大きい奴だった」
「へえ」
「そこも、お前と少し似ている」
千珠は舜海に、少しだけ微笑んだ。
もう涙は止まり、目元が赤くなっている。そんな見たこともない千珠の情感のこもった素顔に、舜海は不覚にも少しどきりとしてしまった。
「俺よりずっと強かったのに、死んでしまった。もうこの世にはいないんだな……」
「そう、やな」
「今やっと、そのことを理解できた気がする。ずっと一緒だったから、認めることができなかった」
草むらから、小さな羽虫がふわふわと飛び立つ。川の流れをじっと見つめながら、千珠はそう呟いた。
「滅ぼされた仲間の分まで、他の誰かを……お前の言う平和な暮らしとやらを守れたのなら、これで良かったのかもしれないな」
「あぁ、俺はそう思う。だからもう、一人でくよくよ悩むなよ。お前は堂々としてたらいいねん」
「うん……」
小さくなって鼻をすすり、目元や鼻を赤くしている千珠は、まるで幼子のように見えた。
それはいつものように舜海たちから距離を置いている醒めた瞳ではなく、感情のある暖かい瞳をしている。
「生臭だが、さすが坊主だな。なんだか赦された気分になった」
「そ、そうか。そら……よかったな」
舜海はしどろもどろになりながらそう答えた。
今、千珠を抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だったからだ。
加茂川まで出てくると、馬を降りて河原を歩くことにした。
豊かな水を湛え、緩やかに流れる川には、清々しい朝の風が吹いている。既に季節は夏から秋へと傾き始め、湿った熱気を孕んでいた夏の風ではなく、さらりと乾いた爽やかな風が辺りを吹き抜けてゆく。
川岸では子どもたちが遊びまわっており、久方振りに平和な風景を目に出来た。それは、千珠にとっては嬉しいことであった。
「これが加茂川や。どうや、千珠」
「ああ、気持ちいいもんだな」
二人はゆっくりと、上流に向かって歩く。
「お前はいつから光政に仕えてるんだ?」
ふと、千珠はそんなことを舜海に尋ねた。
「俺か? 子どもの頃からや。一緒に武道も学んだ仲なんやで。昔から逞しいお人やったな」
「ふうん」
「な、なんでそんなん急に聞くんや?」
「別に。……何だ? 赤い顔して」
「べ、別に」
ふと、柊に聞いた話が思い出されて、舜海はちょっと顔を赤らめてしまう。
「留衣は忍の修業を小さい頃からしとったから、ほとんど別々に暮らしててん。それでも、会えば必ず兄上兄上ってまとわりついて、仲いい兄弟やったよ。今も仲いいけど」
「へえ」
「俺は家族がいいひんから、羨ましかったな。せやし、家族みたいに扱ってもらえて、嬉しかった。一生この方に仕えようって思ったんや」
「お前も一人なのか?」
千珠はちょっと驚いて、舜海の横顔を見た。
「あぁ。戦でな」
「そうなのか」
「まあ、このご時世やしな。そう珍しいことでもないねん。これから自分で家族を作ればいいことやし」
「なるほどなぁ。家族を作る、か」
「お前も人間の嫁さんもろたらええやん。半々妖になって、もっと血が薄まって、子孫は人間になるんちゃう?せや、花音を嫁にもらえや」
「鬼なんて、いなくていいからな」
「いやそうは言わへんけど……」
「人間にとって、鬼なんて恐ろしい生き物だろ。いないに越したことはない」
「……けどお前がおることで、俺らは平和な暮らしを取り戻せた。大事なことや」
舜海は立ち止まって、そう言った。
いつもと違う大真面目な口調に、千珠は振り返って舜海を見る。
「お前の力なんやで。お前は戦で殺した人数以上に、平和に暮らす人らを守ったんや」
守ったんや……その言葉が、千珠の心を包み込む。
「え!? どないしたん? 何泣いてんねん! 俺、なんかいらんこと言うてもうたかな」
千珠の目から幾筋も涙が溢れ出したことに仰天した舜海は、慌てて千珠に近寄る。
「守れたのかな……。俺のしたこと、意味があったのかな」
半妖という存在、人間と妖鬼という存在の狭間で、人を斬ることに葛藤しながらも、千珠はずっとその意味を考え続けていた。
ここに存在する意味を、千珠はずっと捜し求めてきた。
ただ敵を斬り殺すためだけに存在する恐ろしい鬼として、戦場にあらねばならなかった自分。
それを受け入れつつも、どうしても心の底から拭い去れずにいた、”人を殺したくない”という葛藤。
成果は出した。戦に勝った。目的は達した。これでいいのだ、戦なのだから。
しかし後に残ったのは、罪悪感のみ。
そんな自分が、もっと多くのものを護れたというのなら。意味のあることを、成せたのだというのなら……。
千珠は川岸に座り込み、肩を震わせて涙を流し続けた。
「ずっとずっと、悩んでたんか?」
「五月蝿い」
鼻の頭を真っ赤にして、千珠は泣いていた。
それはいつもの研ぎ澄まされた刃のような千珠の姿ではなく、年相応の少年のように見えた。
「俺は、自分の仲間を守れなかった……。俺を育ててくれた人も、仲間も、誰も救えなかったんだ」
「お前かて僧兵に追われて瀕死の重傷やったやないか。そないに自分を責めんでもええやん」
千珠は首をかぶりを振って、うつむいた。
「俺は純血じゃないから、僧兵から一番逃れやすかったんだ。だから助かった。あそこで引き返してでも、みんなを助けにいけてたら……って、後悔するんだ。いつもいつも……」
「そうか。けどな、俺は仕方なかったと思うで」
「仕方なくなんかない! 俺があそこで逃げてなければ……」
「皆が助かったとでも言うんか?」
ぴしりとした口調で、舜海は千珠にそう言った。千珠は驚いて舜海を見上げる。
「お前が助けに戻ったところで、白珞族を滅ぼしたほどの相手や、お前一人でどうこうできたと思うか?」
「……」
千珠はなんともいえない表情で、川面に目線を移す。
「おそらく、お前も殺されてた。白珞族はほんまに滅亡してたやろうな。けど、お前はこうやって助かって、今ここにおるんや。そして、多くの平和な暮らしを守った。お前がおらへんかったら戦はもっと長引いてたやろう。皆どんだけ辛い目におうてたか……」
舜海は言葉を切って、千珠を見た。
「人は皆、その人生の中で、それぞれ果たすべき役目みたいなもんを持ってるんちゃうかって、俺は昔から思っててな」
「役目?」
「そうや。お前の役目は、人間の守りとなることやと思う。そのためにお前は生き延び、殿のような優しいお方に仕えることになった。お前が救えなかった仲間たちも、きっと今の千珠を見れば、喜ぶと思うで」
川面に、仲間たちの顔が、浮かんでは消える気がした。
皆の表情は明るく、決して千珠に恨みをもつような目をしてはいなかった。思い出されるのは、楽しかったことばかり。
母の顔、父の顔、祖父の顔。紫皇の皮肉っぽい笑顔。
「紫皇……」
千珠は、旧友の名を呟いた。久方ぶりに自らの声で音となった紫皇の名は、千珠の心に静かに染みた。
千珠はかつての友のことを、舜海に話すことにした。何だか、舜海には聞いて欲しいと思ったのだ。
「白珞族の谷では、生涯の相棒となる修業相手を幼いころに決めるんだ。俺の相棒は紫皇って名で、ちょっとお前に似てる奴だった」
「へぇ。相方がおるんか。俺に似てるっちゅうことは、さぞかし男前やったんやろなぁ」
舜海はひとりでうんうん、と頷く。
「お前に似て、頭はぼさぼさで粗野で乱暴で血の気が多くて、口の減らない暑苦しい男だった」
「喧嘩売ってんのかお前は」
こめかみに青筋を立てる舜海には目もくれず、千珠は平然と続ける。
「でも、目に力のある、意志の強い男だった。半妖であるがゆえに、しょっちゅう虐められていた俺の存在を決して軽く流したり否定したりしない、大きい奴だった」
「へえ」
「そこも、お前と少し似ている」
千珠は舜海に、少しだけ微笑んだ。
もう涙は止まり、目元が赤くなっている。そんな見たこともない千珠の情感のこもった素顔に、舜海は不覚にも少しどきりとしてしまった。
「俺よりずっと強かったのに、死んでしまった。もうこの世にはいないんだな……」
「そう、やな」
「今やっと、そのことを理解できた気がする。ずっと一緒だったから、認めることができなかった」
草むらから、小さな羽虫がふわふわと飛び立つ。川の流れをじっと見つめながら、千珠はそう呟いた。
「滅ぼされた仲間の分まで、他の誰かを……お前の言う平和な暮らしとやらを守れたのなら、これで良かったのかもしれないな」
「あぁ、俺はそう思う。だからもう、一人でくよくよ悩むなよ。お前は堂々としてたらいいねん」
「うん……」
小さくなって鼻をすすり、目元や鼻を赤くしている千珠は、まるで幼子のように見えた。
それはいつものように舜海たちから距離を置いている醒めた瞳ではなく、感情のある暖かい瞳をしている。
「生臭だが、さすが坊主だな。なんだか赦された気分になった」
「そ、そうか。そら……よかったな」
舜海はしどろもどろになりながらそう答えた。
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